広い敷地の中に、石造りの丈夫な建物。
バッハ侯爵邸は、他と比べても目を見張るほどに立派なものだった。
その威容から、何代にもわたって王位継承争いの秩序を保ってきたという自負が、あながちでたらめではないことが分かる。
暗殺者ではない、普通の使用人に案内された二人は、そのままバッハ侯爵の待つ部屋まで通される。
使用人はバッハ侯爵から、グレイたちの来訪目的も、背景も聞かされていない。
ただ丁重に自分の元まで案内するよう命じられただけだ。
明らかに怪しい二人相手であるのに、見下したりせず、丁重に案内する役割をこなすのは、この使用人も一流の使用人である証拠だろう。
なんだかんだ、バッハ侯爵家は名門である。
バッハ侯爵は客人をもてなすための部屋で、二人を待っていた。
部屋は広くもなく狭くもなく、一般的な応接室と何ら変わらぬ形をしているが、入った瞬間にグレイは違和感を覚える。
細かく調べるつもりもないが、暗殺を一族の生業としてきた侯爵家らしく、この部屋にも暗殺者を配備できる隠し部屋や隠し通路のようなものが仕込まれているのだろう。
クルムと一緒にいるようになってからは物騒なことも増えてきて、すっかりそういった勘も取り戻してきているグレイである。
「連れてきてやったぞ」
グレイが偉そうに踏ん反りがえったが、その実力を散々思い知らされているバッハ侯爵はもう突っ込みすらしない。とんでもない奴だとも思っているし、大嫌いな一族ではあるが、今は一応敵対しているわけではない。
将来のことは知ったことじゃないが。
「まさか本当に部屋から連れ出すとは……」
バッハ侯爵の知っているスペルティアの素性は、なかなか近寄りがたいものだ。
魔物に飲み込まれたエルフの国の王女。
今となっては生存が確認されている唯一の王族だ。
エルフは人の祖、とも言われており、その最後の王族であるスペルティアは、この大陸全ての国から一定の敬意を払われている。
先代王位継承争いの時代のナックス王子とその仲間たちが救い出してきたおかげで、今はこの国に居を構えており、他国をけん制する権威の一つとなっていた。
治癒魔法他、人を病や怪我などから救う手段に優れているという事実と、どうやら酷い守銭奴であるという噂もあるのだが、それ以上に恐れ多くて滅多なことでは近寄れない、というのが貴族たちの事情でもある。
それでもどうしても、というものはこっそりと治癒室を訪れて、彼女に救いを求めるそうだが。
金さえ払えるのならばスペルティアを治癒のために向かわせることができるかもしれない、という王女の申し出を聞いた時は驚いた。
そんなところにまで繋がりが、と半ば疑っていたが、目の前にいることがその証明だった。
「金払いが良いと聞いた」
そんな神秘のベールに包まれているはずの美しきエルフの王女、スペルティアの口から飛び出してきたのは金の話だった。
どうやら守銭奴という噂が本当であると確認したバッハ侯爵は、それでもひるむことなく頭を下げた。
「本日はどうかよろしくお願いいたします」
「見せると良い」
「なんか偉そうじゃな」
「私様は偉い」
無礼な突っ込みを入れるグレイと、当たり前のように胸を反らして得意な顔をするスペルティア。二人のやり取りはまるで若者のようだった。
ここまで見ればわかる。
ナックスとその仲間たちのうちの一人であるグレイこそが、スペルティアとの縁であったと。
まったくどこでこんな大物、いや、化け物を見つけ出して来たのか。
バッハ侯爵はクルムの行動力に舌を巻きながら、「こちらへ」と言って、壁へ向かう。そうしてかかっていた額縁を持ち上げながら、壁をぐっと押し込んだ。
さほど力を入れた様子もなく、壁が音もなくくるりと回ると、地下へ降りる階段があるだけの小部屋が現れる。松明を手に取ったバッハ侯爵は、二人が小部屋に入るのを確認すると、壁を元あったように戻して階段を下り始めた。
「ほう、秘密の部屋」
「そりゃああるじゃろ、暗殺一族なんじゃ」
グレイが嫌な言い方をしたが、バッハ侯爵は少しばかり眉をひそめただけで言い返したりはしない。そのまま階段を下りきった先の扉を開けると、天井の高いさらに大きな空間が広がっていた。
壁際には武器が立てかけられているが、今は訓練をしている者はいない。
先日の戦いでほぼすべての戦力を投入したせいで、世話をする者はいても、訓練に手を回すほどの余裕はないのだ。
そこを抜けた先にも廊下が続いており、いくつかの仕切りだけが置かれた部屋が広がっている。世話をしている者たちがバッハ侯爵を見て膝をついて動きを止めるが、その度にバッハ侯爵は「いい」とだけ言って、手を振ってそれらを仕事に戻させる。
そうして辿り着いた先に横にされていたのは、この間グレイにやられた者たちであった。それぞれが死なない程度に酷い怪我を負っており、見るも無残な姿であった。
スペルティアがじろりとグレイを見上げると、グレイはそれを堂々と受け止めた上に「なんじゃい」と文句まで言った。
文句の一つでも言ってくれるのかとバッハ侯爵が耳を澄ませる。
「良い加減。稼ぎ時」
「じゃろう」
『あ、もしかしてこいつアルムガルドの同類か』と、バッハ侯爵がスペルティアに対する敬意を少しだけ失った瞬間だった。