状況は変わったと言っても、翌日からのクルムの過ごし方が特別なものになるわけではない。
朝にはグレイと訓練をしてから朝食を取り、それからいなかった間の事務的な報告を受け、仕事を振り分け、たまっていた分の仕事をこなす。
本来は王女としての仕事が様々舞い込んでくるものなのだが、クルムにはそれがない。それらは大抵が後援勢力による王子王女の認知拡大のために開かれる行事だったりするためだ。
今回の遠征を気軽に決めることができたのも、そんな環境に置かれているからこそであるから、ある意味これは強みととることもできた。
受け継いできたものではなく、自らの能力と足で稼いだパクス商会や〈要塞軍〉との縁は、他の勢力の後援者たちよりも強力であるとも考えられる。
案外王子王女とはいえ、後援者の顔色を窺わなければならない場面は多い上、気付かぬうちに意思決定を操作されていることなど珍しいことではないのだ。
クルムが黙々と仕事に優先順位をつけて片付けている様子を横目に、グレイは茶を飲み終わるとおもむろに立ち上がる。
「さて、少々うろついてくるかのう」
「どちらへ?」
「散歩じゃ」
「……特に用事がないのならばあまりうろつかない方が良いかと思いますが」
「ラウンドの奴が生きていたことを、スペルティアの奴に教えてやろうかと思ってのう。一応奴も知り合いじゃからな」
嘘っぽいなぁ、とクルムは思う。
長年連絡を取ってこなかった相手であるし、クルムの知る限り、グレイはそんなことでわざわざスペルティアの下を訪ねるような殊勝な性格をしていない。
「そうですか、お気をつけて。王宮内では流石に襲ってくる者はいないはずですが、外へ出ればそうとは限りませんので」
「儂が暗殺者ごときに後れを取るわけあるまい」
「ええ、ですから下手に返り討ちにして、手配等されないようにお気を付けください。いざとなれば全力で庇いますが……、相手は人の弱みを握り、命を捨てさせて罪をかぶせに来るくらいは平気でするかと」
「……ふむ」
そんなことを言われると、迂闊に襲ってきたものを殺すこともできない。
クルムの忠告は、これまで消されてきた王子王女たちの例を顧みれば、十分にあり得る可能性だ。本当に質の悪いやり方で、陥れられたものは命を落とすだけではなく、名誉までもをひどく傷つけられることになる。
失意のままに獄死した権力者は数知れない。
グレイの場合は最悪、そこから暴れまわって逃亡という手段が残されているが、それだってあくまで最終手段であって、望んでいる展開ではない。流石にこの期に及んでクルムの足を引っ張るのはあまりに不本意だ。
グレイにそこまで考えさせた時点で、クルムは目的を十分に達した。
実に有効な声かけであったと言わざるを得ないだろう。
「まぁ、ちょっと散歩してくるだけじゃ」
流石にここからやっぱりやめたというのも体裁が悪いので、グレイはそのままクルムの部屋を後にしてふらっと散歩に出かけることにするのだった。
理想を言えば、いつだか締めあげた木っ端貴族を見つけて、どこの所属の馬鹿かを確認したいところだ。
ビアットによれば王宮から出てきたそうだから、うろうろしていれば、運が良ければ出くわすこともあるはずである。そうしたら、素早く攫ってちょっと顔とか腹とかを撫でてやれば、すぐにゲロッと胃の内容物と一緒に情報を吐き出すだろうという算段である。
やろうとしていることが完全に蛮族だが、一応グレイは立派な貴族の生まれである。
いつも通りフードを被り、ただし今日は一人でのしのしと廊下を歩くグレイ。
どんなに物騒なことを考えていようとも、よく知らないものは、『ああ、あのクルムのところに出入りしている不審者か』と、蔑むような視線を向けてくる。
そんな高慢な人間とすれ違う時に、グレイは毎回、どうしたら一番手っ取り早くそいつの息の根を止められるかシミュレートしていた。知らぬが仏というやつである。
さて、何も考えずに廊下を歩いていても、それらしいものとすれ違うことは一度もなかった。
やはり街へ出て自分を囮にするべきか。
グレイはいったん王宮の出入り口付近で、髭を撫でつつ出入りする人々を眺める。
当然のごとく不審者であるから、皆グレイの近くを避けて通るのだが、なんだかんだここが一番人通りが多く観察が捗るのだ。
三十分ほどそうしていると、グレイを不審人物と断定した門番の一人が、ついにはこそこそと持ち場を離れて姿を消した。そうしてしばらくたって戻ってきたときに一緒にいたのは、見覚えのある騎士であった。
その男はグレイを見た瞬間に額を押さえ、それでも逃げることなく真っすぐに近寄ってくる。
「……グレイ殿、お久しぶりです。なぜずっとここに立っているのです。門番が怖がっています」
「おお……、騎士団の副団長殿か。うむ、年を取ると人の賑わいが恋しくなるものでのう」
あからさまで適当なごまかしに、副団長は言葉を詰まらせるが、気軽に怒らせていい相手ではないことはよく分かっている。
ぐっと我慢して、丁寧な対応を続ける。
「騎士団の副団長をしております、ジグと申します。グレイ殿、せめてフードを外していただけませんか?」
「ほうほう、ジグ殿、すまんのう。儂は太陽の光に弱くてのう」
ああいえばこういう爺である。
すでに正体がある程度ばれているから、グレイの方も遠慮がない。
ジグが、グレイが死んでもいいと思ってスカベラをあててきたことは分かっている。
つまり、クルムがどう思っているかはともかく、グレイにとっては推定敵である。
「そうですか。……そういえば近頃姿を見ませんでしたが、どちらかへお出かけされていましたか?」
副団長は諦めたようにため息を吐き、そのまま情報収集へと話を切り替えた。
グレイが一筋縄ではいかないことは分かっていたが、それならせめて会話の中で何か情報を得てやろうという魂胆である。
なかなかどうしてこのジグという男。副団長をしているだけあって、強かな男であるようだった。