それが、どれほど大変だったか。
欲望という自分の中の敵と戦う日々。
自分との戦いは、ここから始まったんです。
給料日。アオイはATMから引き出したばかりの給料を握りしめていた。いつもならこの給料が、月末まで自分と担当ウマ娘たちの生活を支える唯一の命綱だった。家賃、光熱費、水道代、通信費、食費、そしてウマ娘たちのトレーニングに必要な消耗品やサプリメントの購入費……。
それらの支払いに振り分けていくと、あっという間に財布の中身は寂しくなる。そして月末にはいつも、財布の中の小銭を数えながら、次の給料日を待ち侘びる生活だった。
しかし、今日からは違う。やるべきことが出来たからだ。ツムギ老人から渡された、あの小さな布袋。使い古されているが、丁寧に手入れされていることが分かるこれを、今日から活用しなければならない。
『収入の十分の一を、何があってもこの袋に入れ続けろ。これは誰にも触らせてはならぬ、お前さん自身の金だ』
老人の言葉が脳裏に響く。恐る恐る、給料の十分の一にあたる金額を計算し、布袋に入れた。硬貨が布に触れる音、紙幣が重なる音。布袋は微かに重くなったが、現金は目に見えて減った。それは、アオイの心に、物理的な重み以上の圧迫感を与えていた。
「うわぁ……本当に、これだけで一ヶ月生活できるのか?」
残った金額を見て、思わず声が漏れた。ただでさえカツカツだった生活が、さらに厳しくなることを覚悟しなければならない。胃のあたりが、きゅっと締め付けられるような感覚がした。
その日から、アオイの節約生活はさらに拍車がかかった。昼食は学食の一番安いメニューから、さらに質素な自作弁当に変わった。米を炊いて、前日の夕食の残り(もやし炒めなど)を詰めるだけ。彩りも栄養もほとんどない。
コンビニに立ち寄る回数はゼロになり、喉が渇いても自販機ではなく、学園の水道の水を飲むようになった。服も、色褪せたボロボロのジャージとTシャツで十分だ。新しい服を買うなんて、贅沢中の贅沢だった。
とはいえ、自分の事はまだいい。一番辛かったのは、担当ウマ娘たちに関わる部分だった。ステラのスタート練習に必要な特殊なマーカーや、長距離トレーニング用の最新の心拍計。他のウマ娘が欲しがっていた、特定の筋肉に効果があるというストレッチポール。どれもこれも、アオイの予算では高嶺の花だった。彼女たちの「欲しい」という言葉を聞くたびに、アオイの胸は締め付けられた。
今日のトレーニング後、ステラが尋ねてきた。彼女の視線は、隣のチームが使っている最新のスタート練習機に向けられている。鮮やかな色で、ウマ娘の視覚に訴えかけ、スタート時の集中力を高める効果があるらしい。アオイは歯がゆい思いで答えた。
「ごめん、ステラ。今は、その……予算的に厳しくて。手作りのマーカーと、私の経験で、最大限効果が出るように工夫しようと思ってて」
「手作り? ふーん……」
ステラは、露骨に興味を失った顔をした。その表情は、以前の失望の色に加えて、諦めのような影が差しているように見えた。そして、ぽつりと呟いた。
「やっぱり、お金がないと、ダメなのかな。トレーナーが、どれだけ頑張っても……」
その言葉がアオイの胸に深く突き刺さった。そうだ。彼女の言う通りだ。自分の貧乏さが、ステラの才能の芽を摘んでしまうかもしれない。彼女の「勝ちたい」という純粋な願いを、自分の経済的な無力さゆえに踏みにじってしまうかもしれない。それが、アオイにとって何よりも恐ろしく、耐え難いことだった。
他のウマ娘からも、直接不満を聞かされるようになった。
「〇〇トレーナーのところは、新しい施設を使い始めたらしいよ」
「うちも、もっと色々なトレーニングを試してみたいなぁ」
彼女たちの期待に、経済的な理由で応えられない自分が情けなくて、顔を上げられなくなることもあった。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
