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その朝、空は高く、風は静かだった。
山の梢には陽が射し、昨夜までの緊張がまるで嘘のように空気から抜けていた。
庵の周囲では、縁壱が仕掛けを点検し、タケシは斜面の下で斬られた竹を拾い集めていた。
陽はすやすやと眠り、ウタは干していた薬草を編み紐に包みながら、縁側に座っていた。
静かな時間だった。
だが、空気が変わった。
森の中から、気配が近づいてきた。
敵意はない。だが、迷いもない。
“戦う者の歩き方”だった。
タケシが拾っていた竹を脇に置き、ゆっくりと立ち上がった。
縁壱もまた、音もなく腰を上げた。
姿を現したのは、炎を思わせる羽織を纏った男――煉獄寛寿郎だった。
「……来よったな。やっぱりあの時の男じゃ」
「ええ。俺も、間違えませんでした」
寛寿郎は深く頭を下げた。
「再びご挨拶を。鬼殺隊隊士、煉獄寛寿郎と申します。先日は、無礼を承知で失礼しました」
「そっちはどうでもええが、ここに来るたびに面倒ごと背負うんじゃなぁ、お主」
「そう思われても仕方ありません……ただ、伝えねばならぬことがあるのです」
縁壱がそっと一歩前へ出た。
「あなたの所属する鬼殺隊は、この山を“鬼の行動範囲”と認識したのですか?」
「はい。昨夜の件で確定しました。五体の鬼が同時に消えた。あなた方が押し留めたのだと……我々は判断しています」
タケシが鼻を鳴らす。
「余計な詮索すな、とは言わんけどな……それで、どうする気じゃ?」
寛寿郎は少し間を置いたのち、言葉を選ぶように続けた。
「この山は、もう“安全な場所”ではありません。鬼の襲撃は、今後も繰り返されるでしょう。
それも、数を増し、策略を伴い――より深く、狡猾に」
縁壱の表情は変わらない。ただ、視線だけが鋭くなった。
「……それを踏まえて、何を求めるのです?」
「あなた方を、安全な場所にご案内したいのです」
タケシが目を細めた。
「安全な場所……?」
「はい。我らが保有する、藤の花に囲まれた屋敷がございます。古より“鬼を寄せつけぬ地”として守られてきた場所。
そこならば、陽君も、奥方も、あなた方ご自身も……今よりはるかに落ち着いて暮らせるはずです」
うたが縁側から顔を上げた。
「……藤の花……聞いたことある。鬼が近づけん言い伝えの……」
「事実です。効果も確かめられています。夜の見張りも、物資の支援も……私の責任で整えます」
縁壱が、タケシを見た。
「タケシさん。……どうしますか?」
タケシはしばらく空を見上げていた。
「……そっちの“藤の屋敷”っちゅうやつ、居心地がええんかどうかは知らんけど……」
地面に落ちていた竹を拾い上げ、ぽんと肩に担ぐ。
「陽が安心して笑って眠れるんやったら、行くのも悪ぅないわな」
縁壱が小さく笑う。
「それが全てです」
寛寿郎は、静かに頷いた。
「案内は私がいたします。ご準備が整い次第、山を降りましょう」
その言葉に、うたが陽をそっと抱き直した。
森の風が、やわらかく吹き抜けた。
誰も知らぬ場所で、誰も知らぬ戦いを続けていた者たちが、ようやく“守られる場所”へ向かうことになった。
山を降りる道は、穏やかな傾斜が続いていた。
薄曇りの空にはときおり陽が差し、遠くで雉の鳴く声がする。土はやわらかく、草の香りが混じる風が背を押してくるようだった。
タケシは手製の荷をひとつ肩に担ぎ、縁壱は陽を背負い、うたは包みを胸に抱えて歩いていた。
その少し前を、煉獄寛寿郎が導くように静かに進んでいる。
山中の緊張が嘘のように、道は静かだった。
