評価値が1000!ありがとうございます。ルーキーランキングに載らなくなったので名前を公開しました。よろしくお願いします。
翌朝、霧が晴れる前から、わしと縁壱は山の斜面を歩いていた。
庵の周囲、東から南、そして西へとぐるりと回り、何度も地を踏み、木の根を確かめ、風の流れを読む。
「……こっちは、風が下から登ってくる」
「谷筋やけんな。匂いも登る」
「なら、焚き火はこの辺にひとつ。油を染み込ませた布と一緒に」
「臭いのきついもん混ぜといたほうがええな。獣避けと同じや」
縁壱が、手に持った油袋を開ける。中には、干した獣脂、葱の皮、そして燻した煙草の根。
「……えげつない臭いやな」
「鬼が“鼻で狙う”なら、鼻を焼いた方が早い」
わしは笑いながら、杭を地面に打ち込んだ。これもただの木杭やない。馬柵に使われる楢(なら)の古木。硬くて腐りにくい。
「杭の先端には、狼の尿を染ませた布を巻いておく。獣は避けるし、鬼にも効けば儲けもんや」
「いやらしい布陣やなあ……好きやわ」
ふたりで黙々と作業を続ける。
枯れた竹を集め、割り、束ねる。中に乾いた胡椒の実、炒った大豆の皮、干した鷹の爪。
「焚けば煙が目と鼻を潰す。これも通せんぼやな」
「土に埋めておいて、踏んだら燻るようにしておく」
「……猟師の仕掛けによう似とるな」
「猟師も、鬼も、結局“命を奪う側”。そいつらの習性が変わらないのなら、対策も同じでいい」
「理屈やのうて……理があるな」
縁壱は、その言葉を聞いてふと立ち止まった。空を見上げる。
「“理”を一つずつ積み上げることで、人は鬼に届くんでしょうかね」
「届くやろ。“届かん”言うなら、わしがいる意味がなくなるけぇな」
ふっと、風が吹いた。濃く乾いた空気が、山の上から流れてくる。
わしと縁壱は、その風の流れを読むように顔を向けた。
「こっち側の地形がいちばん緩い。入られやすいのもこの方角じゃ」
「なら、ここに最後の一手を仕込もう」
縁壱が懐から、小さな布袋を取り出した。
中身は、糠(ぬか)に混ぜた焼き炭と枯れ薬草の粉。強い煙を生む火種になる。
「乾いた葉の中に混ぜて、燃やせば、数刻は目も開けられない煙が出る」
「ほんま、よう考えるのう」
「守るため…です」
縁壱の手が止まり、ぽつりと呟く。
「陽が笑うために。ウタが安心して眠るために。それだけで、俺は何でもやる」
「そんでええ。わしも同じや。守るもんがあるからこそ、拳を振るえる」
ふたりして、最後の杭を打ち込む。
それは結界でも術でもない。ただの杭。ただの煙。ただの火種。ただの臭い。
けれど、それらすべてに“守る意志”が通っとる。
わしらは、人を守るために“人の知恵”を積み重ねる。
それが、鬼への最大の対抗じゃ。
わしはそっと手の甲で汗を拭った。縁壱も額にかいた灰を払い、ふたりで庵の方へ視線を向けた。
「――これで、庵の外は囲った」
「なら、次は“中”を守る準備やな」
——縁壱視点——
夜の山は、底が抜けたように静まり返っていた。
風がなく、虫の声も絶え、梢すら揺れぬほどの静けさ。だが、その静けさこそが、何よりも鋭かった。
見張りの番は、俺の役目だった。
庵の周囲には、昼間タケシさんとともに仕込んだ仕掛けが点在している。湿った煙草葉をくべた火桶、蓼と炭を混ぜた焚き火、獣の尿を染ませた杭。
どれも“人”の知恵だ。“術”ではない。
だが、この夜において、それらのひとつひとつが生きた命のように、庵を囲ってくれていた。
俺は火桶のそばに立ち、ゆっくりと呼吸を整えた。
深く吸い、腹へ落とす。肺の奥から背骨を伝って、足先にまで息を行き渡らせる。目を閉じるまでもなく、耳が、肌が、地を這う音を探していた。
“風”ではなく、“気”を読む。
その技は、名もない。ただ、父となった俺が選んだ生き方の延長だった。
“音のない足音”が、山の下から忍び寄ってくるかもしれない。
