「それにしても……、血塗れですね」
梯子を下りたクルムは、頬を触ってため息をつく。
兵士たちは血にも多少慣れているが、戦場に慣れていないクルムは血を浴びるなんて初めてのことだ。
戦場にいるという高揚感で気にしていなかったが、普通の貴族であれば卒倒してしまってもおかしくない。拭き取っていると、グレイが梯子を使わずに外壁から飛び降りて来る。
「危険なことをするからじゃ」
「先ほどは褒めてくれたじゃないですか」
「それはそれ、じゃな。きちんと拭き取っておくことじゃ。魔物の血には微弱だが毒がある」
「……そうでした」
知識としては持っていたが、実際に体験するとなると話は別だ。
気味の悪さなどに気を取られてすっかり忘れていたクルムは、慌てて顔に着いた血液を拭きとっていく。
「洗った方がいいですか?」
「ま、急がんでもいいがな」
「わかりました」
クルムは取り出した布で顔を拭って、そのまま兵士たちのいる塀の外に向かって歩き出す。
「外へ行っても邪魔になるだけじゃぞ」
「……でも、顔を出しておいた方がいいかと。印象は大事です」
「すでに〈要塞軍〉の協力は取り付けたじゃろうが」
「組織と個人は別です。何かあった時に手を貸してもらえるかもしれません」
「面倒じゃのう」
貴族のように権力を持っていたり、グレイのように力を持っていたりすると、どうしたって他人個人の力を侮りがちだ。自分で何とかできる範囲が広いぶん、兵士一人一人の感情などに向き合う機会が少ないのだろう。
そういった気持ちは、案外相手にも伝わるものである。
一方でクルムは勢力も小さければ、戦う力もそれほどない。
だからこそ地道に、着実に味方を増やすことをないがしろにしない。
グレイと個人的につながりのある人物はいても、どうしたって一般的な人望がないのはこの辺りのせいだろう。
「全体、手を止めよ」
門の隣に併設された通用口をくぐって外へ出ると、それに気が付いたフーヴァが声を上げる。
そうしてクルムの元までやってきて、びしりと姿勢を正す。
「王女殿下、この度の助力感謝いたします。グレイ様の戦力と、殿下の勇気ある行動のお陰で、我が隊はただの一人も欠けることなく魔物を撃退することができました」
「お力になれたのならば何よりです。しかし、こうして無事に魔物を撃退できたのは、ひとえに皆様の普段からのたゆまぬ鍛錬の成果かと。私たちが王都で安心して暮らすことができるのも、〈要塞軍〉の皆さんが、身体を張って魔物の進行を食い止めてくださっているおかげです。本当にありがとうございます」
見事な返しであった。
普段の〈要塞軍〉は、王都からは金食い虫と相手にされず、貴族たちからはなんだかんだとけちをつけられる存在だ。
忙しく働く兵士たちは、〈リガルド〉から出ることはあまりないので、実際にそんな差別的な言動と向き合うことは少ないが、どうしたって噂くらいは耳に入る。
どこか、命を懸けて戦っているのに、自分たちの働きは評価されていないという思いがあった。
だからこそ〈要塞軍〉は、共に戦うラウンドや、矢面に立って交渉しているリゾルデに対する忠義心が厚く、そこをよりどころとして一致団結しているのだ。
それがどうだ。
王都からやってきた王女が、こんな端も端にある基地まで足を延ばしてきたかと思えば、危険を冒して共に戦った上、これ程の賞賛の言葉を投げかけたのだ。
響かないわけがなかった。
多少の政治的意図が含まれていることが分かっているフーヴァですら心を震わされた。なにせ、身の危険を顧みずにバリスタを発射し、兵士の命を救ったことは紛れもない事実なのだから。
「……全体、姿勢を正せ!」
兵士たちがそれぞれ胸のうちに湧き上がるものを押さえつけながら、びしりと姿勢を正す。
兵士たちの気持ちを理解し、自由に発散させてやるのも、良い上官の務めだ。
フーヴァは〈要塞軍〉の軍人らしくにかりと笑い宣言する。
「各々、自由にクルム王女殿下を称えよ! クルム王女殿下、我が隊の兵士の命を救ってくださったこと、そして労をねぎらってくださったこと、心よりお礼申し上げます!」
フーヴァに続いて兵士たちが各々好き勝手に声を上げる。
名を呼ぶ者、礼を言う者、万歳と手を上げる者。
それぞれ好きなようにしていたが、誰もがクルムのことを称え、この場にいることを喜んでいた。
自然とクルムの表情も緩む。
自分の行動がこんなにも喜んでもらえたことが嬉しかった。
何かが報われたような気がして、気持ちがじんと温かくなる。
立場がどうなろうと、きっとこの人たちのことを大切にしようと、前向きな気持ちが湧き上がる。
声はしばらくやまなかったが、フーヴァが手を上げたところで少しずつ静まり、ものの数秒で辺りはぴたりと静かな夜に戻る。
「……殿下、お疲れでしょう。中へ戻りお休みください。私たちも区切りの良いところで引き揚げて今晩は休みます」
「お気遣いありがとうございます。それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
これ以上この場にいても作業の邪魔になるだけだ。
兵士たちの休息時間を奪うのは忍びない。
クルムはグレイを連れ立って基地の中へ戻る。
横並びになって歩きながら、クルムはぽつりとつぶやく。
「足を伸ばした甲斐がありました」
「冷静じゃのう……」
あれだけ賞賛されたのに落ち着いたものだと、グレイはチラリと横目でクルムを見る。するとクルムが、何やら変な顔をしながら歩いていることに気づいた。
「お恥ずかしい話なのですが、実は少し嬉しいです」
「何がじゃ?」
「あのように、自分の存在を喜んでいただけたことが」
ここ数年、誰にも相手をされない王宮で、ウェスカと二人で生きてきたクルムだ。
あのように歓迎をされることは随分と久々だったのだろう。
「では素直に喜んでおけば良かろう。どうせここにはお主と儂しかおらんのじゃ」
「……はい」
クルムは返事をすると、先ほどまで血を浴びて凛々しい顔をしていた王女とは思えぬほど、緩く柔らかい表情で笑うのであった。