逃げに逃げたせいで、場所は貧民街。
貧民街は広く、暮らしていたグレイでも普段はあまり訪れないような場所はたくさんある。ここもそんな一角であった。
モーリスはすっかり息を切らしていたが、グレイがすぐ近くでケロッとして周囲を警戒しているのを見て無理やり呼吸を整えた。
「運動不足じゃな」
「……精進します」
常識的には体をしっかり鍛えている方であるつもりであったモーリスは、やや悔しげに表情をゆがめながらも素直に返事をする。それから先ほどの訳の分からない戦闘風景を思い出し、比べること自体が間違っているのではないだろうか、という真実にたどり着いた。
なんにせよ、このグレイという人物が本当に化け物であることはよく理解できた。
モーリスは、父であるバッハ侯爵が、やはり自分なんかよりよっぽど見る目があるのだともわかり、ある意味ほっとしていた。
こんなよく分からない化け物爺さんを敵に回すのは間違っている。
モーリスはなんだかんだで父のことを尊敬しているのだ。
「しかし……、なぜ逃げたのです。あれは街の無法者なのでしょう? 騎士たちと協力して襲ってきた組織ごと潰し、情報を抜き出した方が良かったのでは? あの恐ろしい……、人を不死身の化け物にする薬の出所などを探っていたのでしょう?」
手が炭化しても、首が落ちても、胴体に風穴があいても迫ってくる化け物を思い出し、モーリスは背筋を寒くさせる。あんなものにどう対処したらいいものか。
自前の暗殺部隊を持っているモーリスは、死を恐れない人というのが、人を殺すという目的を達成するうえでどれだけ強いものかを知っている。それでも、腕が無くなれば動きは鈍るし、首を落とされたり、身体に穴が開けば動かなくなるものだ。
それが、どうしたって襲い掛かってくるというのだから気味が悪い。
あれはもはや、人と呼ぶにはあまりにおぞましい何かであった。
それはそうと、だからこそグレイが逃げ出した理由が分からない。
「ふむ……、王宮はあっちか」
モーリスの質問など聞いてないかのようにマイペースに歩きだしたグレイ。
だが、モーリスは文句も言わずにその後をついていく。
少なくともグレイが、ちゃんと自分のことを守ってくれようとしているのはもはや明確であったからだ。殺そうとすればここまででいくらでもそうできたし、逃げ出す時に置いていったって良かった。
グレイに怒りを向けるというのは、突然の雨で空に向かって『馬鹿野郎』と叫ぶくらいに意味のないことである。ついでにこの雨雲はもしそれが聞こえると、ピンポイントで雷すら落としてくる可能性があるので注意が必要だ。
モーリスはまだ若いだけあって、プライドは高いが、一度認めてしまえばそれなりに素直な青年であった。
グレイとの相性は悪くない。
しばらく歩いてから、グレイはぽつりとこぼす。
「……あの場に騎士が現れるというのは不自然じゃ」
「あ、ああ、先ほどの話ですね」
唐突な返答にモーリスは一拍遅れて反応する。
貧民街など見に来たこともなかったので、周囲の様子を観察していたのだ。
皆が好き勝手に屋根を設けたりして暮らしているため、汚く、臭く、そして薄暗い。どこが道なのかすらはっきりもしないのに、グレイは時折低い屋根をくぐったりしながらずんずんと進んでいく。
「儂は一応騎士や兵士たちが巡回しないような道を選んで進んでおった。あの場所に、あの短い時間で騎士たちが現れたということは、何者かに通報されたということじゃ」
「……現地の住民でしょうか?」
「現地の住民の通報で、あんな大勢引き連れてくるものか。誰かしら、騎士たちが信じるような身分のあるものが、何が起こるか知ったうえで通報した、みたいな話じゃろ」
何か妙な意図を感じたグレイは、その野生の勘に従って即座にあの場を撤退したわけである。
「……しかし、逃げる必要はありましたか?」
悪いことはしていないのだから、堂々と調べられればいい、というのがモーリスの主張だ。
「おめでたい奴じゃのう……。スカベラは姿を消し、あの場で生き残っておったのは儂らとあの気色の悪い薬人間だけ。儂らから逃げるように背中を向けて殺されている者もおる。襲撃者を返り討ちにした、というには少々暴れ過ぎた。真っ正直に事情を話したところで、全部信じてもらえるとは限らん」
「……この国の法はしっかりしております。バミ様は……」
「それは分かっておるわ。……ああ、そうか、お主は知らんのじゃな。あの薬人間はな、本来獄中のはずなんじゃ。つまり、それを薬漬けにして儂の襲撃に利用したものがいる。何をどう企んでいるか知らんが、あの場に残れば行動の制限をされかねん。儂が行動制限を食らうということは、クルムも同様ということじゃ」
二重三重の罠だ。
襲撃で倒せれば上々。
倒せなくともグレイの戦力調査と、薬物人間の試運転はできる。
それが終わっても、あの場にグレイが残っていれば、グレイが好き勝手動き回ることは阻止できる。どちらにせよ、こんなことがあった以上、今までのように街を好き勝手に散策することは難しくなったが。
街の薬の出所を探られるのが、あちらにしても面倒だったのだろう。
「冤罪で投獄などされてみよ。儂なんてどんな罪をでっちあげられて死刑台に上げられるか分かったものではないぞ」
「……確かに、ありえますか」
「そうなったらどうなると思う」
「……クルム王女殿下は一挙に形勢不利になりますね」
聞いていただけの王位継承争いの闇に触れて。モーリスはその身を震わせる。
モーリスは、それを武者震いだと自分に言い聞かせた。
「なぁに言っとるんじゃ。そんなことになったら、もう王位継承争いなど知ったことか。儂は暴れて犯人とその一味の首をそのまま引っこ抜きに行くぞ。糞貴族どもめ、汚い手を使いおって」
「…………そうでしたか」
もしかすると先ほどの震えは、すぐ目の前でぶちぶちと文句を言っている、しかもそれを本当に実行しそうな老人に対する恐れだったのかもしれない。
モーリスはとても賢明な青年なので、思ったことは何も口に出さず、広い背中に向けて、とりあえず同意の言葉だけ述べておくことにするのだった。