提督からの通信を受け取った瞬間、吹雪は迷いなく艤装の舵を切った。推進ユニットが低く、獣の唸りのような音を響かせ、巻き上げられた白波と共に艤装は水面を蹴りつけるように加速する。
鋭角に切られた進路は一点の迷いもなく、まるで先にあるものすべてを撃ち抜くとでも言うような、意志のある軌跡だった。
彼女の視線は、真正面――遥か前方、未だ届かぬ戦場を見据えている。そこにあるのは、まだ静かな初夏の内浦湾の先、陽光の届かぬ深海の底から這い上がってくるような気配。訓練では決して味わうことのなかった重圧が、肌を通じて伝わってくる。
あの先に、“本物の敵”がいる。
深海棲艦――その言葉を思い出すだけで、背筋がひやりと凍る。演習では再現できなかった死の気配が、確かにこの海域に漂っていた。
けれど吹雪は、ただ怯えてはいなかった。胸の奥、深いところで、何かが小さく震えている。
その正体を、彼女ははっきりと知っていた。
これが、初めての実戦。
艦娘としての訓練は、大湊で何度も繰り返してきた。模擬戦闘、夜戦演習、実弾を使った砲雷撃訓練――回避、照準、射撃動作。それらすべてを、何百時間にも及ぶ反復練習で身に叩き込んだ。
だが今、死と直結する実戦を前に、それらはまるで遠い記録映像のように、乾いた記憶の底で霞んでいた。
本当に、撃ち合うのだ。相手は、あの深海棲艦。
無機質な黒い艦影。沈んだ瞳と、音すら奪う静けさを纏った殺意。海の闇に混じるようにして現れる彼らは、人類の理解を越えた存在。彼らが何を考え、どう動くのか、誰もわからない。
だからこそ、恐怖は根深く染み込んでくる。
撃たなければ、撃たれる。迷えば、沈むのは自分。そしてそれだけでは終わらない。
「……もし私が止まったら、この先にいる人たちが危ない」
吹雪は小さく呟き、唇を噛み締めた。自分が沈むという結末が、全てではない。
この海域を突破されれば、室蘭が――港が、街が、人が――戦火にさらされる。
守らなければならないものがある。その重みが、吹雪を突き動かしていた。
「……大丈夫。私は、艦娘だから」
誰に言うでもないその言葉には、微かに震えがあった。けれど、その芯は確かにまっすぐに貫かれていた。覚悟の光が、吹雪の中で静かに燃えていた。
その時だった。
『……吹雪、こっちは全部チェック済み』
ヘッドセットに、小さな声が入る。間髪を容れず、別の声が続いた。
『砲塔旋回、照準系統、発射管。全部完璧。……怖がる必要なんて、ないってば!』
『いつでも行けるよ!』
『任せて!』
艤装の内部に宿る装備妖精たち。数センチにも満たない身体で、誰よりも正確にこの機構を支えている小さな仲間たち。目の前には見えていないその声の主たちが、今ここに共にいる。
「ありがとう。心強いよ、本当に……」
吹雪は微笑み、震える手をそっともう一度握り直す。艤装のグリップは、硬質なはずなのにどこか温かく、仲間の体温のように感じられた。妖精たちがそばにいる。提督が見守ってくれている。
そのとき、再び通信が入った。
『吹雪。……大丈夫か?』
機械越しのはずの声が、なぜか海風よりもずっと優しく、あたたかく響いた。
「はい。……吹雪、応答します。異常なし。ですが……少し、怖いです」
絞り出すような声だった。けれど、それは事実だった。正直な恐れ。それを告げられるだけの信頼が、彼女と提督の間にはあった。
『……そうか。吹雪、それでいい。お前が怖いと思うのは、当然のことだ。俺だって、怖いよ』
それは慰めではなく、共感だった。艦娘と提督。異なる立場にあっても、同じ戦場の一端に立っている。そう言ってくれることが、何よりも嬉しかった。
『だけど、それでもお前は前に進める。吹雪、お前は……強い。――だから、命令を更新する』
一拍の静寂。そして、決定的な一言が、静かな海に雷のように走った。
『吹雪――必ず、生きて帰れ。それが、今の最優先命令だ。何が何でも生きて帰ってこい!』
吹雪の目が、わずかに潤む。熱いものが胸に込み上げてくる。指先が震えた。けれど、それは恐怖ではなかった。
「――了解しました。吹雪、迎撃任務を継続。必ず、生きて帰還します!」
その声は、風を裂くようにまっすぐだった。
吹雪は再び力強く加速する。艤装のブースターが唸りを上げ、水飛沫を上げながら波を越える。空気を裂く音とともに、前方――その海の彼方に、黒く沈む艦影が浮かび上がった。
吹雪は目を細めて、その姿を捉える。
深海棲艦――敵艦隊、確認。
「……みんな、準備はいい?」
ヘッドセットの中で、妖精たちが一斉に『OK!』と跳ねるように応じた。小さな仲間たちのその力強さが、何よりの支えだった。
吹雪は深く息を吸い、胸の奥に眠るすべての想いを込めて――叫んだ。
「敵艦発見! これより砲雷撃戦を開始します!」
透き通るほど響きの良い声。
吹雪は、自分自身にも喝を入れるために大声を出したのだ。
次の瞬間、吹雪の連装砲が火を噴いた。
――ドン!! ドーン!!