下り道がひと段落したころ、小さな茶屋が現れた。
木造りの軒先には、串団子の文字と、うっすら立ちのぼる甘い香り。
老夫婦が営んでいるのか、素朴な木札が揺れていた。
タケシが鼻をひくつかせる。
「……ん。あんま、香ばしい匂いがしよるのう」
縁壱も足を止めた。
「……団子、ですね」
「団子……ええな」
うたがふっと笑った。
「寄ってこか?」
「そうしましょう」
寛寿郎も振り返って頷く。
「しばし足を休めましょう。味は保証します」
店に近づくと、火鉢の上で団子がじりじりと焼かれていた。
焦げ目がつき、醤油の香ばしさが鼻をくすぐる。
老店主がにこにこしながら出迎えた。
「おやまぁ、旅の途中かい。今日はよう歩かれたろう」
「ちぃと、な。腹の虫も鳴っとるわ」
タケシが素直に言うと、縁壱が思わず吹き出した。
「……珍しいですね、タケシさんが遠慮しないなんて」
「黙っとけや。腹減ったもんは減っとんじゃ」
陽が、縁壱の背の中でふにゃ、と笑ったように動いた。
「……ほれ、陽も笑っとるわ」
うたがそっと覗きこみながら言った。
老夫婦は串を四本手渡してくれた。
縁壱とタケシが一本ずつ受け取り、うたは陽の手を握りながら小さくちぎって口元へ運ぶ。
「……あったかいな」
縁壱がぽつりと呟いた。
団子のやわらかな甘さと、炭火の熱。木陰の涼しさに、少しだけ汗ばんだ額。
それらがすべて、胸の奥をゆるませてくれるようだった。
「たまには、こういうのも悪ぅないな」
タケシが言うと、うたがくすりと笑った。
「陽にも、こういう時間がたくさんあってほしい」
「うん。笑って、食べて、眠って」
縁壱の声は、風の音にまぎれて静かだった。
それを聞いていた寛寿郎が、ふとひとつ頭を下げた。
「……ありがとうございます。俺は、鬼を斬ることしか考えてきませんでした。
でも……こういう時間のために戦うのだと、ようやく少しだけ、わかった気がします」
「おんしも、少しは“人間”に戻れたんかもしれんなぁ」
タケシのひとことに、寛寿郎は思わず目を丸くしたあと、肩を揺らして笑った。
串に残った最後の団子をゆっくり噛み締めながら、タケシはふと遠い昔に思いを馳せた。
焦げ目の香ばしさ。もちもちとした歯応え。噛むほどに染み出す醤油の甘じょっぱさ。
それは、あの味にどこか似ていた。
吉備の国で、桃太郎と一緒に食った団子。
あの時は猿と雉と犬っころを連れて、わしら五人で腰を下ろして頬張ったもんじゃ。
「……あの頃の団子も、こんな味やったな」
縁壱が振り返る。
「え?」
「いや、ちぃと昔を思い出しただけや」
タケシは照れたように笑って立ち上がる。
団子の串をくるくる回しながら、口の中で懐かしい歌をぽつりと口ずさんだ。
「♪もーもたろさん、ももたろさん、おこしにつけた吉備団子~……ひっとつ、わっしにくださいなぁ~っと」
不思議と、その旋律に風が乗った。
縁壱が驚いたように眉を動かし、ウタは吹き出しそうになりながら陽を揺らす。
「……タケシさん、それ……」
「うん。わしの昔の相棒がよう歌っとったんじゃ。……人の歌ってのは、不思議なもんじゃのう。忘れたつもりでも、口が勝手に動く」
「桃太郎、って……あの昔話の?」
「ほい。わしが唯一、団子を半分こした男よ。……よう喧嘩して、よう笑うた」
縁壱が目を細めた。
「タケシさんにも、そういう“戦わん友”がいたんですね」
「おるさ。犬っころの癖に、わしのことよぉ吠えよったし、猿はアホやし、雉もやかましかったが……それでも一緒におると、腹の底から笑えた」
タケシの視線は、団子屋の煙を越えて、もっと遠くを見ていた。
