黒い石を思わせる岩肌に、深紅の亀裂が走った。
それはまるで、大地の奥底でくすぶり続けていた熱が、ついに蓋を吹き飛ばしたかのようだった。次の瞬間、地鳴りと共に地表が隆起し、吹き出した湯気が木々の隙間を押し分けるように広がってゆく。
蝉も鳴かぬ静寂の山間に、異物が現れた。
それは、鬼であった。
「……ふああ。よう寝たわぁ」
地割れの中心、砕けた封石の中から、長身の男がのっそりと起き上がる。裸足のまま、全身にひび割れのような痕を残し、男は大きく背伸びをした。陽光がその巨体を照らすたび、赤黒い皮膚がちらりと覗く。地獄の焰を思わせる肌。だが、その上にはまだ、剥がれかけの人の皮がまとわりついていた。
「……ちぃとばかし、身体がなまっとるの」
ぽきぽき、と指を鳴らす音が山にこだました。やがて、ゆるりと周囲を見渡す。枯れ枝、倒木、草いきれ。変わったのはそれだけ。だが、どこか空気が違った。
「――ほう。えらい澄んどる。よう冷えた酒が呑みてぇの」
その名を知る者はもうおらぬ。太古より鬼として在りながら、何百年も地に伏し、眠りについた男――タケシ。
封印されし場所は、地図にも記されぬ山奥だった。今はもう、封魔の術も忘れ去られ、結界も朽ち果てていた。タケシの中に残った記憶は、騙し討ちにあった平安の世と、かつて語らった男の顔。
坂上田村麻呂――あの時は、なかなかに旨い酒だった。あれが最後の晩酌になるとはなぁ。
そして、今。
身体を伸ばし、唸るように山道を踏みしめながら、タケシは歩き出す。
「腹減ったのう。まずは……団子でも探すか」
冗談めかして笑ったその時、ふと、風が変わった。
――タッ、タッ、タッ、タッ……!
遠く、山肌を駆ける音。小刻みに、だが確かに、大地を叩く軽い足音。タケシは無意識に顔を向けた。
木々の間を抜けて、一人の童が走っていた。
まだ十にも満たぬほどの年端。小柄な体つきに、剃り上げた額と深紅の瞳。その姿は、どこか不思議なほど澄んでいた。汗をかき、息を切らしながらも、どこか無心に走る様は、まるでそれが己の宿命であるかのように。
タケシは思わず立ち止まり、口を半開きにした。
「……なんじゃ、あの童」
ただ走るだけ。それだけなのに、妙に目を引いた。
まっすぐで、迷いがない。
何かに追われているのでもない。かといって、何かを探しているふうでもない。
ただ走ることが、生きることそのもののような、そんな気配。
「おもれぇの……」
唸るように呟き、タケシは興味を惹かれるまま、童の後を追い始めた。
とはいえ、彼の歩幅は並の人間の三倍はある。数歩進めば、すぐに追いついてしまう。だが、タケシはあえて距離を保ち、物陰に身を潜めながら童の様子を伺った。
近くで見ると、その童はさらに奇妙だった。
顔には驚くほどの無表情が貼り付いており、感情らしい感情が見えない。にもかかわらず、胸の奥に燃えるような熱を秘めているのが、なぜか分かった。
鬼の勘、かもしれない。
「なんじゃ、あの目……」
その時だった。ふと童が立ち止まり、振り向いた。
目が合った。
タケシの胸に、鋭い刃が刺さったような錯覚が走った。
違う。こいつ、ただの童やない。何かが……おる。
タケシが目を凝らすと、童の背には影のような“何か”が寄り添っているように見えた。いや、違う。そう“見えてしまう”のだ。まるで、人の身に納まりきらぬ何かが、無理やり押し込められているような。
「お主、何者じゃ……」
ぽつりと呟いた声は、風に流され、届かぬはずだった。
だが、その童は一歩、こちらへ踏み出した。
「……あなたこそ、鬼か」
静かなる声音。幼さの中に、不思議な深みを湛えた声。
タケシは思わず眉を上げた。人の子が、鬼と見抜くなど――いや。
この童、目が、透き通っとる。人の魂を、見抜く目じゃ。
「ほう……面白ぇの。わしのことが見えるか」
ぐっ、と背を伸ばし、タケシは笑った。
次の瞬間、皮膚の一部がずるりと剥がれ、下から赤黒い本来の肌が覗いた。
「……!」
童の瞳が、わずかに揺れた。
その反応に、タケシはにやりと笑みを深めた。
「わしのこと、知っとるんか?」
「知らない。だが……」
童は小さく首を横に振り、道の横へスタスタと歩くと手頃な枝を拾い、そして静かに構えた。
その動きは、無駄がなく、澄んでいて――そして、強い。
タケシは、歓喜した。
おもれぇ!!!
