クルムは夜に一度起き出してきたが、軽く夕食を摂ると、またすぐに部屋へ戻って眠ってしまった。
よほど疲れていたらしい。
グレイの方はそれほど疲れていなかったので、食事を終えた後もプラプラと建物の中を歩き回り、その構造の確認をしていた。広い建物はどこがどうつながっているかなどを正確に把握しておくと、万が一の時に役に立ったりする。
グレイは、〈要塞軍〉の面々がクルムたちに何か危害を加えるとは思っていないが、例えば【人形遣い】のような暗殺者や、セルルトの部下の一部、つまり、実はオブラ侯爵の味方である者などが、何か仕掛けてくる可能性はあると思っている。
隅から隅まで観察して、どこに誰が泊まっているか把握して戻ってくると、グレイの部屋の前にセルルトが待機していた。
グレイはセルルトのことが好きでも嫌いでもないが、基本的に王族貴族への好感度はマイナスからスタートするので、今のところまだ敵認識である。
「なんじゃい」
「少しお時間をいただきたい」
「クルムではなく、儂にか?」
「はい、グレイ殿に」
今日はここから先の予定はない。
明日は朝一番に起きて、いつも通りに訓練をして、クルムにも訓練をつけるつもりであるが、それにしたってまだ時間には余裕がある。
「暇つぶしじゃ、入れ」
グレイはドアを開けて中へ入ると、そのままセルルトの姿を確認することもなく窓を開けて振り返る。
セルルトが部屋に入ってきてドアを閉めるところだった。
背が高く目つきは鋭いが、痩せていて不健康な顔色をしているせいで威圧感はない。そのせいだろうか、余裕を感じさせられることもあまりなく、生来の頭の回転の速さと、気性の荒さばかりが目立つような男になっている。
もしヘグニのような健康な体が備わっていれば、もしかしたら立派な後継者であったのかもしれない。
年齢はおおよそ三十くらいになるはずだが、籠ってあまり外へ出ないせいか、それよりも少し若いようにも見えた。
表情からは何をしに来たのか読み取れないが、何かしら覚悟はしているようだ。
グレイの強さや過去の行いを知っていて、わざわざ二人きりで話すのだから最低限の心持ちは整えてきたらしい。
グレイは揺り椅子にしっかりと体を預けると、所在なさげに立っているセルルトをじろりと見た。
「そこの椅子でも引っ張って座ればよかろう」
この部屋にソファはないが、壁につけてあるテーブルには、それ用の椅子もセットで置いてある。仮にも国の第二王子に対して顎でそれを示したグレイの態度は、どこまでも無礼であるが、今ここにそれを指摘する者は誰もいない。
セルルトもまた、グレイにそんな礼儀は初めから求めていないようであった。
グレイは揺り椅子で体を揺らしながら目を閉じる。
目を閉じていたところで目の前のヒョロヒョロの若造になんて絶対に殺されない自信があるし、自分から何かを話しかけるつもりもなかった。
「……北東方面貴族の説得に成功したとか」
「その辺りのことはクルムに聞くんじゃな。儂は知らん」
今更セルルトが敵であるとは思っていないが、だからといって味方だとも思っていない。戦略的なことについて話をするかどうかは、クルムが決めればいい話だ。
グレイが勝手に語ることではない。
「グレイ殿は……なぜクルムの教育係に?」
話題を変えることにしたようだ。
グレイがどんな事なら話をするのか探っているのだろう。
そして、何かそうしてまで話をすべき目的があるのだ。
「乞われたからじゃ。わざわざ貧民街に暮らす儂のところまできてな」
「頼めば、味方をしてくださったということですか?」
「いや、儂は王族も貴族も大嫌いじゃ。頼み方にも、事情にもよる」
セルルトはしばらく黙り込んでから、静かに斬り込んできた。
「クルムは、私たちのことを恨んでいるのだろうか」
「たちというのは?」
「私や、ヘグニ兄上や、父上のことを」
「しらん。恨まれるようなことをして、悔いておるのならば、素直に懺悔して殺されればよかろう」
情のかけらもなく、そして至極原始的で真っ当なグレイの言葉に、セルルトはまた口を閉ざした。
ヘグニとセルルトの下の兄弟は、少し年が開いている。
それは多分、当代の王であるルアーノが、王位継承争いを避けようとしたがためだ。
自分の代で、オブラ侯爵家の支配から脱却し、長子であるヘグニ……、今のセルルトに王位を継がせるつもりでいた。そして失敗した。
そんな事情を知っていたからこそ、セルルトは当代の王を憎もうとは思わない。
セルルトからすれば、ルアーノは立派な父であり、王であり、挑戦者であったからだ。
ルアーノには当時から妻が複数人いた。
隣国アハーバ王国からやってきた高貴な女性。
教会があっせんした、当時の聖女に近いとされていた能力の高い女性。
ルアーノが彼女たちとの間に子を作ったのは、自分の代でのオブラ侯爵家からの脱却を諦め、次代に希望を託したからだ。
つまり、その時点でヘグニとセルルトは、場合によっては王位継承争いに負けることを、父ルアーノに求められていた。
一方で、オブラ侯爵家は予定通りヘグニに後を継がせるつもりでいたはずだ。
ヘグニはすっかりオブラ侯爵家のことを恐れていたし、表向きには従順だった。
それを長い時間かけて、ある程度まで立ち直らせたのはセルルトだった。
しかし問題は、ヘグニが元々情の深い男であったということだ。
父ルアーノがオブラ侯爵家を排斥するためだけに、たくさん作った下の兄弟たちを憐れみ、悲しく思ってしまっていた。ヘグニはそこのただ一点でコントロールが効かず、時にはオブラ侯爵家に意見することもあった。
そしてヘグニは、子供たちを駒にするようなルアーノのやり方を気にくわないと思っているようだった。
感情を割り切ることのできるセルルトとは違って、ヘグニは元々王にはとんと向いていない性格をしていたのだ。セルルトはその性格を面倒だと思っていたが、口には出さずとも、ずっとどこか心地の良いものだとも思っていた。
だが、きっとヘグニは死んだ。
もしかしたら生きているかもしれないが、それは希望的な観測に過ぎない。
片割れを失ったセルルトの思考は、逃亡を始めた時から、ずっと精彩を欠き続けていた。