暁の黄泉鴉 作:マサイのゴリラ
──わたしはこの地上に洪水をもたらし、
──命ある、全ての肉なるものを、
──天の下から滅ぼし去る。
──地上の生命は皆、息絶える。
創世記6章17節
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迎えた、午後八時。
駅舎の大半が焼け落ちているにも関わらず、人々はガレキの上に押しかけて我先にと電車へ乗り込もうとしていた。
「おい! 俺が先だっ、割り込んでんじゃねぇ!」
「金なら払うぞおっ、俺を先に!」
「お願い、子どもだけでも早く乗せてぇ!」
血代田の周囲は壊滅的な被害を受けており、元々ある路線の八割以上が機能不全に陥っていた。
そこへ数万、十数万という都民が押し寄せているため、なんとか到着した電車も出発することができず。
札束を手に優先順位を買おうとする者、無理やり押し除けて乗り込もうとする者、子どもを人々の群れの頭上へ投げ出して電車へ乗せようとする者。
現代の地獄絵図が、そこにはあった。
「うわあああああっ! ママぁああああ」
大人たちの隙間で泣く子ども。
親とはぐれ、誰にも見向きされない。
蹴られ、倒れ、踏まれ。声までも失い、それでも気にかけられることはなく、おびただしい数の人間に存在ごとかき消されてしまう。
「おい! 早く出発しろォ!」
「無理です! しっかり車内に入り込んでください! 危険ですっ」
「東饗に留まる以上に危険なことなんてあるか! 馬鹿っ、早く出せぇ!!」
ホームでも喧騒は絶えない。
殴り合い、押し合い、言い合いにより、混乱は混沌へとシフトしていく。
「早く出ろよ! 運転士は何やってんだ!?」
「ですから、ドアが閉まらなければ出発できないんですよ!」
「だから言ってんだろッ! 安全なんて東饗から出られるなら十分なんだよ!」
「違いますッ! そういうシステムなんですよっ! 『
「はァァァ!?」
またいつ、東饗の滅びが再開するかわからない。
だというのに車両から降りねば、電車は出ない。
今まで幸福を与えてきた技術力によって足止めを食らう。
あまりにも皮肉な仕打ちに、乗客たちは「お前が降りろ」と蹴落とし合いを加熱させた。
「世の中の幸福と不幸のバランスは、常に一定だ。奪う者がいるなら、奪われる者もいるというのは自明。これがツケってやつかな」
人々が押しかける東饗駅を、上空から見下ろす者が一人。
夜空の闇に紛れ、不敵な笑みを浮かべているのは、玉藻草司である。
「壊された世界の国々、それらが享受するはずだった幸福を貪ったんだからねぇ……。ま、直接奪ったのは『
そう呟く玉藻の手にはスマートフォンが。
開かれていたのは動画配信アプリであり、今日の一連の事件について生放送でインフルエンサーたちが口々に意見を述べていた。
「都市伝説、ね」
『今日の朝にやってた、『おめざめテレビ』の内容はやっぱり本当だったんやなって。東饗をぶっ壊したのも、ほんとに存在してた妖怪なんとちゃうの!?』
『いや……妖怪っていうのは日本人が作り上げた存在だから、妖怪ではないですよ。これは妖怪の皮をかぶった、宇宙人の仕業です』
『宇宙人!? ここに来て?』
『妖怪なんていう荒唐無稽な存在だと言っちゃえば、本当の正体は少なくともはぐらかせるわけでしょ。宇宙人と手を結んだアメリカとか、力を失った日本政府が、『四大財閥』を潰すために送り込んだ宇宙人。あり得ると思うんですよねぇ』
『政府が力を取り戻すために宇宙人を……ですかぁ。いや、これはもう一番可能性ありますよ!』
動画の中で、妖怪ではなく宇宙人の存在を強調するインフルエンサーたち。
玉藻はしばらく彼らのやりとりを眺めていたが、鼻で笑って電源ボタンを押す。
「……見ようとしない者には、いつまで経っても見えやしない。考えようとしない者もまた、
