セナト侯爵は妙な音と地面の揺れに気が付き、丘の上で立ち上がっていた。
何事かと陣を出て外を見れば、川の水量が増し、色が土色になっている。
しぶきを上げていく濁流をぽかんと数秒眺めていたセナト侯爵であったが、呆然としたまま突っ立っているほかの兵士とは違って、いち早く立ち直った。
「何があった!? 弓兵は! ボレアスは!?」
同じように呆然と川の方を見ている兵士の襟首をつかむと、がくがくと揺さぶりながら、唾を飛ばして怒鳴りつける。
兵士は震える手で川の方を指さして答える。
「み、水が急に増えて……皆、な、流されてしまいました……」
「なぜ……どうして……」
いくら雨が降ったとはいえ、水かさがこんなに急激に増えるわけがない。
そこでようやく、セナト侯爵は先ほどリーから受けた報告を思い出した。
川の上流で、戦いに負けた。
敵の仕掛けだ。
つまり、負けたリーたちが悪い。
「役立たずが!」
激高したセナトは捕まえていた兵士を投げ捨てると、陣に戻りうろうろと落ち着きなく歩き回って考え始める。
「どうする。どうする」
弓兵が機能しなくなってしまえば、川が渡れるほどに緩やかになった時点で敵軍は攻め寄せてくるはずだ。
森に配備した兵士の数は魔法使いを護衛できる程度。
丘の下の方に配備している兵士は、王都の民に武器を持たせただけの偽物である。
弓兵が流されてしまった以上、まともな戦いになれば数の劣る自分たちが負けることは間違いない。
そうなる前に撤退して、陣を立て直すべきか。
他に候補がいくつかあるにはあるが、ここほどには有利ではない。
しかし、撤退している間に味方の合流があれば、巻き返すことができるかもしれない。
ここで真正面から当たって兵士を失うよりはましだ。
なにより、負けて逃げ遅れれば自分の命がない。
ぞっとした。
殺されると思った瞬間、脚ががくがくと震えはじめた。
セナト侯爵はがりがりと親指の爪を噛み始める。
時間稼ぎに王都の民だけを残して撤退すべきか。
いや、そうだ、崖の方からも敵がやってきているかもしれない。
ならばそちらにも、いやしかし。
「セナト侯爵閣下! 魔法使いたちからの伝令です! どのようにすればよいかと……!」
「うるさい! 黙れ!」
セナト侯爵は声を裏返らせて怒鳴りつける。
魔物の素材で作られた立派な防具と剣を身に付けているのに、忙しなく歩き回るその姿には威厳の欠片もなかった。
次々とやって来る伝令の全てを怒鳴りつけながら、セナト侯爵はただただ手を打つこともできずに時間を過ごしていく。
伝令たちも怒鳴られるのが怖くて黙り込んでいるが、このままではまずいことはよく分かっており、互いにどうしたものかと顔を見合わせていた。
「……撤退する」
そうしてようやく出した結論がこれだった。
「魔法兵とその護衛は、密かにばれぬように撤退せよ。王都の民を前面に出し、私たちも陣営をたたまず、兵士だけで撤退する。王都付近の丘まで引き、そこで味方と合流して再度敵と当たることとする。密かに、素早く動け。特に、王都の民には絶対にばれないようにせよ」
王都の民を囮に使っての撤退。
自軍の兵士を失わないという点では悪くないように聞こえるアイデアであるが、これはすなわち、何日も兵糧を食いつぶして布陣した末に、敵を一兵も殺さず、自軍の弓兵の多くを失った上、王都の民をダミーの兵士として使っているという作戦を敵にばらした挙句の撤退である。
得た戦果は、ほんの一日と少し時間を稼いだだけだ。
号令を下したセナト侯爵は、自分の護衛の兵士だけをまとめると、真っ先に山を下りて王都に向けて逃亡を始めた。
当然王都の民たちも、何かがおかしいぞと気づき始めていたが、指示もなく勝手に逃げ出すわけにもいかず、その場に待機することしかできなかった。
裏手からクルムたちがひっそりと丘を登ってきたのは、すっかり丘の上が静かになった頃だった。
妙な静けさに、待ち伏せを警戒しながらゆっくりと本陣に近寄ったクルムたちは、そこでようやく本格的に付近に誰もいないことに気が付き、武器を手に手に本陣へと乗り込んでいく。
「もぬけの殻……ですね」
クルムがぽかんとした様子で呟き、すぐにきりっと周囲の様子を観察した。
もしやこれから包囲殲滅をされるのではないかと、逆に警戒心を呼び起こされたのだ。しかし、観察をすればするほど、夜逃げのような状態で敵がここから出て行ったことが分かってしまう。
未だ火がくすぶる煮焚き台。
置いていかれた兵糧。
陣を組み立てる道具や椅子も置きっぱなし。
「なんだこりゃあ……」
ゾエが呆れたように全員の気持ちを代弁したところで、モーリスの手の者が「しっ」と自分の口の前に指を立てる。
「誰か来ます……」
「ふむ……」
全員が息をひそめそれが現れるのを待つ。
何かとんでもないものがやって来るのではないか。
そんな警戒心を抱いているクルムたちの前に現れたのは――。