風が冷たかった。山の陰に日が落ち、藤の屋敷の東側の森がわずかに暗さを増していた。
藤の花に守られた領域を一歩出れば、夜はすぐそこにある。
縁壱は、足音を立てずに獣道を進んでいた。
その手には、屋敷の蔵に保管されていた日輪刀。
未だ慣れぬ刀の重み。だが、呼吸を一つ深く整えれば、手の中で自然と馴染んでいく。
「……一体、か」
気配は一つだけだった。
ただ、それは“ただの鬼”ではない。
腐った肉の臭いと共に、重く沈殿するような“業の気配”――それを、縁壱の皮膚が先に感じていた。
呼吸を乱さず、一歩ごとに間合いを整える。
目を凝らすまでもなく、鬼はそこにいた。
が、同時に――もう一つの気配があった。
鬼が襲いかかろうとしていた“人間”。
いや、見間違えるはずもない。その背、立ち姿、視線の鋭さ――
「……兄上……?」
思わず声が漏れた。
鬼が跳ぶ。目を血走らせ、口元から黒い唾液を垂らし、刃のような爪を突き出して。
だが、その瞬間にはもう、縁壱の身体が動いていた。
一閃。
山の空気が裂けた。
何も重ねぬ、ただの横一文字の斬撃。
だが、それは地を走る雷のように速く、正確で、無駄がなかった。
鬼の首が宙に浮き、切断面から黒煙が噴き出す。
肉が崩れ、骨が砕け、燃えるように消えていく。
そこに残ったのは、ただ“静寂”だけだった。
縁壱は刀を納めた。
血はすでに染み込まず、風に流れていた。
「……兄上、ご無事ですか」
ゆっくりと振り返った男。
厳勝――縁壱と同じ顔。だがその瞳は、常に遠くを見つめているようだった。
「……ああ。死ぬ前に、おまえが来たようだな」
その言葉に、縁壱はどこか、痛みのようなものを感じた。
「あなたが斬られることなど、あるはずがない。……俺が助けたのは、鬼から、です」
「……そうか」
言葉の意味を受け止める素振りもなく、厳勝は背を向けた。
すでに、またどこかへ行こうとしていた。
「兄上……なぜ、またこの土地に?」
その問いに、巌勝は一瞬だけ歩を止めた。
だが、答えはなかった。
「……守るべきものがあるなら、それを守れ。俺のことは気にするな」
その言葉を残し、巌勝は森の奥へと消えていった。
縁壱は、ただじっとその背中を見送っていた。
風が吹き抜けるたび、腰の笛が、かすかに揺れていた。
――刃は交わらずとも、想いは擦れる。
血の繋がりよりも、深く、苦しい距離があることを、縁壱はまたひとつ学んだ夜だった。
行っとる頃。
わしは、縁側で湯を沸かしながら夜風を眺めとった。
ぽとんと、誰かの足音。聞かんでも分かる。
「おかえり、縁壱」
縁壱は小さく会釈して、わしの隣に腰を下ろした。
日輪刀がまだ腰に差してある。山に行って戻ったばかりの顔しとる。
「……どうじゃった?」
「一体。鬼でした。小さなものですが、狡猾でした。……そして、兄に会いました」
湯がぽこぽこと音を立て始める。けど、それどころじゃなかった。
「……やっぱり、あれは巌勝じゃったか」
「はい」
縁壱の声は静かじゃった。
けど、どこかに火のような熱が混じっとる。わしは湯を湯呑みに注いで渡した。
「助けたんじゃろ?」
「はい。鬼が襲おうとしていたのを、先に斬りました。……俺は、兄を助けたのか、鬼を斬ったのか、よく分かりません」
「両方じゃ。おんしの剣はいつもそうじゃ。誰かの命も、誇りも、ぎりぎりで守るような……そういう刃よ」
縁壱は湯を口に含み、ぽつりと呟いた。
「似ていました。顔も、声も……でも、やっぱり“影”でした。陽の言うとおりです。あの人は、もう……」
わしは腕を組んで天を見た。
「似とる言うたが、似とるだけじゃったな」
「……はい」
そのとき、奥から足音。
まだ寝とらんかったらしい陽が、ふらふらとこっちにやってきた。
「ん? どうした陽。のどでも乾いたんか?」
陽はわしの膝にちょこんと座って、縁壱の方をじっと見とる。
そして、ぽつりと呟いた。
「……にぃに、いた」
縁壱の目が見開かれた。
「陽、それは……」
「こわくなかった。でも……にぃにじゃ、なかった。ちがった」
縁壱は陽を見つめたまま、小さく頷いた。
「……陽には、ちゃんと分かるんですね」
「うん」
陽が笑った。だけど、どこかに寂しさがあった。
わしはその小さな頭をぐしゃぐしゃに撫でて、無理やりにでも笑わせたろうとした。
「そんでええんじゃ。陽が見とる“にぃに”は、ここにおるけんな」
「……ここ、にぃに?」