主砲から放たれた轟音が、開戦の狼煙となって静まり返った海原に轟き渡った。
反動が艤装を通じて全身に伝わり、吹雪の身体が一瞬たわむ。
だが、それも計算のうちだった。砲弾は鋭い軌跡を描き、正確に敵艦の進路を狙って飛翔していく。
(……敵駆逐イ級、1隻。やっぱり……前衛の偵察艦。情報通りだ)
照準の残像が視界の隅に残る中、吹雪は冷静に状況を分析する。戦闘はまだ始まったばかりだが、一発一発が生死を分ける真剣勝負。どれほどの訓練を積んでも、この実戦とは別物だ。
生き残るためには、一手先、いや二手三手先を読まなければならない。
放たれた主砲弾が敵艦の中央付近に直撃し、轟音と共に爆炎を巻き上げた。黒煙が一瞬、敵艦のシルエットを覆い隠す。
(命中……! でも中破程度!)
敵駆逐イ級は傷つきながらもなお健在だった。
黒鉄色の艦体が水面を削るように切り返し、鋭く艤装の砲口をこちらに突きつけた。
次の瞬間、口を大きく開くと同時に閃光が走り去るのが見えた。口内の主砲から撃たれた砲弾が飛沫を巻き上げながら、一直線に吹雪を狙ってきた。
「くっ……!」
吹雪は咄嗟に舵を切る。重心を逸らし、波打つ水面を滑るように姿勢を低くする。足元を冷たい波しぶきが叩きつけ、濡れた外衣越しに、肌へじわりと冷たさが染み込んだ。
すぐ近くに着弾した砲弾が巨大な水柱をいくつも立て、衝撃波が頬をかすめて熱を伴う痛みを走らせた。
「至近弾……でも、まだ戦える!」
必死に平静を保とうとする吹雪の声に、艤装内部の妖精たちが即座に応じる。
『主砲、再装填完了間近!』
『魚雷発射管、照準ライン合わせ中!』
艤装の妖精たちは冷静だった。誰ひとりとして動揺していない。それが何よりも心強い。
「よし――雷撃準備、目標、前方イ級!」
吹雪の指示に、太腿部に格納された魚雷発射管が自動で角度を修正し始める。小刻みに回転する駆動音が耳に心地よい緊張感をもたらす。
照準がぴたりと敵艦の進路を捉えた、その瞬間――
「雷撃戦始め! ていっ!」
叫びと同時に、吹雪は姿勢を低くし発射操作を実行した。パシュッと小気味良い発射音とともに、圧縮空気に押し出された魚雷が白い航跡を引きながら滑るように水面下を突き進む。
敵イ級は慌てて回避行動を取ろうとしたが、先ほどの主砲弾命中の影響で機動力が鈍っていた。
(逃がさない!)
数秒後、吸い込まれるように敵艦中央部に直撃――。
――ドォンッ!!
グォオオオオオオ!!!
爆発と同時に巨大な水柱が天高く吹き上がり、黒煙と飛沫が空を覆う。
外殻が粉々に粉砕され、艤装も破壊されながら傾いていく。イ級は断末魔の絶叫を残して、爆散しながら海中へと沈んでいった。
『命中確認! 敵艦、撃沈!』
『主砲、健在! 砲身温度、許容範囲内!』
『主機も異常なし、問題ないよ!』
艤装妖精たちの報告が淡々と流れる。それは、幾度となく訓練を積み上げた仲間だからこそ出せる冷静さだった。
「よし……!」
吹雪は短く息を整えつつも、決して油断はしない。敵はまだ残っている。この先には中衛艦隊、そして主力艦隊が控えているのだ。
「油断しないで……次が来る!」
彼女の視線の先――内浦湾の奥で、新たな黒い影が海面を滑るように現れた。数隻の船影。間違いない、中衛のイ級がこちらへ向かって接近している!
「みんな、次の迎撃に移るよ!」
波を切る音が、冷たい海風と共に耳へと届く。
次なる戦いの足音が潮騒に混じり、静かに、しかし確実に近づいていた。
遅れて申し訳ないですm(_ _)m
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