学園内でも、アオイの貧乏ぶりは拍車をかけて公然の秘密となりつつあった。昼食時、アオイが質素な弁当を広げていると、他のトレーナーたちは、アオイの前で平気で高価な食事の話をしたり、最新のトレーニング機材について自慢げに話したりする。やはり彼らの会話の内容は、アオイの日常とはかけ離れたものばかりだ。彼らの優越感に満ちた視線や、憐れむような眼差しが、アオイに突き刺さる。
「アオイ君、またもやし炒め? それじゃあ、ウマ娘に示しがつかないんじゃないか? トレーナーが貧乏だと、ウマ娘も不安になるだろうに」
ある日、カネモチトレーナーが、アオイの弁当を覗き込んで、嘲笑った。彼の隣には、彩り豊かな高級ステーキ弁当が置かれている。その香りが、アオイの空腹をさらに刺激した。
「……私の勝手でしょう」
アオイは小さく呟いた。反論する気力もなかった。カネモチの言葉は、アオイの最も痛いところを突いてきた。自分の貧乏さが、担当ウマ娘たちに不安を与えている。それは、アオイ自身が一番恐れていたことだった。
「まあ、無理もないか。君の担当ウマ娘、最近全然結果出てないじゃないか。稼ぎが少ないと、担当にも迷惑がかかるからねぇ。才能を腐らせる前に、もっと稼げるトレーナーに担当を変えてもらった方が、彼女たちのためじゃないか? 君には、ウマ娘を一流にするだけの経済力も、能力もないんだよ」
カネモチの言葉は、ナイフのようにアオイの心を切り裂いた。反論したくても、事実を突きつけられては何も言えない。悔しさ、無力感、そして自己嫌悪。アオイはただ俯くしかなかった。カネモチは満足そうに笑い、鼻歌を歌いながら去っていった。彼の足音が遠ざかるにつれて、アオイの心には深い絶望感が広がっていった。
「十分の一貯蓄」を始めてから、生活は苦しくなる一方だった。布袋の中の金は少しずつ増えていくが、それが何になるというのか。目の前のウマ娘たちの期待に応えられないまま、彼女たちに見放されてしまうのではないか。トレーナーとしての未来も閉ざされてしまうのではないか。
「もう、無理かもしれない……」
アオイは、布袋からお金を取り出して、ステラに必要なマーカーや、他のウマ娘が欲しがっていたストレッチポールを買ってしまおうかという誘惑に駆られた。せっかく貯めた金だが、目の前の困難を乗り越えるためには仕方がないのではないか。ウマ娘たちの笑顔を見られるなら、自分の貯蓄などどうでもいい。そんな思いが頭の中を駆け巡った。
■
そんな思いを抱えながら、アオイは再びツムギ老人の元を訪れた。資料館の裏手で、老人は静かにベンチに座っていた。手元には、あの古びた本が置かれている。
「……ツムギさん。やっぱり、私には無理です。十分の一を貯めるなんて、今の私にはあまりにも苦しい。生活はさらに厳しくなるばかりで、担当ウマ娘にも十分なサポートができません。このままでは、彼女たちに見放されてしまうかもしれない……」
アオイは、涙声で正直に打ち明けた。生活がさらに苦しくなったこと、担当ウマ娘に十分なサポートができないこと、そしてお金を使ってしまいたい誘惑に駆られていること。カネモチトレーナーに言われた言葉が、どれほど自分を追い詰めているか。
ツムギ老人は、アオイの憔悴しきった顔を見て、静かに頷いた。その目は、アオイの心の奥底を見透かしているかのようだった。
「うむ、そうだろうな。それは、お前さんの『欲望』が、お前さんの『主人』になっているからだ」
「欲望が、主人?」
アオイは、老人の言葉の意味が分からず、首を傾げた。
「そうだ。ほとんどの人間は、入ってきた金全てを、自分の欲望を満たすために使ってしまう。美味しいものを食べたい、新しい服が欲しい、便利なものが欲しい……欲望は際限がない。それはまるで、飢えた獣のようなものだ。そして、欲望は金という餌を際限なく求める。だから、いくら金があっても足りなくなる。そして、金に命令されるがままに、欲望の奴隷として働くことになる」
老人は静かに語った。アオイは、自分の状況を正確に言い当てられているように感じた。確かに、今の自分は、あれも欲しい、これも必要だと、常に何かに飢えている状態だ。そして、その欲望を満たすために、必死に働いている。しかし、どれだけ働いても、欲望は満たされない。
