ゾエとの話を終えたグレイは、しばし貧民街の散歩を続ける。
貧民街に住む多くの住人は、今を生きることに精いっぱいで、貧民街全体で何が起こっているかなんて知ったことではない。
だからゾエのような顔の広い者はグレイのことを知っていて、ああして警戒をするが、その日暮らしの者ほど、怖いもの知らずに悪さを働こうとして来る。特にクルムに迎え入れられる直前のグレイなどは、なんとなく人生の終焉を感じており、気力も弱っていたので、そこに付け入ろうとし寄ってくる悪人は山ほどいた。
最近では毎日のように動き回り、現役さながらにトレーニングを続けているおかげで、体中から威圧感があふれ出し、誰も近づこうともしてこないが。今のグレイに何か仕掛けてくる者がいるとすれば、それは相当に危機感がないか、自信過剰かのどちらかである。
「グレイ殿は、なぜ貧民街に暮らしていたのですか」
モーリスも貧民街を歩き慣れてきたのか、警戒しながらもグレイに話しかけることくらいはできるようになったらしい。
「折角国外追放の刑期が明けたのだから、王都がどうなってるか見てやろうと思ってのう。どうせ行くところもなかった」
「長く過ごされたのですか?」
「クルムがやってくるまでおよそ二十年おった」
「二十年……? グレイ殿ほどのものが、二十年も何を……?」
今となってはここ数カ月で一気に躍進しているクルムの最終兵器だ。
そんな存在が二十年も貧民街に潜伏していたことが信じられなかった。
「その辺の子供に色々と教えておった。貧民街には教育機関もないからのう」
「……それは、何か目的あってのことですか?」
貧民街の子供を教育、などと聞くと途端に不穏な雰囲気になってくる。
二十年以上もそれを続けていたのだとすれば、今は教育された貧民街の子供たちがちょうど働き盛りの年だ。
その想像を一瞬で巡らせたモーリスも大したものである。
「目的、目的のう……。のう、知っておるか? スラム街では人が良く死ぬ。路地裏でゴミと一緒に転がってるなんて日常茶飯事じゃ。冒険者も命懸けじゃったが、こっちはなお酷い。戦う術もなく、明日のために貯蓄する方法すらわからぬ。そうして冬になれば寒くなることすらも知らず、凍えて飢えて死んでいく。特に親を亡くした子供は酷い」
グレイが語り始めるとモーリスは口を閉ざす。
路地の奥から痩せた子供が自分に向けて目を光らせていることに気づき、なぜだか自分が責められているような気分になっていた。
「それでも貧民街の人口は増えておった」
「……王都には、仕事もたくさんあるはずですが」
「そうじゃな、たくさんある。まともな身なりをして、数を数えられるものには。その時点でスラムの子には難しい。あるいは、そうじゃな、体のがっしりとしたものは肉体労働ができる。だが数も知らん子らは、騙され放題じゃ。何も知らず、誰も守らないから、牛馬のごとく働かされて大人になる前に使い潰される。一度貧民街に落ちてしまえば、王都の民として胸を張って生きることは難しい。それを悪辣に利用する者もいる。お主の父のように」
「……父は暗殺部隊を使い潰したりは……」
グレイは振り返ってじろりとモーリスを視界にとらえる。
睨んだつもりもなかったが、モーリスが身を竦めたことから、多少目つきが厳しくなっていたのだろうとグレイは自覚した。
「分かっておる。ありゃあましな方じゃ。真面目に育てて、真面目に運用しとる。あそこにいる多くが、スラム街で生きるより長生きしておるじゃろうな。じゃが、それによって命をかけさせていることも事実じゃ」
「……その通りです」
モーリスは目を伏せ、素直に頷いた。
こうして正直なところが、ボンボンの糞貴族でもモーリスがまだましかとグレイが思う部分である。
「では、子供たちを助けようと……?」
「そんな大層なことは考えとらん。住んでいたら目に入って来ただけのことじゃ。しかし、自ら道を切り開こうとするものや、生きようと足掻く者が身近にいれば、どうしたって気になるじゃろうが。ま、幸い儂が住んでいたのは、あとから貧民街に飲み込まれたような場所じゃった。親がいるようなものから月謝を貰って、生計を立てとったというわけじゃな」
「…………私は……、正直なところ、グレイ殿がとんでもない大悪人であると考えておりました」
モーリスが随分と戸惑いながら、グレイに向かってとんでもない本音をぶちまける。グレイは他人にどう思われようと気にしないが、悪口に悪意が込められているとわかれば容赦しないタイプだ。
だが、このモーリスの言葉は黙って聞き流した。
「しかし、どうもそう思えなくなってきています」
「どう思っていたってかまわん。やってきたことが悪であったか善であったか決めるのは儂ではない。儂はその時やりたかったことをやって生きてきただけじゃ」
「一つ、聞かせてください」
「なんじゃ」
「グレイ殿は、クルム王女殿下が王位につけるとお思いですか?」
「知らん」
「ではなぜ教育係を引き受けているのです」
「頼まれたからじゃ」
「……グレイ殿の前に、クルム王女殿下が現れたからですか? とすれば、他の者でも良かったと?」
グレイはしばし黙り込んで、知っている他の候補の顔を思い浮かべる。
それからクルムとの初めの頃のやり取りを思い出して、ふっと笑った。
「さぁのう……。……だが、今は、クルムが王位についたら少しは面白いかと思っておる」
「ありがとうございます」
モーリスはどこか一つ腑に落ちたように、すっきりとした顔で礼を言った。
その後も二人は夕暮れになるまで貧民街を歩いた。
時折モーリスがものを尋ね、グレイが適当な返事をする。
見た目はちぐはぐな二人であったが、その関係は出かけた当初よりも随分と良くなっているようであった。