稽古の合間、隊士たちは中庭の隅に腰を下ろし、木刀を膝に置いたまま汗を拭っていた。
その誰もが、自然と屋敷の縁側へと視線を向けていた。
そこには、大柄な男が胡坐をかいて座っていた。
隣には幼い少女。布で作られた手鞠を、二人で転がし合っている。
「……あれが、“タケシ”殿、か」
若い隊士が、つぶやくように言った。
一見すれば、屈強な中年の男。
どこか古めかしい所作と、異様な風格を纏いながらも、少女に笑いかけるその姿は、父親のようにも見えた。
だが、それだけでは終わらない“何か”があった。
「見た目は……普通の人に見えるけど、あの人のそばだけ、空気が違う。澄んでるのに、深くて……」
「うん。なんか、背中を向けたくない。けど、剣は抜きたくならない。不思議な感じだよな」
会話の端々に、畏れが混じる。
だがそれは、恐怖ではなく“敬意”に近いものだった。
「でもさ……見た? 陽ちゃんと手鞠してた時、あの人、猫の真似してみせたんだぜ。尻尾があるように腰ふってさ」
「……それは見てない。けど、想像はしたくなかったな」
数人が苦笑する。
目の前の男は、人の姿をしている。
それでもなお、言葉にできない“何か”が滲んでいる。重み。太古の山を思わせる圧。
それが彼を、“人間ではない”と告げていた。
その時、寛寿郎が静かに立ち上がり、皆の前に歩み出た。
「……タケシ殿は鬼だ」
唐突な言葉に、一瞬空気が止まる。
寛寿郎は、額の汗を拭いながら続けた。
「だが、人に仇なすお方ではない。むしろ――我らを見守ってくれる“何か”だと、俺は思う」
その口調に、迷いはなかった。
「桃太郎の伝説を知っているか? あれに出てくる鬼だ。そう……真の鬼。討たれるべき存在ではなく、時代とともに生き、やがて人に伝わる“力”を持った鬼。タケシ殿は、そういう方だ」
中庭を包む藤の香が、風に乗って揺れた。
隊士たちは、もう一度縁側を見た。
手鞠を転がして笑う陽の横で、タケシがそれを受け止めて返していた。
何でもない、ただのひと時――だが、それを見ていると、不思議と心が安らぐ。
その背中に、“鬼の影”はなかった。
ただ、どこまでも深い何かが静かに、そこに在った。
そして——
夜の藤の屋敷は、ひどく静かだった。
藤の花房が風にそよぎ、月の光をゆるやかに受けて淡く照らしている。
昼間は柔らかな香を放つそれも、夜になると、どこか張り詰めた気配を纏う。
「異常なし。東側、巡回終えました」
「了解、西側も異常なし。裏手の林も静かだ」
数名の鬼殺隊士が屋敷の外縁をぐるりと巡りながら、互いの声を交わす。
隊士たちは以前に比べ、動きに無駄がなかった。
縁壱に呼吸を教わった者はまだ数えるほどだが、それでも確実に“何か”が変わっていた。
その中央で、縁壱は立ったまま、空を仰いでいた。
風が吹く。空気の揺らぎを感じ取るように、彼はまぶたを閉じる。
「……月が、少し霞んでる」
気のせいかもしれない。だが、どこかが引っかかった。
その直後。
庵の寝間、陽がふと寝返りを打つ。
うたがそっと額に手をやる。
「……ちょっと、あったかい?」
熱ではない。汗もかいていない。ただ――妙な感覚だった。
陽の身体から、うっすらと空気の層が広がっていた。見えぬ力が、外へと向かっている。
それは、明らかに“何か”を探している気配だった。
「……陽が?」
うたの声が漏れたと同時、縁壱が戸を開けて中に入る。
「……感じましたか」
「うん……なんか、広がっとる。ぬくいけど……妙に鋭い」
「陽が……何かに反応している。まだ遠い……だが“動いている”気配がある」
縁壱の声は落ち着いていたが、目は鋭かった。
そのとき、タケシが廊下の向こうから現れた。
「なんじゃ、騒がしゅうなってきたのう。……まさか、鬼か?」
