バッハ侯爵家は、モーリスが生まれた頃にはまだ落ちぶれていた。
育つ過程でも年の近い者たちから特別敬われてこなかったし、むしろ落ち目の貴族家と避ける者もいたくらいだ。
モーリスは父に厳しくしつけられて、真面目に生きてきた。
そして父もまた、バッハ侯爵を再び盛り立てるべく努力をしてきた。
その結果、旧貴族派閥内での立場を少しずつ取り戻し、今に至っている。
かつてモーリスを馬鹿にした者の多くが、今では顔色を窺う。
大きくなってきてからは他派閥の者と会う機会も減っている上、たまに会っても互いに大人になっているから、侮るような態度を見せるようなこともなくなった。
その結果何が起こったのか。
モーリスの自己評価が上がりすぎてしまった。
自信過剰である。
自分に対してだけでなく、バッハ侯爵家が国内においてどのくらいの位置にいるかが分からないのだ。旧貴族派閥ならば相当上位。国内を見ても、身分ならば侯爵であるから、並ぶ物はほぼいない。
では、実際に持っている権力は、となると、その辺りのことを教えてくれるのは、父であるバッハ侯爵のみだ。
バッハ侯爵は、今の状態を危機的なものだと認識している。
それを伝え、息子に対して危機的状況を説明しているが、それが可視化される機会がないまま成長してしまった。
周りの貴族家はモーリスを持ち上げる。
自信がないのも問題だが、自信過剰も問題だ。
バッハ侯爵もグレイの戦力を勝手に想定し、勝利できると自信を持っていた。
そんな自信過剰な性格はモーリスにもしっかりと受け継がれているようである。
『お前が直接見て、話して、確かめてこい』
先ほどモーリスの口から飛び出してきた、バッハ侯爵の台詞である。
クルムはこの言葉を、息子を多少痛い目に合わせてもいいという、バッハ侯爵からのメッセージだと思っている。
もはやクルム陣営につくことを決めた以上、これ以上コウモリのようにあっちこっちに鞍替えをするわけにはいかないはずだ。クルムが成功しない限り、バッハ侯爵家の未来はない。
それを息子であるモーリスが理解していないことは問題であり、クルムとしてもモーリスがそんな状態では今後バッハ侯爵家を頼りにすることができない。
いわばこれは、バッハ侯爵からの試しでもあるのだろう、とクルムは考える。
もしクルムが息子のこの状況を看過するようであれば、クルム王女与しやすし、と考え、自らモーリスをきちんと教育し直していくのだろう。逆にしっかりと気づいて対処するのであれば、しばらくは大人しくクルムのことを支えるつもりなのだろう。
貴族と付き合っていくというのは、こういったことの繰り返しだ。
どこかで隠されたメッセージを見逃せば、その分だけ物事が思うように進まなくなっていく。クルムとしては最終的には貴族の力は削いで、そんなことばかりにかまけなくてよいようにしたいところだが、今はまだバッハ侯爵家の力と名前が必要だ。
「滅ぼされますよ、真っ先に。これまでバッハ侯爵家が見逃されてきたのは、力を失っていたからです。歴史があり、力があり、貴族家を複数まとめることのできる侯爵家が見逃されると思いますか?」
クルムは現実をモーリスへ叩きつける。
バッハ侯爵はそれが分かっていたからこそ、静かに力を蓄えて機会をうかがってきた。だからこそ旧貴族派閥の完全支配には至らなかった、とも言えるが。
モーリスはここまでのクルムの侮りがたい洞察を聞いていたからこそ、これ程に無礼なことを言われても現実的に冷静にその言葉を噛みしめ、あながちあり得ぬことではないと分かってしまう。
「バッハ侯爵家の選択肢は二つ。一つは今回の王位継承争いに勝つこと。そしてもう一つは、未来永劫、力を持たない貴族として、オブラ侯爵家にへりくだって生きるかです」
「は、承知しております」
いよいよクルムがただの子供ではなく、何か特別なものであることは疑いようがなかった。それは奪われた者の覚悟であったかもしれないし、脈々と受け継がれた王家の才能であるのかもしれない。
生涯咲くこともない者もいる才能の花が、クルムはたくさんの水と栄養を得たことで、既に大きく花開いているのである。
「いいえ、分かっておりません。モーリス殿は何か勘違いをされていますね。私には後ろ盾がおらず、どうせバッハ侯爵家の力がどうしても必要だろう、と」
状況を考えれば、それは正しい解釈であるはずだ、とはモーリスは答えられない。
それはすなわち、クルムを侮っていると暴露するだけだからだ。
言葉を重ねる度に追い詰められていく状況は、モーリスの口を重たくした。
「それ、勘違いですよ。私は、より有利に王位継承争いを進めるために、穏便にバッハ侯爵家に協力をお願いしているだけにすぎません。帰ったらすぐに侯爵閣下に確認してみると良いでしょう。ご自慢の暗殺部隊が、どのように壊滅させられたのかを。どうして侯爵閣下が私につかざるを得なくなったのかを」
モーリスは短く「はっ」というだけで顔も上げられない。
そんな中クルムの言葉は続く。
「モーリス殿は、全力で盛り立てなければならない私を疑っています。近しい協力者であるバッハ侯爵家の跡継ぎが私を品定めしているようでは、そこから不信が広がります。その調子では困るのですよ」
「は、は、申し訳ございません」
「謝罪は結構です。お父上である侯爵閣下にもよくお伝えください。これ以上私を試すような真似はしないように、と」
「仰せの通りに」
クルムとモーリスの力関係は、頭の高さを見れば一目瞭然であった。
もうこれくらいでいいだろうと思ったクルムだが、更にもう一つ言葉を付け足す。
「モーリス殿には下のご兄弟がいらっしゃいますね?」
「はい、おりますが……」
「私は身内での争いごとが大嫌いです。息子を試すような真似もしないように、と、侯爵閣下にお伝えください。私はただ唯々諾々と言うことを聞く駒よりも、自分の意思を持った優秀な人の方が好みです。モーリス殿、くれぐれも、よろしくお願いいたしますね」
兄弟での殺し合いなどうんざりだ。
もしモーリスがクルムとの話で今後の方針についてぴんと来ていないようであれば、バッハ侯爵は家を守るために後継者を変更する可能性も出て来るだろう。
貴族とはそういうものだ。
クルムはそんな事態を避けるために、自らの意思でモーリスが自分に忠誠を誓うことを望んだ。
果たしてモーリスは、その分かりやすい忠告をしっかりと理解し、テーブルに額をこすりつけて深々と頭を下げた。
「……承知いたしました。ご期待に沿えるよう尽力してまいります」
「頼りにしております」
なんだかうまいこと収まったらしい部屋の中、グレイだけは『貴族のやり取りってやっぱり回りくどくてめんどくせぇな』と、冷めた顔で耳穴をほじくっているのであった。