パチリと目が覚めたのは、辺りが明るくなってきたからだろう。
クルムが身体の疲労を取るには、少しばかり寝心地が悪い地面であるが、他の面々はすっきりとした顔をしている。
王族であるクルムがこんな環境に慣れる必要はもちろんない。
それでもクルムは、普段甘やかされているという事実を再認識する。
表情をきりりと引き締め、体を動かして温めると、すでに起きている面々に挨拶に向かう。
「おはようございます。今日はお願いします」
「うむ。とりあえず向こう岸に渡るんじゃったな」
崖の幅はそれなりにある。
木を渡すのか、ロープをどこかに引っ掛けるべきか。
そんなことをクルムが考えていると、グレイが長いロープをこちら側の木に括り付け始める。そうしてごにょごにょっと何かを唱えると、がしっとクルムの腰を掴んで抱え込む。
「あの、先生。何を……」
「よし行くぞ」
「先生、あの、流石に」
どう見たって人間が生身でどうこうできる幅ではない。
これまでのグレイを見てきたクルムでもなお、そう思うような距離感であった。
「まじすか?」
「……死ぬのでは?」
ロブスとグンナイの冷静な言葉を聞いたクルムは、表情を引きつらせたが、ぐっと言葉を飲み込んでグレイを見上げる。
「……いけるんですね?」
「当たり前じゃろ」
クルムは腹をくくってじたばたと騒ぐのをやめた。
グレイは数歩だけ加速して、地面を蹴り、飛んだ。
これまでにはありえないほどに力強く、そして無駄のない跳躍。
鬚がなびき「わはははは」というグレイの笑い声。
風の抵抗に半分目をつむって、体を緊張させていたクルムであるが、どっと衝撃が走った後、体に浮遊感がないことにほっと一安心した。
「さて、久々にしっかりと魔法で身体を強化したが、調子もだいぶ良くなってきたのう。鍛え直したかいがあったわ」
クルムを地面に下ろしたグレイは、渡った先の木に縄を括りつけると、腕を振って向こう岸に居る者たちに渡ってこいと合図をする。
皆が呆然と見ていたが、ひとり俯いて体を震わせていたアンが顔を上げると、ロープに笑顔で手をかけた。
驚いていたのではなく、笑っていたらしい。
老婆であっても冒険者。
それも、元々は旧アルムガルド領の狩人である。
身軽にロープの上に飛び乗ると、とんとんとん、と跳ねるように進んで、気付けばクルムの隣に立っていた。
「あんたたちも早くおいで」
そう言われたサッシャー家の面々は、やはり躊躇することなくロープに足を掛けて、さっさと進んでいく。全員が危なげなく渡り終えたところで、ロンヌスがメロディエを抱きかかえて渡りきる。続いてモーリスの手の者も同じように渡り、残されたのはロブスと貧民街四天王の二人。
「行かないんすか?」
「先に行っていいぜ?」
「……そうだな」
遠慮している二人は、なんでこんな綱渡りしなきゃならねぇんだとげっそりとしている。
「じゃ、行くっすか」
ロブスはじりじりと崖から距離を取ったかと思うと全力疾走。
崖際で地面を蹴って、グレイをまねて飛んだ。
そして距離が足りずに谷底に吸い込まれていく。
「ロブスさん!?」
ゴッと、妙な音が響いた。
思わずクルムが名前を呼んで谷を覗き込むと、ロブスがトンファーを壁に突き刺してぶら下がっている。
「いやぁ、やっぱグレイ先生のようにはいかないっすねぇ」
ロブスは「くぅっ」と悔しそうに唸りながら、崖にトンファーを突きさしながらがつがつと登って来る。
それはそれで人間業ではなかった。
他人の心配も知らずにへらへらと地面に立ったロブスは、なるほど見事にグレイの弟子である。
「先生は身体強化の魔法使ったっすよね? 使ってもらえたら俺でも行けたっすかね?」
「まだ無理じゃろ」
「無理っすかぁ」
師弟がのんびり話している間に、グンナイがロープに手をかける。
「……いいことを思いついた。何も上を渡る必要はない」
そう言ってブランとロープにぶら下がって、手の力だけで進んでいく。
「確かにそりゃあ賢いか。さっさと渡っちまおうぜ」
少しだけ遅れてゾエもロープにつかまって進み始める。
するとロープが揺れて、グンナイは思わず動きを止めた。
「……あまり揺らすな」
「んなこと言ってもな。ほら、さっさと進めよ」
グンナイは十数メートル下の激流を見下ろして表情を引きつらせ、先ほどよりも早めに動き始める。見れば見るほど怖くなるだけだ。
グンナイはこの時初めて、自分は高いところがあまり得意ではないと気が付いた。
その時だった、グレイが森の中をじろりと睨む。
何かが近づいてきている気配があったのだ。
全員が一斉に戦闘体制に入ったところで、ゾエは顔を引きつらせた。
「おいおいおい、勘弁してくれよ。グンナイ、急げ、急げって」
「……い、いそいでいる……!」
森の中から煌く何かが飛んできた。
それらはグレイたちにも、もちろんクルムのほうにも向かわず、見当違いの方向に飛んでいき……、ロープの九割を断ち切って地面に突き刺さった。
「あ」
ゾエが声を上げる。
「おお、なるほどのう」
グレイが感心したように頷いたところで、ぶちぶちと音を立ててロープが切れた。