セナト侯爵は、いずれオブラ侯爵家が天下を取るのだろうと思って、その後ろについて歩いてきていた。
文句も言わずに、危険を顧みずに尽くしてきたつもりだ。
しかし、今回のアハーバ王国との協力や、ジグラ王子の擁立に関しては少々疑問を抱いていた。
なぜあのまま扱いやすいヘグニ王子を推し続けなかったのか。
どうしてこんな短慮に走ったのかわからなかったのだ。
あの強大な権力を誇るオブラ侯爵が、所詮、第十一子でしかない弱小王女のクルムや、その教育係であるという、よく分からない老人を恐れる意味がさっぱり分からなかったのだ。
セナト侯爵家は元々は地方貴族である。
オブラ侯爵家が力を持ってから、引き上げられてきた貴族家である。
先代、先々代から、グレイ=アルムガルドのことも、アルムガルド家のことも詳しく聞いていない。
もちろん、旧アルムガルド家の所領を預かり魔物を抑えている〈要塞軍〉の精強さも分かっていない。だからこそ、以前〈要塞軍〉の下へ赴き、面の皮厚くケチをつけることができたのである。
このセナト侯爵こそ、一昔前に〈要塞軍〉に所属している加工職人であるカリヴを、死んだことにするしかなくなった理由の一つであった。
カリヴの加工品を気に入り、加工職人ごと手に入れるために不良品を寄越されたと〈要塞軍〉に文句を言ったのである。
巡り巡ってそれが、クルムが〈要塞軍〉と仲良くなるためのきっかけの一つとなったのだから、何とも皮肉な話である。
そんなカリヴ作の鎧を身に付けたセナト侯爵は、ボレアスに誘導されつつも、無難に陣を展開すると、クルムたちがやって来るのを待ち構えることにした。
セナト侯爵が悠々と構えていられたのは、一度〈要塞軍〉を視察に行ったとき、相手方が弱気だった記憶があるからだ。所詮は田舎の野蛮人、程度にしか考えていない。
だからやって来るのを待つ間に、色々と策を弄した。
例えば罠を仕掛けてみるだとか、元から気に食わなかった、アハーバ王国の連中から預けられた精鋭たちを金で釣って、手柄を立てるよう競争させてみたりだ。
軍師としてつけられたボレアスはもちろん反対をしたが、セナト侯爵は強行。
本来は伏兵として配置して、敵が川を渡ったところで使い捨ての駒として使うはずであった傭兵を、セナト侯爵は無駄にグレイたちにぶつけて消耗させた。
辛うじてボレアスが通すことができたのは、川の上流に最精鋭である部隊を一つ配置することだけであった。上流へ向かえば向かうほど川幅は狭くなり、兵士が渡りやすくなる。
それを阻止すること。
そして、もし阻止することが難しければ、あらかじめボレアスに連絡をつけることが、その精鋭たちの役割であった。
さて、そんな具合で待ち構えていたある日、ついに敵軍が姿を現した。
所詮は田舎者と馬鹿にしていたセナト侯爵が見た敵軍は、自分たちが引き連れている全軍と変わらぬ規模であった。もちろん、偽の兵士も含めての全軍である。
セナト侯爵が丘の上で表情を引きつらせてその威容を眺めていると、ボレアスがぽつりとつぶやく。
「傭兵たちは、失敗したようですな」
「……どうせアハーバ王国からの使い捨てだ。少しは敵軍に被害を与えて死んだに違いない」
それは自分の采配ミスを希望的な観測で誤魔化すだけの言葉だった。
ボレアスはこれを聞いて、セナト侯爵に期待してはいけないと、最後の確認を済ませる。
しかしこうなるとこの場の防衛は中々に難しい。
真正面から犠牲を覚悟で川を渡って来られては突破は必至。
せめて敵軍にはできる限りの損害を与えつつ、時間を稼がねばならない。
河原に配置した弓兵部隊と、それを守るための盾部隊。
突撃に備えて森の浅い位置に配備した魔法部隊と、丘に配備した歩兵部隊。
これが今回の軍の主力である。
もっともやられたくないことは、犠牲覚悟の渡河。
だからボレアスは敵が少しでも前に出ようものならば、遠慮なく矢の雨を降らせるように指示を出した。
じりじりと時間が過ぎていく。
ボレアスは前線を歩き回り、弓兵を交代で休ませながらも、常に敵軍に向けて気を張らせていた。
睨み合って二日目。
黒い雲が山にかかり、川の上流で雨が降り始めたことが分かった。
おそらく水かさが少しずつ増してくることだろう。
そうすればまた少しだけ時間が稼げる。
時間を稼ぐことができればできるほど、別方面での戦況がはっきりとして、増援が送られてくる可能性が高くなる。
ボレアスはこの雨が、自分たちの背中を押してくれる雨であると考えた。
ただしぎりぎりまで弓兵たちはその場に待機させることにした。
もう少し耐えれば、川が増水する。
そうすればこの場所はもっと守りやすくなる。
相変わらず散発的に渡河を試みてくる敵軍を睨みつけながら、ボレアスは大雨を期待していた。ぽつり、ぽつりと雨が降り始めても、ボレアスは弓兵たちをその場にとどまらせた。
本当に少しずつ水位が上がっていくのを眺めながらボレアスは思う。
もっと雨よ降れ、敵の邪魔をしろ、と。
しばらくそうして様子を見ている間に、ボレアスの元に丘の上のセナト侯爵から『至急戻ってくるように』と使者が届けられる。
ボレアスはため息を吐いて丘を見上げ、現場の指揮官に声をかけに行った。
「水かさがこの辺りまでくれば、弓兵たちを下がらせよ。ぎりぎりまで持ち場を……」
地面が揺れ、妙な音が聞こえ始めたのはその時だった。
そこでボレアスは初めて気が付く。
この雨は恵みの雨などではなかったのだと。
「撤退! 撤退しろ!!」
ボレアスがそう叫んだ時には、既に水かさが一気に増し、弓兵たちの足を取り始めていた。勢いよく流れてきた水は一気に低地に広がり、転がってきた流木や石が、全員の動きを邪魔していく。
結局水から逃れることができたのは、ボレアスの撤退の言葉を聞く前にその場から離れることのできた数人だけだった。精鋭であったがゆえにその場にとどまってしまったのが、また良くなかった。
ボレアスは水に、木々に、岩に体を殴りつけられながら思う。
この短い時間で、どうやってこれ程の水量を貯めるほどの堰を作ったのかと。
せめて雨が降っていなければ、使者の報告が間に合っていたのではないかと。
だがその思考は誰に伝わることもなく、濁流にのみ込まれて消えていった。