たらりと垂れた鼻血をポケットから取り出したハンカチで拭いた筋肉ダルマ。
上を向いてずびっと鼻をすすり、それから振り返ると、背中に倒れた木を見て「あーあ……、なんてことを……」と呟く。まるでグレイが全部悪いみたいな言いようである。
「お前が追い詰められたのが悪いんじゃろうが」
「追い詰めたほうが悪いに決まってるだろう」
「お前が先に手を出した」
「昔やられた分をやり返しただけだ。やられたらやり返せと言ったのはお前だ」
「昔も大概お前から襲い掛かってきてたじゃろうが」
「しかしいつも俺の方が多く殴られていた」
「数えとらんわ、そんなもの」
筋肉ダルマは、折れた木を両手で持ち上げて、地面に無理やり突き刺してから首をかしげながら「これでばれんか?」と馬鹿なことを言っている。
「今回も俺の方が多く殴られたから、またいつでもやり返す権利がある」
「確かにやられたらやり返せとは言ったがのう……」
ねじ曲がった解釈をし過ぎだ。
「まさかお主が要塞軍の頭とはな。久しぶりじゃな、ラウンド」
「ロブスの奴から名を聞いたときはまさかと思ったが……、よくもまぁ生きて王国に戻って来たもんだな、グレイ=フォン=アルムガルド」
「もう貴族でもなければアルムガルドもない。ただのグレイじゃ」
ラウンドは特大のしかめっ面をした後ため息を吐いて、その場にどっかりと胡坐をかいた。
「で、あの権力嫌いのグレイがなんだ、王女の教育係? ボケたのか?」
「ボケとらん。お主こそ、こんなところで何をやっておる」
「何って、お前の尻拭いだろうが。俺にはさっぱり何が何やらわからなかったが、お前が暴れてアルムガルド家がなくなった。俺は田舎貴族の三男坊。お前がいなくなってからは王都にはすっかり張り合いもなくなってしまった。やることもないから、お前が生まれ育った土地を見てやろうと思ってこの辺をうろついてたんだよ。それで数年ぶりに王都へ戻ったら、旧アルムガルド領に軍を発足するっていうだろ? 貴族が何人も失敗した土地だ。魔物も今よりうようよしていた。死ねって言われてるようなもんだから、手をあげる者なんて誰もいなかったさ。だから自分から立候補してやって来たってわけだ」
でかい図体をしていじめられるままだったラウンドが、よくもまぁこれだけ立派になったものだ。
グレイは別にラウンドと仲が良かったわけではなかった。
ただ、体格に恵まれている癖に、そういうものだと教え込まれて、ひたすらいじめられることを受け入れているラウンドを見ていて、無性に腹が立っただけだった。
グレイは貴族社会の上下関係も、嫡男以外はスペアでしかないという感覚も、全部ひっくるめて大嫌いだった。
努力や才能が報われない世界が悔しかった。
ラウンドに吐き捨てた言葉は、半分以上ただの八つ当たりみたいなものだった。
「随分と偉くなったらしいな」
「おう、案外と退屈しない人生だった。初めのうちはいつかアルムガルド領にお前が帰ってくるんじゃないかと思っていたが、ここ三十年くらいはもう死んでしまったのだろうと思っていたぞ」
「三十年国外追放されとったんだ。流石に帰らんわ」
「ほう、知らんなぁ。俺が知っているのは、お前が暴れて消え、王子が一人死んで、騎士団に大量の負傷者が出て、アルムガルド家がなくなった。それだけだ」
「緘口令が敷かれたか」
「それもあるが俺に詳細を教えてくれる友人がいなかっただけでもある」
「お主、孤立してたもんな」
「親に泣きつくことしかできないような奴らと、喋る気にならなかっただけだ。……いや、そんなことはどうだっていい。お前は何をしていた。何をしようとしている」
身を乗り出して尋ねるラウンドに、グレイは顎鬚をなでながら考える。
人生を語れば長くなるが、ラウンドに語るべきことはそれほどない。
「……背伸びして必死に足掻いている子供がいたから、世話してやっているだけじゃな」
「……よくわからん」
「とにかく、クルムに会ってやってくれんか」
「俺は王族も貴族も嫌いだ。それなりの対応しかできんぞ」
「儂だって嫌いじゃ」
「ならなぜ王女の教育係などしている。……そういえばお前は、昔も王子と懇意にしていたな」
「そうじゃな」
「……そういえば、あいつはなぜ死んだんだ」
そこまで話して、グレイはハッと一つのことに気が付いた。
このラウンドという男は、途中から政治や学びには本当に無関心で、筋肉を育てることだけに特化した男であった。
しかも元々は田舎貴族の出身である。
すなわち……。
「お主、王位継承争いとか知っとる?」
「いや知らん。なんだそれ」
「そこからじゃったか……。じゃあ聞くが、これまで王子や王女から、面会の話とか来たことあったじゃろ?」
「忙しかったから無視した。いちいち王都へ行ってる暇などなかった」
「お主、まじでよくその地位を維持しとるな」
「一度解任されたぞ。だが一年ほどでまた元の地位に戻った。詳しい話は知らんが、就任した馬鹿貴族が三人ほど逃げ帰ったらしい」
なんだかおもしろそうな話であったが、まず間違いなくラウンドは詳細を把握していないだろう。あとでクルムに聞いたほうがまだ詳しい情報を持っていそうである。
「で、王位継承争いってなんだよ」
一応かなり偉い奴であるはずのラウンドは、つるッとした頭を平手でペタペタと叩きながら、間抜けな面でグレイに再び尋ねるのであった。