「まだ、“確定”ではありません。ですが……」
「陽が、先に察知したんじゃな?」
縁壱が頷いた。
「ええ。この子の感応は、もう“直感”の域ではない。俺たちより早い」
タケシは天井を見上げた。
「……鬼っちゅうもんはの、いつも“何気ない夜”に来よる。飯のあと、風呂のあと、布団に入るちょっと前――
気ぃ抜いた背中を狙うんじゃ」
「今日が、その夜かもしれません」
「けど、陽が先に教えてくれるんなら、こっちにも分がある」
そう言って、タケシは笑った。
「ま、来るなら来いや。わしも、久々に手ぇ鳴らしたい気分じゃけんの」
その頃、屋敷から遥か遠く、山を越えた峠道。
ぬるり、ぬるりと影が揺れていた。
人の皮を縫い合わせたような醜悪な体躯。
四つん這いで這いずるその鬼の目は、ぎらついたまま、藤の香を避けるように進んでいた。
だが、その目の奥に――“渇き”とは違う、妙な感情が揺れていた。
「……あの子の、匂い……あれは……陽(ひ)……?」
鬼の声が、風にかき消された。
だが確かに、“何か”が惹かれ始めていた。
夜はまだ更けていなかった。
だが、空気の輪郭が変わっていた。
静寂というよりも、“張り詰めた静けさ”。
何かが遠くで起きているのに、ここには届かない。そんな違和感が、屋敷全体にじんわりと染み始めていた。
縁壱は、陽の寝室に座していた。
陽は穏やかな寝息を立てていたが、その額にうっすらと汗がにじんでいる。
「……何か、見てる」
小さく漏れたうたの声に、縁壱は頷いた。
「……夢の中から“外”を感じ取っている。陽の意識が……引っ張られている」
「引っ張られるって……どういうこと?」
「恐らく、“向こう”が陽に近づこうとしている。扉の鍵を探すように、陽の“心”に手を伸ばしてきている」
屋根の上。
タケシは月明かりを背に、じっと立っていた。
目を閉じ、腕を組んで、風の流れに耳を澄ます。
何も聞こえん。獣の鳴き声も、木々の軋みも、虫の羽音さえも。
「……気味悪ぅ夜じゃの」
背後に気配が現れた。
「縁壱か」
「はい。陽の様子、見てきました。……ただ、来ているのは鬼本体ではありません。
“意識”です。薄く、だが確かに陽に届こうとしている」
「ほんま、回りくどい奴らよのう。力で勝てんから、心に入り込もうっちゅうんか」
「心が揺らげば、陽の“感応”も不安定になります。……それが狙いかと」
「陽はまだ子どもじゃ。何が“正しい”かなんて、分かる年でもない」
タケシはそっと屋根の下を見下ろした。
「……でもの。あの子、強いで」
縁壱は静かに言った。
「はい。“拒む力”を持っています。だが……」
「だが?」
「“誰か”が、内側に入り込めば話は別です。陽が“知っている誰か”を騙ってくれば――」
タケシは鼻を鳴らした。
「ほんなら、今度は“わしら”の出番じゃの」
月が雲に隠れた。
そのとき、陽の夢の中――
暗い。けれど、怖くはなかった。
白い霧が、目の前にただ漂っている。
その向こうに、輪郭の曖昧な“誰か”が立っていた。
「……よう、陽。元気か?」
優しい声だった。
どこかで聞いたことがある。懐かしくて、あたたかくて、手を伸ばしたくなる声。
「さみしくないか? 疲れたろう。眠ってしまえば楽になれるぞ」
その声は、形を持たずにすり寄ってきた。
陽の意識の奥へ、奥へと。
だが――
「……ちがう」
陽の目が、うっすらと開かれた。
その瞬間、夢の中の空気が揺らぐ。
「おまえ、だれ?」
屋敷の寝室。陽がぴくりと指を動かした。
縁壱が目を見開いた。
「……陽が、拒んだ。自力で……!」
「よう言うた!」
タケシが壁越しに声を響かせる。
「そうよ。それでええんじゃ。知らん奴に笑いかけられても、相手にせんでええ!」
