暁の黄泉鴉 作:マサイのゴリラ
「
「……」
海上に浮遊する玉藻と、水面に漂う
玉藻を見上げ、ただ無言でその言葉に無い耳を傾ける渾沌は、自身の下方に存在する巨大な貝の妖怪を静かに分析していた。
神々しさを感じる、重く、反応の強い"力"そのものであるその妖力は、常に海上へとにじみ出ていた。
「蜃気楼どころか幻……幻どころか、現実。現実をも上書きし、この世は半ば蜃の
「……」
「君にも、通ずる部分があるのではないか?」
玉藻は渾沌へ投げかける。
当然、返答はない。
「渾沌、君はあらゆる物に溶け込めるのだろう……」
「……」
「さて、ここで私の疑問。君は、幻そのものにすら溶け込めるのかな」
玉藻がパチンッと指を鳴らす。
次の瞬間、海面から湯気のように霧が立ち始めた。
霧は二人の周囲をまたたく間に白く染め上げ、互いの姿以外何も見えない空間へと変えてしまう。
「私が月からここへ戦場を変えたのは、言うまでもなく君を殺すためだ。んで、君を殺せそうな方法を二つ……思いついた。それを試させてもらおう」
立ちこめる霧は蜃が発したもの。
玉藻の指示により、蜃気楼もとい幻の戦場を構築するということである。
しばらくして霧が晴れると、その場は海ではなく──渾沌の故郷とも言える、古代中国の山間部。細長い岩場が立ち並ぶ、天然の仙郷であった。
「さあ、始めようか。最終ラウンドだ……!」
玉藻は右手に黄金の妖力をまとう。
刃状に薄く、鋭く引き延ばしたそれを振るい、立ちすくむ渾沌に突っ込む。
「……!」
「おいおい、どうした。ぼーっとして。そんなに懐かしかったかな!」
なんとか玉藻の手刀を止めた渾沌。
我に返り、応戦を始める。
(さて……渾沌の殺し方だが、おそらく
渾沌の拳や蹴りを受け止め、手刀で応戦。
その最中、玉藻は思考する。
消えゆく霧に渾沌を溶け込ませてそのまま消せるなら、そうであってほしい。
だが、それほど単純な存在でないことは試さなくてもわかる。そのため、玉藻にとって大本命の一手は、別にある。
(渾沌の伝承……『
かつて南海を支配した帝"
彼らは自分たちを手厚くもてなした帝"渾沌"の顔面に目、耳、鼻、そして口の合計七つの穴を、礼として
『荘子』において、渾沌は皇帝の一人として扱われた。しかし実際には、彼は『四凶』であり王座を求める怪物。
そのため、史実に基づく信憑性については怪しい部分が多い。
(だが……この話は捨てられるものではない。『荘子』のあの話は、礼儀として余計なことをする愚かさを説くものだ。自らの価値観を押しつけず、自然体を重んじろという。それを伝えるために、わざわざ渾沌を利用したのはなぜだ?)
玉藻が目をつけたのはその点だった。
書を読む者に伝えたいことがあるにしても、わざわざ忌み嫌われた怪物を皇帝としてまで話を作ることはない。
火が無いところに煙はない。それが玉藻の結論であった。
(渾沌の弱点はそこにあるはずだ。その余計なこと! 本来人間にはあるが、やつには無い穴を空けることこそが)
渾沌は姿を消し、瞬時に玉藻の背後に現れる。
それと同時に首を刈り取ろうと蹴りを放った。
「っ! 危ないな」
「……」
「……そうだ、だが、渾沌は死んではいない」
玉藻は蹴りを回避し、渾沌から距離をとる。
地面を蹴って、再びぶつかる。
(顔に穴を空けて死んだ、とある。だが実際には生きており、死んではいない。なぜか……これも希望的観測ではあるが、実際のところ死んではいないが、
(──つまり、空ける穴を間違えたか、足らなかったかのどちらかだ)
玉藻の結論はそうだった。
渾沌の顔に空けた七つの穴。当時の人間たちは、そこで動きを止めた渾沌を見て「死んだ」と思ったのだろうが、それはあくまでも活動停止。命を奪うことには届かなかった。
別に正しい穴があるか、あともう一つの穴を空けていれば。
彼の命は、その時に奪えていたのかもしれない。
「おっと、やっぱそういうこともできるか」
「……!!」
渾沌は蜃の生み出した、偽物の空間と同化を始める。
土や岩、草という大地そのものと混じり合い、無機質な巨人へと変貌した。
そして金剛石へと拳を変化させ、玉藻に殴りかかる。
「フッ!」
「……!」
玉藻はすぐさま妖力弾を放ち、渾沌の巨拳を粉砕する。
渾沌の右肩までがボロボロと崩壊し、大きく怯む。