目を細め、地上の人間たちを見下ろしながら。
彼は心底不思議そうに口にする。
「人間の価値観では、可哀想と言うのだろう。君たちはあくまで、我々が作り出した価値観に染められたに過ぎないのだから。だが、この私に時代の王座を奪われた時点で、全くの
突風が吹く。
それに乗せられ、ビル群の間に大量の物体が舞った。
「敗者への同情が、人間の道徳だというのなら。まさにそれが、君たちから
「! お、おい! あれ見ろ!」
東饗駅の周囲で荒れ狂う、人の波。
その中の一人が、頭上を指さして叫んだ。
それに気づいた一人が、また叫ぶ。
その声を聞いた三人が、次に叫ぶ。
そしてそれに気づいた──
「かっ、金だああああっ!」
ごった返す人々の群れに、大量の万円札が紙吹雪のように舞い落ちる。
その光景に目を奪われた人々は、目指すべき東饗駅から背を向けて金を手にしようと走り出した。
「金! 万札だ! これだけありゃアパート借りられる!」
「おい! 三十万だ! 俺を先に乗せてくれっ」
「ほらっ、あんたたちも早く拾いなさい! おばあちゃん家は貧乏なのよ! 百万は拾いなさいッ」
「ぐああっ、だれだ今俺の頭踏んだやつ!」
生き残るには電車に向かわねばならない。
それでも金に気を取られるのは、これまで金が全ての社会に生きてきたからであった。
避難した後の生活のため、金を他の乗客に払い電車に先に乗ろうという目的は確かにある。
それでも、電車に乗り込める寸前の者でさえ駅舎から出て、金を手に入れようと頭上へ手を伸ばしていた。
「『NTC』の資産。現金に換えられる分は全て換えた。君たちにやるよ」
金の吹雪の正体は、玉藻の会社『Nined Tailer Corporation』の純資産の一部である。
もはや人間社会に生きる必要が無い以上、金の
「……かなしいかな。これが本能ってやつか」
玉藻はそんな様子を上から眺めつつ、背後を振り返る。
壊滅した街が、さらにドス黒く染まっていく様子が彼の目に入った。
「いったいどれだけの人間が気づいてるんだろうか。洪水はもう、そこまで迫ってるってことに」
地響きを轟かせ、夜の闇をまとったドス黒い洪水。
誰も気づいてはいない。
その大質量の波は、血代田に到達していた。
駅前で金を拾っていた一人が異変に気づいた時には、駅を囲む超高層ビルに波が直撃し──
高さ五十メートルを超える水の壁として、駅に降りかかる瞬間を迎えていた。
「じゃあね、愛しい東饗都民たち」
玉藻は洪水を見下ろしながら、夜空に高笑いを響かせた。
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東饗23区はまたたく間に水に呑み込まれていく。
ビル群はへし折られ、押し流され、ただのガレキと化す。
人々は塵芥のように消えていく。
東饗湾が膨れ上がり、爆発するように生まれ、起こった洪水に人の心などありはしない。
あるのはただ、
「…………これでいい」
月にも照らされぬ暗黒の曇天。
地上へ向けて花開く水蓮の下には、激流の装束をまとった
まだ無事である高層ビルの屋上にて、全てを流す洪水を眺めながら静かにたたずんでいる。
「……ぞんざいに失われていい命なんて、一つもありやしない。……だからこそ、おぞましい"死"は、復讐の意味を成す。そうだろ……
瑞子の妖力はさらに膨れ上がる。
これに呼応し、曇天からは大雨が。西の空からは暴風が吹き荒れ始める。
東饗を滅ぼす洪水と嵐は、やがて形を成した。
「"
瑞子は自身の右目に指を突き立て、眼球を引き抜き──握りつぶした。
右目の眼窩に青白い光が灯るとともに、周囲に異変が起こる。
洪水の波は膨れ上がり、体高数百メートルに及ぶ水の虎に変化。
暴風雨は数キロメートルにもなる長い形に収束していき、荒れ狂う単眼の龍に変貌した。
「俺が、最強だ」
夜の曇天に、猛虎と暴龍の咆哮が轟いた。