夢の中の霧が崩れた。
その向こうにいた“何か”が、苦々しい声で唸った。
「……この子は、思ったよりも、深く……閉じている」
影は、再び霧のなかへ消えていった。
陽の眉が、すっと緩んだ。
その顔は、ほんの少しだけ、いつもより凛として見えた。
夜の屋根の上。タケシは再びそこに立っていた。
空は静かだ。藤の香りが満ちているはずの空気のなかで、タケシは一歩、前へ出た。
「……んー……」
両腕をぐるりと回し、首を鳴らす。
「よう寝たわ。けど、どうにも腹立つ臭いが消えんな」
そう呟くと、タケシは両足を屋根にぐっと踏みしめた。
その踏み込みに、瓦がばきりと音を立ててひび割れる。
次の瞬間、タケシは大きく鼻から息を吸い込んだ。
――ずおおおおおおっ……
空気が一気に引き寄せられる。
周囲の藤の花房が風ごと巻き込まれ、ひゅるひゅると吸い寄せられる。
それはまるで、天地の空気をひとつの肺に詰め込むような、異様な“吸引”。
「……おった」
タケシの顔がぐいと上がる。
「見つけたわ、くっっせぇやつじゃ」
その言葉とともに、膝に力を込めた。
轟音とともに、タケシの体が屋根を砕いて跳ね上がる。
彼の巨体は音速を超え、風の壁を突き破り、夜の空を真上に裂いていった。
偽りの鬼――
人の皮をまとい、誰かの声を真似、夢の中で陽に手を伸ばしたその存在は、
未だ霧の奥に姿を紛らわせていた。
が、遅かった。
「死ねや」
その声とともに、鬼の視界がぶれた。
次の瞬間、頭部がごつりと何かに掴まれていた。
タケシだ。
空中を跳躍しながら、その手に鬼の頭を握り潰さんばかりに力を込めていた。
「人の顔を騙るんは、一番気に食わん」
バキィ、と音を立てて鬼の頭がひしゃげる。だがそれでも、鬼は再生しようと呻き声を漏らした。
「うるさいのう。光でも喰ろて、黙っとれや」
タケシは、地を砕き上へと飛び上がった。
山も雲も、星も越えた。
ついには、暗かった空がじわりと明るくなり始める。
そこにあったのは――
太陽。
近づくほど、皮膚が焼けるような熱。
だが、タケシの体はびくともしない。
逆に、抱えた鬼が震え始めた。
「ほれ見ぃ。あの陽と同じじゃ。わしには、効かんのよ」
鬼の眼球が焼け、皮膚が泡立ち、筋肉が崩れていく。
タケシはゆっくりと回転しながら、地球へ向かって降下しはじめた。
高空からの落下速度。鬼の体を掴んだまま、そのまま太陽光をじわじわと浴びせ続ける。
鬼は叫ぶこともできず、ただ光に焼かれていく。
「にせもんは、太陽には勝てんのじゃ」
それが、タケシの呟きだった。
やがて鬼は崩れ、塵となった。
握っていた腕のなかには、何も残っていなかった。
タケシはそのまま、大気圏を抜けるときに一瞬眉をしかめつつも、徐々に速度を緩めながら藤の屋敷へと戻っていった。
着地の瞬間、庭がごごんと揺れる。
縁壱が廊下に立って、ぽつりと口にした。
「……おかえりなさい」
タケシは、土煙を払いながら肩を回した。
「なんとか間に合ったわ。おんしの大事な弟子に手ぇ出されとったら、わしも寝覚めが悪いけんの」
東の空が、ほんの少しだけ明るくなっていた。
今夜の闇は、終わった。
これは、夢だ。
そうに違いない。現実のはずがない。
私の“手”が焼かれた。
いや、直接触れたわけではない。
だが、陽に向けて伸ばした意識――鬼を通じて繋いだ精神の触手が、太陽の中で引き裂かれたのだ。
太陽の中で。
(な……なんで……!?)
理解できぬ。
誰が? どうやって? 何をした?
報告では、鬼は夢の中に入り込めたはずだ。
陽はまだ子どもだ。精神も未熟、揺らぎやすい。
だからこそ、時間をかけて、ゆっくりと内から壊すはずだった。
それがどうだ――!
(なぜだ、なぜ“掴まれた”!?)