「……」
(この状態の渾沌に、もう一つの穴を空けるのは無意味だろう。やつの本体に、直接空けなければ。そして残る問題は、本物の正解の穴)
渾沌は左拳を握り、振りかぶる。
玉藻は再び妖力弾を放とうとするが、いくら愚痴の化身と言えども同じ
玉藻の足元に四本の岩の腕が生え、彼の脚を鷲掴みにする。
「なにっ」
一瞬意識を足元に向けた玉藻。
その隙を突いて、渾沌は金剛石と化した拳を振り下ろした。
「"
全身に妖力を
振り下ろした拳は、彼に直撃するとともに簡単に砕けてしまい。土くれの渾沌は両腕を失った。
妖力による身体強化で硬度を上げられたことで、自分のパワーで自身を破壊してしまったのだ。
「っ……!」
「流石にもうわかっただろう。幻の大地だろうが、一体化したところで私には通じない。それに、その状態だと君の再生力も発揮されないから……失った腕も、生やせない」
そう言われた渾沌は、地面を振動させながら地下へと沈み始める。
「……往生際の悪い……」
呆れる玉藻。
次の瞬間、彼の周囲に無数の渾沌が姿を現す。
大地と同化した彼らは、
地下に沈めて窒息させようと、一斉に玉藻へなだれ込む。
「"
玉藻は胸の前に紫電色の炎を生成。
炎は一際光を放つと、爆発を起こした。
爆風と爆炎によって土でできた渾沌たちの体は消し飛び、煙が晴れた頃にはそこに立っているのは玉藻だけだった。
「直接叩きに来られた方が私にとって厄介だって、『NTC』の地下で理解してなかったのか? ただでさえ
玉藻は大地に向けてそう言った。
しばらくして、渾沌が地面をすり抜けて姿を現す。
「……」
「……」
無言のまま見つめ合う両者。
渾沌の顔のパーツは機能していないが、それでも彼は偽りの瞳を玉藻に向け続けていた。
(……そろそろ心を決めたようだな)
玉藻はそんな渾沌に、"覚悟"を見る。
これから彼が何をしようとしているのか、渾沌は理解している。
玉藻はそう察したのだ。
「いくぞ」
「……」
流れる沈黙。
風の音だけが聞こえるようになる。
二人が踏み締める大地が、砕けた。
「はぁああっ!」
「……!」
玉藻は渾身のスピードで渾沌へ迫る。
渾沌もまた──
「……」
「……」
(さて、どうだ……)
二人がぶつかり合った刹那、立ちすくむ渾沌の腹部に、玉藻の手刀が突き立てられていた。
一方の渾沌、彼はただ棒立ちしているだけだった。
拳を掲げているわけでも、鋭い爪を構えるわけでもなく。ただ、玉藻に向かって行っただけ。
「…………」
再び流れる、沈黙の空気。
それを破ったのは渾沌であり、彼自身の腹に突き刺さる腕を見下ろすと、そのまま項垂れて脱力する。
直後、シューーッ、シューーッと煙を立ち昇らせながら、肉体が崩壊を始めた。
「……一回で正解を引き当てられたのは、良かったよ。君に足りない穴というのは……
玉藻は静かに、呟く。
「人間は胎生。臍を持つ。それは母親とのつながりであり、間違いなく生命であることの証でもある。だが、君にそれは無かった」
「…………」
「生の否定。
優しく口にする玉藻。
しかし人を誘惑するための声色ではない。
それに似ていながらも、安息を孕んだ穏やかな声だった。
「生命として死にたまえ。これでその呪われた運命は、ようやく幕を閉じる」
「…………」
渾沌は抵抗どころか、一切身じろぎをすることもなく。
進む消滅に身を委ねていた。
肉が溶け、露わになった骨も塵となり。
空気に溶け込むように、彼は消えていった。
「……ふぅーー、らしくないなぁ。私のことなんだが。でもまあ、楽しかったよ、渾沌」
渾沌はたしかに玉藻に牙を剥いた。
だが彼は、本気で彼を超えようとは思っていなかった。
玉藻が本気を出せば、その終わりのない命を簡単に奪うことができる。そう思っていたのもまた事実。
地球に戻った時点で、渾沌は同胞たちが全滅したことを悟っていた。
──ありがとう、これでようやく──
彼が王座を狙う理由は、飽くなき貪欲でも野望のためでもない。
それは、彼が『四凶』に産まれたから。それだけである。
呪われて産まれ、その運命に流され、ただ同じように王座を求めた。
だから『荘子』にあるように、
──呪いから、解放される。
何もかもから否定され、疲れていた。
渾沌の安息は、今ようやくもたらされる。