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また夜が、重たく降りた。
今夜の空は、月が見えなかった。雲が厚く、星のひとつも見えぬほどに空が黒い。まるで、空ごとこの庵を呑み込もうとしているような気配だった。
煙も火も、音も全部が沈むような闇――“来る”と分かった。今夜は違う。確実に来る。
わしは縁側に腰をかけ、拳を握ったままじっと耳を澄ませる。戸の内では、縁壱が火桶の火を整え、うたが陽を抱いて横になっていた。
まだ泣いてはいない。だが陽は、目を見開いたまま、庵の天井をじっと見つめている。
「……陽、どうした?」
うたが囁いた。
そのとき。
《“感じた”。》
空気が震えた。呼吸が、皮膚の裏を逆流する。骨が冷え、血が沸く感覚。わしと縁壱が同時に顔を上げた。
「五……いや、もっとか?」
「いいえ。五体。ぴったり五体」
「……よう分かるのう」
「陽が教えてくれた」
わしは息を呑んだ。庵の中、縁壱の腕に抱かれた陽の目が、まだ外を見ていた。いや、目というより“気配そのもの”が、外を指していた。
「全部、ばらばらに動いてる。庵を囲むように。けど、攻め入ろうとはしてない……“探ってる”。」
縁壱の声は冷静だった。だが、その奥には明らかな怒りと緊張があった。
「――囲まれとる」
「うん。……だけど、陽が怖がってない」
うたが、ふと口にした。
「さっきから、ずっとこっちを見たまんま、震えもせん。むしろ……あったかい」
縁壱が陽の頬に手を当てる。わずかに熱を持っていた。
「……この子、自分が“守る側”でもあるって、分かってるのかもしれない」
陽から、“圧”が出ていた。
赤子の身にあるまじき、じわりと押し返すような力。まるで、光が匂い立つような“陽気”――鬼にとって、きっと“毒”になるもの。懐かしい圧じゃ。
そのとき、裏の竹筒が割れる音がした。
「来たか!」
わしが立ち上がるのと同時に、戸口の外で、がりっという木が裂ける音が響いた。
五体のうちの一体が、仕掛けにかかった。
煙草葉と蓼、獣の尿、焦げた米と薬草のにおいが風に混じる。鬼の動きがそこで一瞬止まる。
だが止まったのは一体だけ。ほかの鬼はその隙に、別の方向から庵へと近づいていた。
「タケシさん!」
「行くぞ。二手に分かれる。わしが外へ出る」
「俺は中に留まる。庵は通さない」
「……ええ構えじゃの」
ふたりして目を合わせる。互いに、何も言わずとも分かる。
庵を壊させない。陽を泣かせない。うたに血を見せない。
夜は、ここが境じゃ。通さん。
わしは拳を鳴らし、縁壱は木刀を抜いた。
火桶の火が、風に吹かれて小さく揺れた。
そして――庵の東と南、二方から同時に、鬼の影が飛び出してきた。
夜が裂けた。
戸口を蹴破る音とともに、五体の鬼が庵を包囲する。異様な長い手足。裂けた口。膨れた腹。夜の闇そのものが襲いかかるような気配。
「来よったか……!」
縁壱が木刀を抜き、タケシは戸を蹴って外へ躍り出る。
その一瞬で、二体の鬼が襲いかかる。ひとつは地を滑るように、もうひとつは空から屋根を割って。
「邪魔や!」
タケシの拳がひとつを地へ叩き伏せ、縁壱の木刀がもうひとつを空中で迎え打つ。
骨が砕け、筋が裂け、地面がめくれ上がるほどの衝撃が走る。
しかし――
鬼は死なない。
ぐしゃりと潰された顔面が、骨音を立てて戻っていく。折れた首が、ぎちぎちと音を立てて繋がっていく。
「やはり……!」
縁壱が静かに息を呑んだ。
「太陽が昇るまで、滅びはせん」
「じゃあ……」
鬼が雄叫びを上げて突っ込んでくる。
縁壱は正面に立ち、左右へ足をさばき、木刀を横に構える。鬼が二体、同時に飛び込んでくるのを、寸分違わず切り裂いた。
その一瞬、動きが止まった――だが。
「……立っとる」
半身を裂かれた鬼が、ずるりと立ち上がる。破けた口元が笑った。
「死なへんのが自慢か……腹立つわあ」
タケシが一歩踏み込む。拳が唸り、もう一体の鬼の腹を打ち抜く。
鬼が吹き飛び、木々をなぎ倒して地面に叩きつけられる。だが、それでも起き上がる。
これが“鬼”。人でも、獣でも、神でもない、死を拒む怪物。日の光でしか死なない化け物。
「ならば、夜が終わるまで──殴り続けるだけ!」
「斬り続けるだけ!」
そのとき、庵の中――陽が目を覚ました。
目が開かれると同時、空気が揺れた。熱でも風でもない、“気”が押し出された。
