パクスとスリップは相変わらず忙しく駆け回っているらしく、朝の訓練を終えた頃には出かけてしまっていた。毎日朝早くから夜遅くまでご苦労なことである。
会頭ともなれば、そう気軽に王都から離れるわけにはいかないから、この機会に〈リガルド〉の商会との仲を盤石にしておきたいのだろう。息子も頻繁に連れまわって英才教育も施しているようだ。
そんなわけだから、グレイも負けじと、流れで連れて行けることになったクルムを伴って〈要塞軍〉の敷地へと向かう。
出発前に顔を出せるようになった経緯も含めて、グレイに色々と尋ねたクルムだったが、ラウンドとリゾルデに関して手に入った知識はほぼないと言っていい状態だった。
『馬鹿』と、『面倒くさそうな奴』というのは、大したヒントにならない。
グレイのようなタイプならば本音でぶつかるべきだし、パクスのような相手ならば利益を提示するべきだ。ただし、『馬鹿』と『面倒くさそうな奴』両方に響かせる言葉等おそらくクルムは持っていない。
まずは彼らの背景が分からない以上、無難な対応しかできないのだが、それでは相手の心を引き寄せることはできない。
この調子だとグレイはいつも通り交渉事ではだんまりとなることは分かり切っている。
とにかく難題であった。
頭を悩ませながら待ち合わせ場所に近付くと、すでに訓練が始まっているのか、威勢のいい掛け声が聞こえてくる。
角を曲がって全容が見えてきたところで分かったのは、兵士たちが声をあげながら訓練場をかなりの速度で走っていることだった。走り込みは持久力をつけるためにはよくやることだが、ペースが異様に早い。
クルムの全力疾走よりも幾分か早いんじゃないかと思うほどのペースであった。
そしてその奥では、筋肉の塊みたいな禿頭の老人が「ふんっ、ふんっ」と気合を入れながら高速で腕立て伏せをしている。
全体的にクルムが苦手とする人、すなわち交渉がうまく成り立たなそうな人物が多い中、唯一ピンと背筋を伸ばした知的な老人が一人。
なんとグレイの説明のお陰で、筋肉がラウンドで、知的な方がリゾルデだということだけは一発で分かった。まるで役に立たない、ということはなかったようだ。
リゾルデがラウンドに何事か言うと、筋トレがぴたりとやんだ。
ラウンドはゆっくりと逆立ちをして、腕をグイッと曲げ、その反動で飛び跳ねてグレイとクルムの目の前に降ってきた。
筋肉の密度による重量がどしんと地面を揺らし、その勢いで起こった風が二人の服や髪やら髭やらをなびかせる。
『着地をした』というより、『降ってきた』という言葉がまさに適当であった。
「これが王女か」
「あ、お、初にお目にかかります、ハルシ王国の第十一子、クルム=ハルシと申します」
「俺はラウンドだ。グレイの友人であり、〈要塞軍〉の大将をしている」
「ご丁寧にありがとうございます。しかし、その……」
知らないふりはどこへ行ったのか。
グレイについてきただけの女の子設定で行くはずが、どうして顔を見せた瞬間にど派手な登場からそんな台詞を吐き出せるのか。
やっぱり馬鹿だとグレイが考えているところに、リゾルデが無表情で歩いて寄ってきた。
「どうして先方の方が気をつかうことになっているんでしょうか」
「どうせお前が意地悪するだろうから、俺だけでも印象を良くしておこうと思ってな。悪いがな、話は俺とじゃなくてリゾルデとするんだ。俺はグレイと共に兵士たちをしごいてくる。ほら、行くぞ」
「……ま、よかろう。クルムよ、上手くやるんじゃぞ」
老人が二人、訓練場へと歩いていく。
グレイのことはよく知らないが、片割れは彼らの大将だ。
〈要塞軍〉の面々は緊張しつつも、グレイの方を僅かな期待を込めて見つめていた。
ラウンドが訓練に現れることは滅多にないのだが、現れた時に酷い目に遭うので、出来れば二度と訓練場に来ないでほしいというのが、〈要塞軍〉の兵士たちの本音である。
今日はもう一人威厳のある老人がいるので、もしかするとひどい目に遭わずに済むのではないか、というのが期待の主な内容であった。
「よく聞け、こいつは特別講師だ!」
〈要塞軍〉の兵士たちはにわかに活気づく。
それならばラウンドによる訓練はないかもしれない。
「こいつはグレイというんだが、俺の旧友で、ロブスにも勝ってるからな。強いぞぉ。今日は一日俺たち二人対お前ら全員で勝負だ! 一度でも背中に土をつけた奴から抜けて今日一日休憩だ! 金一封も出してやる!」
楽しそうなラウンドの言葉と裏腹に、兵士たちの表情は死んだ。
ラウンド一人相手にしても勝ったことがないのに、どうしてさらに戦力を足されて勝てるというのだ。
当然一日休みも金一封も手に入るわけがない。
「……なんだお前ら、そのつまらん顔は。やる気を出せ、やる気を! 刃を潰してるものなら武器も使っていいぞ。俺たちは使わん」
勝手に話がどんどん進められていくが、グレイは特に異論もない。
兵士たちを大きな怪我をさせずに捌くくらいならば、年を取った今でも問題なくできる。
折角だからできるだけ小手先の技でも見せてやって、学ばせてやろうという親切心すら湧きだしてきたくらいであった。
条件を追加しても全然盛り上がらず、葬式会場みたいになっている訓練場に、機嫌の悪くなったラウンドが声を張り上げる。
「気合いを入れろ! 声の出てない者、やる気のなさそうな者から狙うぞ!」
「おおおおおおおお!」
途端に兵士たちのボルテージがマックスになり、一斉に二人に向かって襲い掛かってくる。まずは武器もとらずに素手での戦いだ。
人が空を舞う姿を眺めながら、クルムは隣に立ったリゾルデに、最初の一言を投げかける。
「……いつもこのような訓練を?」
「いえ、こんな無茶苦茶ばかりをしているわけではないので、誤解なきように」
手合わせも立派な訓練なのであるが、なぜだか王女にこの光景を見られていることが無性に恥ずかしくなったリゾルデであった。