よう走る童じゃった。けど、もっと面白ぇのは――あの目よ。
魂を見抜くような透き通った目。ただの人間の目やねぇ。あれは……なんやろうな、太陽を内に飼うてるみてぇな。
ほんで何や、こっちを見て言うたんじゃ。
「あなたこそ、鬼か」――ってな。
おもろすぎて、笑いそうになったわ。いや、実際笑うたな。だってそうやろ? こっちは寝起きの鬼、しかも封印明けでまだ皮も全部剥がれてへんいうのに、いきなり見抜いてくるんじゃぞ?
ほんま、ええ童に出会うたわ。
「わしのこと、見えるんか?」
思わず口に出た。そしたらな、あの童、ちぃと首傾げてな――
「知らぬ。だが……あなたからは、人の香りがしない」
……おいおい、どんな鼻しとんじゃ。
そないなこと言われたのは、桃太郎以来じゃぞ。アイツも最初、刀持って突っ込んできよったけぇな。「この鬼、団子の匂いがせん!」言うて。団子の匂いってなんやねん、って思いながら笑うた記憶がある。
その童、構えを取った。
構え言うても、ようある剣術の構えじゃねぇ。もっと自然で、流れるようなもんじゃ。水でも火でもねぇ、ただ……「正しさ」そのものみてぇな、無垢の一撃を感じた。
こりゃ、ほんまに一発斬ってくるつもりやな――そう思うた途端、身体がぞわっと震えよった。
なんや、えらい嬉しゅうなってきたで。
「……おんし、名前は?」
問いかけると、童はほんの少し間を置いてから答えた。
「継国、縁壱」
つぎくに……よりいち。変わった名前やが、妙に耳に残る響きじゃ。
「……よう覚えとくわ。わしは……」
名乗ろうとしたが、名が無かったわ。いやあるけどもう使わん。
そういや…昔——桃太郎と会った時…
「わしの名前は……名乗るほどのもんでもないがの。けんど、おんしのようなもんにゃ教えといてもええ“———”と呼ばれとったこともある。今は、ただの鬼じゃ」
「おい、鬼。話をするなら、これを喰ってからにしようぜ。吉備団子だ」
ふふ、懐かしい思い出じゃ。
まあええ。名があっても無くても、わしはわしじゃ。
「タケシ、ゆうて呼ばれとる。別に本名ちゃうけどな」
縁壱は無言で頷いた。それがええ。あれこれ問わんのは、ええ男の証拠じゃ。
んで、斬ってきたわ。
もうなんの前触れもなく、ひゅん――と風が動いてな。ほんま一瞬、空気が裂ける音が聞こえた。
速っ!!!
寸でのところで身を捻った。人化の皮が破れて、肩口から赤黒い本来の肌が露出する。痛くも痒くもねぇが、ひさびさに肚が煮え立ったな。
「やるやんけ……! ほな、次はわしの番じゃろがい!」
笑いながら拳を振り上げる。とはいえ、本気で殴ったら山がひとつ潰れる。ほいじゃけぇ、力は三割じゃ。
がすんッ――!