陽の身体から溢れたものは、目に見えないが確かに感じ取れる“圧”だった。
鬼たちが一瞬、戸口を睨んで動きを鈍らせた。
「なんや……いまの……!」
タケシが鬼の首を掴んで地面にめり込ませる。
「わからんけど……陽が怒っとるな。お前らが近づいたからや」
縁壱もまた、庵の気配を確認して目を細めた。
「陽が、鬼の動きを鈍らせてる。あの子……“圧”を放ってる」
鬼は死なない。殴っても、斬っても、潰しても、それだけでは足りない。
だが、陽の“存在そのもの”が、鬼にとって毒となり、苦となり、足を鈍らせている。
うたがそっと陽を抱き寄せる。震えひとつ見せず、目を閉じたまま、陽は穏やかに息をしていた。
「大丈夫や。陽、お父さんと……じいちゃんが、守っとるからな」
夜は深く、闇は濃い。
けれど、その真ん中で――タケシと縁壱は動きを止めない。
拳が、木刀が、火花のように鬼を打ち据える。骨が砕け、血が飛び、声が潰れる。
それでも、鬼は死なない。
だから、朝が来るまで──一秒も止まらず、戦い続ける。
そうして戦い続けていると……
遠くの空が、白んできた。
まだ地平線の向こう。だが、確かに“夜が終わる”気配があった。風のにおいが変わる。冷たさの奥に、あたたかい湿気が混じってきた。
その瞬間、鬼のひとつが、ぴたりと動きを止めた。
「……来よったか」
日じゃ。
わしはその気配に気づき、拳を止めずに踏み込んだ。
鬼は、再生をしながらも一歩後ずさった。
夜の濃さが、足元から引かれていく。
まるで、足元の“居場所”がなくなっていくかのように。
縁壱の木刀が一閃、鬼の肩口を裂く。
「もう……逃げようとしてる」
「逃げ場があらへんのや。太陽が来るからな」
斬っても、殴っても死ななかった五体の鬼。
だが今、東の空が染まり始めたことで――ようやく“死に至る道”が開いた。
タケシが鬼の頭を掴み、地面にねじ伏せる。
「夜の王様気取りでおったけどな――」
朝日が、その頬に触れた。
「おんしらは、“陽”にゃ勝てんのんじゃ」
ぶつり、という音とともに、鬼の皮膚が焼ける。煙が立ち、悲鳴が上がる。
もう、回復はしない。
一本、また一本と、陽の光が山の木々を貫いて差し込んできた。
縁壱の足元で倒れていた鬼の腕が、崩れた。白煙をあげて灰になる。
「……やっと、終わる」
鬼たちは声を上げる暇もなく、次々に光に触れ、溶けるように消えていった。
五体のうち、誰ひとりとして“死”を受け入れる声を残せなかった。ただ、光に焼かれて灰になっただけ。
それが“鬼の最期”だった。
静かだった。
あまりにも、静かすぎた。
「……やっと、夜が終わったんじゃの」
わしは拳を下ろし、息を吐く。血が乾いて腕にこびりついていた。
縁壱も、ゆっくりと木刀を納める。
庵の前。煙がまだ地を這っていた。風が吹き、煙が散ると――ようやく、家が見えた。
タケシは、ふらりと縁側へ向かい、腰を下ろした。
縁壱も、何も言わずその隣に座る。
二人とも、しばらくは無言だった。
何かを語るよりも、“何も言わないこと”の方が必要な時もある。
しばらくして、縁壱がぽつりと言った。
「……俺、あんなに斬ったの、初めてです」
「わしも、あんなに殴ったん、何百年ぶりかのう」
「疲れましたか?」
「……正直、ちぃと手が震えとる」
「それ、俺もです」
二人、笑った。
そのとき、庵の戸が音を立てて開いた。
うたが陽を抱いて立っていた。
陽はもう起きていた。目を開けて、じっと空を見ていた。
「……終わったんですね」
「うむ。終わった」
うたがそっと陽を縁側へ近づけると、陽は手を伸ばし、朝の光に小さな指を伸ばした。
その手先に、光が当たった。
まぶしくないらしい
ただ、じっと光を見つめていた。
「……この子、なあ」
タケシがぽつりと言う。
「おんしらの子やけどな……ほんま、すごい力持っとる」
「俺でも、“怖い”と思った」
「わしもや。夜の真っ只中におって、こんなに“陽”を感じたん、初めてじゃ」
うたはその言葉を聞いて、陽の背を優しく撫でた。
「でもね、この子が強くても、まだ赤ちゃんです。怖くないように、寂しくないように、私たちがそばにおらな」
「そうじゃな」
縁壱も頷いた。
タケシは陽の頭をそっと撫でた。
「陽。お前がおってくれるだけで、わしらは朝を迎えられる」
太陽が昇った。
庵の屋根が、煙に濡れて光っていた。
鬼の夜は終わった。けれど、戦いはまだ続く。
守る者として、わしらの朝は、これからも終わらん。