「だが、富を得る者は違う。彼らは、自分の欲望を『統制』する。欲望を主人とするのではなく、欲望を『奴隷』とするのだ。必要なものと、欲しいものを明確に区別し、必要なものにだけ金を使う。そして、欲しいものは、自分の金が十分に働いてくれるようになるまで我慢するのだ」
「欲望を、統制する……欲望を、奴隷にする……」
アオイは、老人の言葉を反芻した。それは、アオイにとって全く新しい考え方だった。
「そうだ。お前さんの収入の九分は、生活に必要なものを満たすために使うがよい。家賃、食費、光熱費、ウマ娘の育成に必要な最低限の費用。これらは『必要』なものだ。だが、最新のゲーム機、流行の服、毎日の外食、高価な趣味。これらは『欲しい』ものだ。欲望は、お前さんを貧乏に引きずり込む泥沼だ。その泥沼に足を踏み入れてはならぬ」
ツムギ老人は、アオイに小さなノートとペンを渡した。それは、以前アオイが使っていたものよりも、少しだけ上質なものに見えた。
「これからは、まず一ヶ月の予算を立ててみろ。収入の九分を、家賃、食費、光熱費、ウマ娘の育成費など、『必要』な項目に振り分けるのだ。そして、その予算内で生活する努力をしろ。予算を立てることで、お前さんの金がどこへ行くのか、明確に把握できるようになる。それは、お前さんが金に命令するための、最初の地図だ。地図がなければ、どこへ向かえば良いのか分からぬだろう」
予算を立てる。そんなこと、考えたこともなかった。いつも、入ってきた金で、その場その場で必要なものを買っていただけだ。それが、無駄遣いに繋がっていたのかもしれない。そして、欲望のままに金を使っていたのかもしれない。
「最初は難しいだろう。欲望は強い主人だからな。お前さんの心の中で、欲望という獣が暴れ出すかもしれぬ。だが、少しずつでも、お前さんが欲望の主人となる努力をせよ。そして、十分の一の貯蓄は、何があっても続けろ。それは、お前さんが金に命令するための、最も強力な武器となる。その金は、お前さんの未来を切り開くための、黄金の種子なのだ」
アオイはノートとペンを受け取った。ツムギ老人の言葉は、厳しくも、アオイの心に深く染み渡るような温かさを持っていた。自分の貧乏は、単にお金がないからではなく、お金の使い方、そして欲望の統制ができていないからだったのかもしれない。
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その日から、アオイは予算ノートをつけ始めた。収入の九分を、項目ごとに細かく振り分けていく。食費、光熱費、ウマ娘の消耗品費……。最初は戸惑ったが、自分の金が何に使われているのかが明確になるにつれて、無駄遣いをすることへの抵抗感が生まれてきた。衝動的に何かを買いたくなっても、「これは予算に入っているか?」「本当に必要なものか?」と自問自答するようになった。欲望という獣が心の中で唸りを上げても、予算という鎖でそれを縛り付ける訓練を始めたのだ。
地味で、すぐに効果が出るものではない。相変わらず生活は苦しいし、ステラに最新の機材を与えてあげられるわけでもない。カネモチトレーナーの嫌味も、まだ耳に痛い。だが、アオイの心の中には、少しずつ変化が生まれていた。お金に対する漠然とした不安が、具体的な数字として把握できるようになり、コントロールできるかもしれないという感覚が芽生え始めたのだ。それは、暗闇の中に差し込んだ、一筋の光のようだった。
そして、何よりも、布袋の中の十分の一の金が、着実に増えていくのを見るのが、アオイにとって小さな希望となっていた。この金は、自分の欲望のためではなく、将来の自分、そしてステラの夢のために貯めている金だ。この金が、いつか自分を、そしてステラを、黄金の道へと導いてくれるのかもしれない。
アオイは、予算ノートを閉じ、布袋をそっと撫でた。使い古された布の手触り。中の硬貨や紙幣の感触。貧乏の足枷はまだ重いが、それを外すための、確かな一歩を踏み出した実感があった。それは、欲望という主人から解放され、自分自身が金の主人となるための、長い戦いの始まりだった。