そう。明確に感じた。
“誰か”が、鬼の意識ごと、こちらへ伸ばしていた血の回路を逆流して掴み取ったのだ。
ぞっとする。
直視したわけではない。
だが、確かにそこにいた。
“何か”が、こちらを見ていた。
(……あの目……あれは……!)
思い出すだけで、背筋に冷たいものが走る。
悠々と鬼を太陽に向けて掴み上げた、あの巨体。
灼熱に焼かれながらも平然と呼吸し、笑いながら鬼の頭を握り潰していた“それ”。
「お……おかしい……ッ」
無惨は思わず声に出していた。
これまでに味わったことのない感覚。
恐怖? 違う、そんなはずはない。
私は恐れなど知らぬ。
だが――心臓が、震えていた。
(あれは鬼ではない。……人でもない。じゃあ、何だ!?)
血の記憶に焼きついていた。
拳。笑み。そして、太陽の熱に包まれてなお揺るがぬ身体。
再生すらさせず、灰に変える速度と、一切のためらいのなさ。
「にせもんは、太陽には勝てんのじゃ」
そう、あの“何か”が言っていた。
その言葉が、何より恐ろしかった。
(まるで……“本物の鬼”のようだ……)
がたっ、と音を立てて椅子から立ち上がる。
掌が震えている。落ち着かせようと指を握ってみるが、かすかに震えが止まらぬ。
思わず周囲を睨みつける。
鬼たちは……気づかれまいと、顔を伏せて震えている。
ふざけるな。お前たちのせいではない。悪いのは、あの……あの存在だ!
(まさか……神か? いや、そんなはずはない。神など、私が否定した)
(では、あれは――鬼神か?)
(いや、それも違う。あんなもの、私は知らん。誰も知らん。記録にもない……)
知らぬことが、恐ろしかった。
自分の“理”の外にある存在。
自分が支配できないもの。
「…………なんなんだ、あれは……!」
絞り出すように声を吐く。
その瞬間、足元の鬼が微かに笑った気がした。
無惨は即座に振り向き、そいつを地面に叩きつけた。
「笑うな!! 貴様に何が分かる!!」
鬼は呻く間もなく、塵となった。
静まり返る室内。
血の臭いと焦げた肉の臭い。
そして――焼け付くような、“あの存在”の記憶。
無惨は、一人、壁に背を預けた。
そして思った。
次は夢など介さぬ。
陽も、タケシも、縁壱も、女もすべて……い、い、いつか殺す!!!
ただ――
(……それまで、あいつが来ないよう、祈るしかない)
その瞬間の自分の思考に、無惨はまた震えた。
祈るしかない。
この私が――祈っている。
その事実が、何よりも恐ろしかった。
異法:日輪抱き(ひのわだき)
──それは技ではなく、“裁き”である。
記録にも記憶にも残されぬ、ひとつの行。
鬼神にして“人の皮を纏う者”が、かつて行った所業。
彼は語らぬ。
だが目撃した者は、ただこう言う。
「……鬼の頭を掴んで、跳んだ。空を越え、雲を抜け、星を背に……そして太陽へ、届いたのだと。」
この“日輪抱き”とは、
影に生きる者へ“太陽そのもの”を押し当てる、禁断の対処法である。
術者は対象の頭部を掴み、己の脚力のみで空へと跳躍する。
その軌道はもはや重力の意を介さず、神の否定をも超えて、“天”へと突き進む。
やがて大気は消え、音は失われ、息も凍る。
だが彼は止まらない。
陽が目前に迫ったその瞬間、鬼の顔を直接、太陽に押し付ける。
「おんしら……なんで陽を避けるんか、教えたるわ」
——タケシの唯一の言葉
【効果】
・敵は即座に蒸散し、“影の因子”すら痕跡を残さず消滅
・空間中に「断末魔の残響」が数秒滞留する
・術者はほぼ無傷で地上に帰還するが、髪が少しチリチリになる
【伝承】
一部の修道士はこれを「天穿の儀」「影殺しの祝福」と記し、
異端審問の最後の手段としたという。
だが当のタケシは、後にこう語っている。
「いや、単に上に跳んだだけじゃけえ……ほんな大層なもんじゃないて」