グレイが走り出した瞬間、リーは森の中へ飛び込んで逃亡を始めた。
本気で追いかければ追いつく相手ではあるが、それでも時間は少しかかる。
グレイは魔法で作り出した石つぶてをいくつか投擲したが、それ以上の追跡はしなかった。目論見通り当たっていれば死んでいるし、逃げられたならそれまでだ。
ロープに括って放り投げた木で、ナイフ使いは潰したつもりであるが、その生死もいまだ確認できていない。
これ以上深追いをするとクルムの身を守ることが難しくなる。
鈍い音がして、ロブスが戦いに決着をつけたようだった。
トンファーをくるりと回して血を飛ばし、残り二人の敵を睨みつける。
そこでは一人をロンヌスが、もう一人をサッシャー家の家長が相手をしているようであったが、魔法の援護を受けながらもなかなか決着がついていないようであった。
グレイはクルムの護衛を継続。
動くとすればロブスである。
一瞬のアイコンタクトを済ませてロブスが走り出そうとした瞬間、森の中からぬるりと伸びてきた細い剣が、敵の一人のうなじに沈み込んだ。
不気味なまでに静かで、殺意を感じない緩やかな突きであった。
「……まったく酷い災難だ」
時を同じくして、後方から飛んできた投げナイフに気付いた敵が、それを振り払うために振り返った瞬間、メロディエの魔法がその男を火だるまにした。
がさりと茂みから出てきたのはゾエだ。
「俺は決めたぜ……。今日から先は、どんなに、何と言われたって、グレイさんと一緒には出かけねぇ。次は絶対に断ってみせる……」
二人とも擦り傷切り傷だらけではあるが、なんとか内臓や骨は守ったらしい。
着地してから真っすぐにこちらの援護に来てくれたと考えれば、なかなかどうして優しいものである。
もちろん助けに来た理由の大半は、後でグレイに見つかった時に酷い目にあわされたくないからなのだが、それにしたって見事なタイミングであった。
二人とも武人ではないけれど、人がどんな時に気を抜くのか、どんな時に何をされたら嫌なのか。そんな嫌がらせをすることに関しては達人と言って差し支えない者たちである。
そうして裏からひっそりとじめじめと貧民街を支配してきたのだ。
ただただやられてばかりいる男たちではない。
「おお、生きておったな。まあ、あれくらいならば運が良ければ死なんとは思っておった。お主ら生命力だけは人並み外れておるからのう」
「おほめいただき感謝ですぜ、へっ」
流石にじっとりとした目になったゾエが、厭味ったらしくそう言ったが、今回ばかりはグレイもにやっと笑うだけで、逆切れしたりはしなかった。
結構なことをした自覚はあるらしい。
「それにしてもグレイ先生。ちらっと見てましたけど、何すかあれ」
「何すかとは何だ」
「普通、ロープであんなでかい木を引っこ抜きます?」
ロブスがロープの端っこをもって、森に落ちた木を無理やりに引っ張ろうとするが、あちこちに引っ掛かっているのかさっぱり動く気配がない。
「まぁ、儂にかかればあんなもんじゃ」
グレイが本気を出して戦うことなど滅多にない。
だが今回はまさに、珍しく言葉通りに本気を出していた。
グレイがやったことは三つ。
一つ、自身の身体を強化すること。
二つ、ロープの強度を上げること。つまり、ロープに対してバフをかけた。
そして三つ。ロープを通して繋がった大木に水分を奪うデバフをかけた。人間相手には難しい魔法であるが、意思なき植物相手ならば不可能ではない。
いつだかトロルを乾燥させて干物にした、あの魔法と一緒である。
そうした上で全身の筋肉を使って大木を引っこ抜き、投げつけたのである。
まさに無駄に芸の込んだ、大して意味のない本気である。
煽られたならばやってやろうではないかという、グレイの大人げない一撃である。
だがグレイは説明しない。
ただ周りからはすごいとしか思われないが、わざわざ手の内を明かす気もないので、グレイからすればそれでいいのであった。
「ちょっと待っておれ」
そう言ってロープを辿ってその場を離れて森の中へ入っていったグレイは、木の下敷きになって半死半生になっている人物を見つけると、そのまま頭部をぐしゃりと踏みつぶす。
体の大半を潰されて、いつまでも生き残っているほうが残酷だ。
そうしてロープをほどこうとしたが、あまりにしっかりと結び過ぎていたためほどけずに、段々とイライラとしてきて、最終的には結び目ぎりぎりのところを手刀ですっぱりと断ち切った。
ロープをぐるぐるとまとめながら戻ってきたグレイは、それをもともと持っていたサッシャー家の息子の一人に預け、今度は谷底を覗き込む。
「水をためるんじゃったな。計画はあるのか?」
「先生が岩やら木やらを投げ込めばせき止められるのでは?」
「まぁ、そうじゃな。破壊は?」
「先生が魔法を使えばできるのでは?」
「まぁ、それもそうじゃが」
グレイはじろりとクルムを見下ろす。
「お主、少々師の使い方が荒いのう」
「分かっています。しかし……お願いします」
グレイが一瞬クルムの瞳を覗き込んだのは、そこに以前と変わらぬ意志が宿っているかどうかの確認のためだ。
「仕方ないのう」
機嫌を取るような真似を一切せずに、真っすぐに見つめ返してきたクルムを見て、グレイはにやりと笑った。
それでいい。
それならばいい。
天が味方するかのように、空はますます暗くなり、間もなく雨が降り出しそうだ。
何を味方にして、どこまで駆け抜けるのか。
グレイはそんなことを考えながら、クルムの言う通りに川に岩やら材木やらを投げ入れ始めるのであった。