「……笑えるんは、ええことじゃ。陽も、いつかそういう友に出会えるとええの」
陽は、背でふにゃりと声を漏らした。
笑っていた。
タケシはそのぬくもりを背に感じながら、空を見上げた。
団子を食べ終えたころ、雲の切れ間から光が差した。
風が吹き抜ける。あたたかく、やわらかい、春の風だった。
山を越えたその先に、藤の花が咲き乱れる屋敷が待っている。
まだ見ぬその場所に向かって、彼らは再び歩き始めた。
守るべきものを、しっかりと胸に抱いたまま。
山道を抜けた先に、その屋敷はあった。
広く、開けた丘陵の中腹。
外塀を囲むように咲き誇るのは、数えきれぬほどの藤の花。
淡く揺れる紫の花房が、風にそよぎながら屋敷を包んでいた。
藤の香は、鬼を寄せつけない。
だがそれは、“ただ遠ざける”のではない。
甘く、清く、静かに人の心を鎮めていく。
この屋敷には、確かに“人が安心して生きるための空気”があった。
「……こりゃまた、見事なもんじゃのう」
タケシが目を細め、藤の棚を見上げる。
陽の光を透かした花の影が、彼の肩に降りていた。
「藤は、昔から“結界”として知られています。弱った鬼でも踏み入れば、その毒気で意識が霞む」
煉獄寛寿郎が、屋敷の門をくぐりながら振り返った。
「屋敷の中央は完全な無風。花粉が薄く保たれています。陽様にも無害ですから、安心してください」
縁壱は静かに頷いた。
うたは陽を抱き直し、ふわりと咲く藤に目を細めた。
「……きれい。なんや、不思議な静けさやな」
「そうですね。けど、嫌な感じじゃない。よく眠れそうです」
屋敷には、すでに数名の鬼殺隊士が配備されていた。
皆、黙して距離を保ちつつも、縁壱たちの存在に対して敬意を向けていた。
その目は、ただの見張りでも、警戒でもない。
“仲間”を迎えた時の、それに似た何かだった。
日が暮れるころ、簡素ながらもあたたかな食事が用意された。
囲炉裏を囲み、湯気が上がる。味噌汁、焼き魚、炊き立ての飯。
庵と変わらぬ素朴さが、むしろ心を落ち着かせた。
食後、縁壱が陽を寝かしつけていた間、寛寿郎が廊下にひとりで座っていた。
その傍に、ふらりとタケシが腰を下ろした。
「……妙に静かな屋敷やな。騒がしい隊士はおらんのか」
「ここの隊士たちは、皆“見守る役”です。戦うのではなく、支えるために配置された者たちです」
「……ほぉ。それはまた、珍しいもんじゃ」
「そうでしょうね。ですが、この場所においては、それが一番の“戦い方”です」
寛寿郎はひと呼吸置いてから、口を開いた。
「……ひとつ、お願いがあります」
「ほう」
「剣のことです。縁壱さんが振るうあの剣の流れを……どうか、少しだけ、俺たちに伝えてはいただけませんか」
タケシは眉を寄せ、横目で寛寿郎を見た。
「教えて欲しいんか?」
「はい。できる限り、で結構です。あの剣筋は、人を救う道だと感じています」
「……わしから教えることは、なんもないぞ。あいつが、おんしらに何かを“託す”と思えば、わしは止めんが」
「……ありがとうございます」
寛寿郎は深く頭を下げた。
そこに、陽を寝かせ終えた縁壱がやってきた。
「話は聞いていました。……少しずつなら、可能です」
「……!」
「ただし、“技”ではありません。“体の使い方”を伝えるだけです。あとは、感じ取ってください」
寛寿郎は、まっすぐに頭を下げた。
「それで、十分です」
タケシが立ち上がり、廊下の先を見た。
藤の花が、風に揺れていた。
誰かのために剣を振るう日々は、まだ続いていく。
だが、今日の夜は、穏やかだった。
静かに、暮れなずむ空が、柔らかな紫に染まっていた。