地面を叩いた拳の衝撃で、枯れ葉が宙を舞った。
縁壱はさっと後ろに跳んで間合いを取る。うん、ええ判断じゃ。ちょっとやそっとの剣士なら、今ので腰抜かしとる。
――たった十年にも満たん童が、わしの力を見て怯まん。
わしの目を見て、心を折らん。
これは、ほんまもんやな。
「……なあ、縁壱」
試しに呼んでみた。
「なんで走っとったんじゃ?」
縁壱はふと目を伏せ、そしてぽつりと答えた。
「走れば、母の声が……聞こえる気がするから」
……なんじゃそりゃ。思わず笑いかけて、やめた。
わしには分からん。けど、こいつにとっては、きっと大事な理由なんじゃろな。
「よう分からんけどな……おんし、よう走るし、よう斬る。わし、気に入ったわ」
それだけ言うと、縁壱はきょとんとして、それから――微かに、ほんまに微かに、笑うた。
そん時、空が晴れた気ぃがした。
――これでええ。こいつとは、ちぃと一緒におってみたい。
どこまで走るのか、見てみたくなった。
「ついてってええか?」
「……構わぬ」
そんな風にして、封印明けの鬼と、継国縁壱の奇妙な道行きが始まったんよ。
この時はまだ知らんかった。この縁が、やがて運命に波紋を投げることになるなんてな。
けどまあ……わしにゃあ関係あらへん。
今はただ、面白ぇやつと一緒におれる――そんでええんじゃ。わしぁ、今を生きとるけぇな。なあ、縁壱。おんしも、そう思うとるんじゃろ?
そん日は、なんや風の匂いがやけに優しゅうての。
縁壱と歩きながら、「今日はええもんに会えるかもしれん」――そんな気がしとった。
山道を抜けた先に、小さな棚田があった。畦道には、風に揺れる細い草。水面には空が映って、のう、まるで天の畑みてぇじゃった。
そこに、ぽつんとひとりの娘がおった。
田んぼの端でしゃがみ込んで、じっと水面を見つめとる。細い指でちまちま何かすくうて、また戻しとる。それを何度も、何度も。
縁壱がすっと前に出た。
「……なにを、してるの?」
娘はぴくっと肩を揺らして、顔を上げた。
黒髪に、白い顔。年のころは、縁壱より少し上くらいかのう。けどその目は、深い悲しみを湛えとった。底のない静けさが、そこにはあった。
「……おたまじゃくしを、連れて帰ろうかと思って」
そう言うた声が、かすかに震えとった。
「……寂しいから。わたし、一人になってしもうたから」
聞けば、流行り病で家族を皆、亡くしたらしい。
家も、声も、灯りも、全部――急に消えたんじゃと。
「そっか……」
縁壱の声が、やわうなった。わしも、ひとつ深く息を吐いた。
何も言えんかった。ただ、水の音と、風の揺らぎだけが続いとった。
やがて、空が朱に染まり始めた。
娘がそっと手のひらを開いて、水に浮かべた。
「……やっぱり、だめじゃ。連れて帰ったら、この子たちも家族から引き離してしまう」
おたまじゃくしが、指の間から泳ぎ出して、また田んぼに戻っていった。
その姿を、縁壱がじっと見とった。
そして、ぽつりと――ほんま、ぽつりと、こう言うたんじゃ。
「じゃあ……俺が、一緒に家へ帰ろう」
……なんてやつじゃ。
わしはその背中を見つめながら、内心で唸った。
優しいとか、ええ子とか、そんな生ぬるい言葉じゃ片付かん。
魂が、綺麗すぎるんじゃ。
おんしはほんまに、人の悲しみに触れたとき――こうも真っ直ぐ、そばに立とうとするんか。
娘は、ぽろぽろと泣き始めた。
声もなく、ただ涙を流して、縁壱の袖をきゅっと握った。
名を、ウタという。
この静かな田んぼで出会うたのが、たまたま縁壱やなくて、他の誰かじゃったら――この結びつきは生まれんかったじゃろな。
けど、おんしがそこに居った。ほんで、言うたんじゃ。
「一緒に帰ろう」って。
その日から、ふたりは身を寄せ合うように暮らし始めた。
山のふもとの小さな庵に移り、縁壱は薪を割り、畑を耕し、ウタは味噌を仕込み、布を織った。
わしは、ちょっと離れた岩陰でそれを眺めとるだけじゃった。
居候にもならん。客にもなれん。けど、どうしても目が離せんかった。
「あの二人……まるで夫婦みたいやのう」
そう独りごちると、どこか嬉しゅうもなってくる。
縁壱が笑うた。ウタが唄うた。ふたりの時間が、静かに重なっていった。
鬼であるわしは、触れられん。
せやけど、こうして“見とる”ことならできる。
見守るだけでも、ええもんやな。
風が渡り、蛙が鳴いた。
水面に浮かぶ影が、三つになった気がしたんじゃ。
わし、縁壱、ウタ――
たったそれだけが、この世の全てのように思えた、あの日のことよ。
うたなんですが、ウタに統一してます。