けれど――今夜はまだ、何もない。
火桶が燻る。煙が逆風に巻かれ、わずかに庵の背へ流れていく。
俺はその煙の軌道を見て、火桶の向きを少しだけ変える。
「……これで、東の尾根も鼻を突くはず」
かすかに音がした。竹筒の仕掛けが、風に鳴る。
“誰か”が来たのではない。風が、急に流れを変えただけだ。だが、それだけでも警戒に値する。
《“平穏”が保たれているのではなく、“守られている”のだ。》
そのことを、俺自身が誰よりも痛感している。
庵の戸口に近づき、中を覗く。
タケシさんは囲炉裏のそばに座り、拳を膝に置いたまま目を閉じていた。眠っていない。戦の準備をしたまま、“何も起きない”ことを祈る体勢。
その傍らでは、うたと陽が寄り添って寝ていた。
「……守るものがあると、人は強くなれる」
誰に向けたでもない言葉が、吐息となって消える。
俺は再び戸を閉め、背を向ける。
木々の隙間から、星が滲む。
その夜、鬼は来なかった。
だが、俺は知っている。
来ない夜が続くほどに、次の一歩は確実に“近づいて”いる。
———
朝になる前――まだ東の空が墨のように濃く、ほんのり青味がにじみ出すかしないかの時刻。
庵の裏手で、何かが音を立てて逃げた。
がさっ。ばさばさ、と下草を荒らして走る音。
風ではない。獣でもない。
火桶のそばに吊るした竹筒が激しく揺れ、鈍い音を打ち鳴らした。蓼と煙草葉を燃やした焚き火は半ば消えかけ、煙だけが強く残っている。
わしは囲炉裏の前で目を開けた。
「……来よったか」
戸を開けると、煙の向こうに縁壱が立っとった。
まだ息が上がっていない。夜通し見張っていたにもかかわらず、まるで朝の風の一部みたいに、姿勢も呼吸も揺らいでおらん。
「罠が効いたな?」
「はい。煙に触れた瞬間、反応した。……鼻を焼かれたのかもしれない」
「傷は?」
「ない。でも、“迷い”があった」
わしは縁壱の横に立ち、地面の痕を見た。ぬかるみはないが、草が折れとる。小さな滑り跡と、引き返した痕。
鬼は、“人の作った煙”に怯んだ。術でも結界でもないただの“くせぇ煙”じゃ。
「……十分やな」
「ええ」
煙はまだ、鼻に残るほど濃い。目がしみるほどや。
縁壱がふと庵を振り返る。
「……夜が明けます」
「それでも、夜が消えるわけじゃねぇ」
二人の言葉が静かに溶けていく。
わしらは、明け方の淡い光のなかで、しばし何も言わず立っていた。
そのとき――庵の奥から、ちいさな声がした。
「……ふ、ふぁ……」
陽が目を覚ましたのだ。泣き声ではない。眠気混じりの、喉を潤すような吐息。
「起きたか」
わしは戸を開けて中に入った。
ウタはまだ寝ている。薄く笑って、陽の頭に手を添えたまま。
わしは陽に近づき、そっと抱き上げる。陽の目が、ぱち、と開いた。
その瞬間――
陽の目が、“庵の外”を見た。
まだ幼子のはずのその視線が、一瞬だけ、戸口の外に残る“何か”を見ていた。
いや、見たというより感じた。
「……タケシさん」
振り返ると、縁壱が、こちらの陽の目線と同じ方向を向いていた。
「……あの子、いま“感じ取った”かもしれない」
「おんしもそう思うんか」
「鬼じゃない。もっと淡い、もっと遠い。……でも、確かに“触れられた”」
陽はふにゃっと笑った。まるで、「大丈夫や」とでも言いたげな、あどけない顔。
わしはその笑顔を見つめながら、そっと腕の力を込める。
この子は、ただの人間やないかもしれん。
けど、それでもええ。わしらの“陽”であることには、なんの変わりもない。
「陽。もしもお前が“見える”ようになってもな、怖がらんでええ。外にはわしらが立っとる」
「必ず、守る」
縁壱がそう言った時、火桶の奥で竹筒が再びかすかに揺れた。
だがもう、逃げる気配はなかった。
鬼は“外”に留まり、陽は“中”に微かな光を灯した。夜と朝、その境にわしらは立っている。