すっかり夜も更けて、客の入りよりも出るのが多くなってきた頃のこと。
今回の件が片付いた場合、何をどうするか考えていると、少し離れた場所から一人の男が歩いてくるのが見えた。
今回のお目当ての貴族子息だった。
男はふらりとやってきて、通り過ぎたかと思われたが、直後クルムのいる横の壁がコツコツと叩かれる。何事かと首を傾けて覗いてみると、そこから白く細い手がのぞいて、ひらりと数度振られた。
店からは見えない位置に立った男は、クルムと目が合うとぱちりとウィンクをしてきた。
こうして少女をたぶらかしているのかと思ったクルムは、思わず表情をゆがめそうになったが、辛うじてそれを堪えて、不思議そうな表情を作って男を見上げてみる。
男は唇に一本指を立てて、静かにというジェスチャーをした後、しゃがみこんで小声で話しかけて来る。道で話す男女の声が入り混じって聞き取りにくかったが、耳をすませば何とかわかる程度の声量だ。
「急にごめんね。さっき通りがかった時、君に見とれてしまって、声をかけずにはいられなかったんだ。ここに座るのは今日が初めて?」
「ええ、初めてです」
「そっか。……ね、いつか君も店に出ることになるのかな」
何やら悲しげな表情から繰り出された質問には無言。
クルムは男が自分の演技力に酔っている間に、後ろ手で手を振ってグレイに合図を送り、外にターゲットがいることを指さす。
出るわけはないが、余計な情報を与えるつもりも、嘘をつくつもりもない。
男は勝手に勘違いをしたのか、物憂げにため息を吐く。
線の細い美形であることは確かで、何も知らなければ好青年にも見えるかもしれない。花街で女とすることをしておいて好青年も何もないが、まだ夢を捨てきれぬ少女であれば、ころりとつられてもおかしくない。
クルムがただ黙って、多少目を潤ませつつ男を見つめ返していると、これはいけると勘違いしたのか、男はさらに続けてくれた。もちろん、勘違いするようにクルムが演技をしたのだが。
言葉にはしていないので何も嘘はついていない。
「そんなこと、僕は耐えられないよ。君さえ許してくれるなら、僕は全てを敵に回しても、君のことをここから救い出してみせるのに……。さぁ、君のかわいい声を聞かせてくれないかな? それだけで、僕は君を二人きりの世界へ誘うことができる」
「……ほう、全てを敵に回すんじゃな」
「…………え?」
男は地を這うような低い声が聞こえてきたことに驚き、からくり人形のようにぎこちなく振り返る。そこに立っていたのはパツパツになって悲鳴を上げている黒い服をまとった、長い鬚を生やした筋骨隆々の老人であった。
「儂のことも敵に回すということじゃな」
「あ…………、え? いや、僕はここで帰る支度をしていただけで、そんなことは言ってないよ? はは、も、もしかして邪魔だった……、あっあっ、やめて」
にわかに伸びてきた腕が、回避する間もなく男の顔面を掴んでその体を持ち上げる。成人男性が片手で容易に持ち上げられる姿を見た通行人は、ざわつき、そしてその迫力に慄いて逃げ出し、辺りはあっという間に静まり返った。
「二人きりじゃなぁ……?」
同じ言葉でもどうしてこれほどまでに意味が異なってくるのか。
男が口にした二人きりの意味は、『二人での逃避行』であったが、グレイの口から出た二人きりは、『お前を殺しても誰も目撃者はいない』の意味である。
「ひっ、ひっ、こ、殺さないで」
顔をもって持ち上げられるというのはもはや、戦うとか、抵抗するといった意思を根こそぎ奪うような蛮行である。今も締め付けられる頭部の痛みに加えて、自重で首が抜けてしまいそうで、男は声を発するのがやっとであった。
「た、助け……、助けて……」
はっと思いだしたのだろう。
男はクルムの方に視線を向けて助けを求める。
藁にもすがる思いだったのだろう。
こんな年端も行かない自分に向かって、逃げてというのならばまだしも、助けてはいかがなものかと、クルムは目を細くしてため息を吐いた。
「先生、そのまま別室に」
「うむ、そうじゃな」
クルムと目の前の化け物がグルであったことを把握した男は「あああ……」と絶望の声を漏らしながら、ずるずるとグレイに引きずられて、裏口から建物の中に引きずり込まれていく。
もともとこの予定だったので、部屋はきちんと用意してある。
「……どうして私の方に来ないの!」
柵を捕まえているファンファが、ずるずると引きずられていく男に向かってキャンキャンと吼えるが、当然返事はない。静まり返った通りに残っていたドーンズとニクスが、それを聞いてにっこりと微笑んでから、黙ってグレイの後を追いかけ、建物の中へと消えていくのであった。