「おう。どこにも行かんで、ちゃんとおる」
陽はこくんと頷いて、縁壱の膝に頭を乗せた。
縁壱はそのまま陽の髪を、静かに撫でた。
優しく、迷わず、ただ“兄”のように。
この子が、こんなふうに何かを感じ取れること――
それを、ありがたいと思う日が来るとはのう。
けど、同時に――
「……縁壱」
「はい」
「また会うかもしれんな。あの巌勝っちゅうやつに」
「……そうかもしれません」
「そのとき、おんしが迷わんように、わしは傍におる」
縁壱は何も言わんかった。ただ、陽の額に手を当てて、小さく息を吐いた。
夜は深くなっていく。
風が、わしら三人を優しく包んどった。
藤の屋敷の夜は静かじゃった。
子らは眠り、火は落ち、風の音が耳に沁みる。
わしは、ふと身体を起こして、屋敷を抜け出した。
眠れんというわけじゃない。ただ、ちぃと歩きたくなっただけじゃ。
空を見上げると、月が出とった。
よう光る。
太陽とは違う、ひんやりした白さ。
じゃけどその光は、遠くて、なお深い。
「……似とるのう」
ぽつりと口をついて出た。
縁壱と巌勝。
双子じゃのに、あまりに違う。
まるで、陽と陰。昼と夜。太陽と月――
「……もしかして……全部、あいつらが仕組んどったんじゃないんか?」
――あれは、まだ人と神が近かった頃の話じゃ。
月読が夜の境に現れ、わしに言うたんじゃ。
「おまえ、今日も地を踏んでおるか。変わらんな」
「おんしもよう顔を出すの。……また、姉の使いで来たんか?」
「いや。今宵は私の意志だ」
そして、ぽん、と手渡されたのが、瓢箪酒じゃった。
蓋を開けると、甘うてすっきりした香が立つ。
「……姉上の酒か」
「そうだ。日輪に燻されて育った稲から取ったものだ。……珍しいぞ」
「ふむ。ほんなら、ありがたくいただくとするかの」
焚き火を囲んで、三人。
天照があとから現れたときには、もう酔うてしもうた。
「また月読と飲んどったんかいな。……わしの酒、勝手に開けとるし」
「なんじゃ、ええやろが。わしら旧知の仲じゃろ」
「……あんた、鬼やで」
「おんしら神やで」
「……似たようなもんやな」
その時、天照がぽつりと、ようわからんことを言うた。
「太陽が照らすんは、育てるためやけど、焼くためでもあるんよ」
「ほう?」
「月が照らすんは、冷ますためやけど、照らす相手を選ぶ力もある。……あんたも、“選ばれた側”やろ?」
「……わしは鬼じゃぞ?」
「せやけど、何人もの“柱”を見守るようなやつは、もうそれだけで“神のくせに”って呼ばれる資格があるわ」
わしは笑うた。よう分からん、けど――なんとなく、嬉しかった。
「……天照にそう言われたら、なんか調子乗ってまいそうじゃのう」
「乗っとき。けど、調子には乗りすぎんように」
「月読、冷たいなぁ……」
「そういう役割だ」
そういう、妙に気の抜けた夜があった。
それっきり、会うたことはない。けど、今でも空を見とると――よう笑うとった二人の顔が、思い浮かぶ。
もしかして――
今の縁壱と巌勝も、そういうもんなんかもしれん。
誰かが照らして、誰かが冷やして。
誰かが進んで、誰かが離れていく。
わしは空を仰いだまま、笑うた。
「天照に、月読。神々の姉妹。ひとりは陽を照らし、ひとりは夜を司る。……なるほどなぁ」
そう思えば、なんとなく納得がいった。
縁壱は陽じゃ。あったこうて、まっすぐで、見とるだけで前向ける光。
対して、厳勝は月のごとく――冷たく、美しゅうて、闇を抱え、どこか悲しい。
「陰があるけぇ、陽が映える。光が強うなるほど、影も濃うなる」
その理屈は、神々の時代から決まっとったんかもしれん。
わしは草を踏みしめながら、ゆるりと歩いた。
「……けどのう、わしはそう簡単には見逃さんけんな。光が眩しゅうて、影が泣いとるのなら……どっちも、わしが見ておくわ」
月が、枝の隙間から覗いとった。
誰のことも、何も言わん。ただそこにあるだけじゃ。
「全部、わかっとったんかのう……天照も、月読も……あの姉妹」
頬に風が当たった。やわらかい夜風。まるで誰かが笑うたような。
「……はっ、やっぱり、おんしら神々はタチ悪いのう」
わしは月に背中向けて、ゆっくり歩き始めた。
「縁壱の陽は、ちゃんと見とる。けどの――月の巌勝のことも、わしが覚えとる。忘れさせはせんで」
そうして、今夜もまた、わしは鬼でも神でもない“名もなきもん”として歩いとった。
陽のために。陰のために。