日が傾き、庭の藤がやわらかく光を受けていた。
縁壱は一人、産屋敷家の奥庭に招かれていた。
風はほとんど吹かず、葉擦れひとつない静謐の中に、白き衣の男が膝を折っていた。
当主――産屋敷 御利哉(みりや)。
その眼差しは病を帯びながらも深く、透き通る理を宿していた。
「ようこそ、継国殿。……まず、お詫びしなくてはなりません。
あなたに“呼吸”を託しておきながら、その理由を、きちんと語っていなかった」
縁壱は首を横に振った。
「いえ。俺は“命を繋ぐ技”を伝えたくてここに来ました。理由など、あとでいい」
御利哉は、わずかに微笑む。
「……それでも語らねばならないことがあります。これは、あなたの剣が“未来を導くもの”である以上、避けてはならぬ話です」
庭の空気が、ゆるやかに張り詰めた。
「――“鬼”について」
縁壱の目が細くなる。
「夜に出没し、人を喰い、命を穢す存在。……我々の国に根づく、最大の災厄。
その中心にいるのが、名前を持つ鬼――“鬼舞辻無惨(きぶつじ むざん)”です」
縁壱はその名を、頭の中で繰り返した。
鬼舞辻。無惨。
音のひとつひとつが、どこか“人ではない”ものの響きを持っていた。
御利哉は庭の花を見つめたまま、ゆっくりと語る。
「我が産屋敷の一族は……元を辿れば、“鬼”と同じ血を引いております。
否、より正確に言えば――鬼舞辻無惨こそが、この血の起点であり、呪いの根です」
縁壱の眉がわずかに動く。
「……つまり、あなたの家は、鬼と繋がっていると?」
「ええ。だが我らは“鬼にならなかった”。
陽を拒まず、人を喰わず、代わりに“短命”と“病”という呪いを受けました。
無惨だけが、死を拒む力を手に入れたのです」
縁壱は視線を落とした。
「……命を喰らって、永らえる。死を恐れて、人を棄てる。……それが“鬼”」
「そして、鬼舞辻無惨はそれを最初に成した存在。
己が病を嫌い、医術にすがり、結果として“陽を恐れ、血を喰らう存在”になった」
御利哉は両の手を膝の上で組み、深く息を吐いた。
「鬼を討てるのは、太陽か――あるいは、あなたのように“人を超えかけた剣”のみ。
だからこそ、我々は“鬼殺隊”を生み出しました。
百年かかっても、千年経っても、鬼舞辻を倒すために。……あなたのような者が現れた時に備えて」
縁壱は、静かに立ち上がり、庭に向けて一礼を捧げた。
「……そのために、俺の剣はある。
俺が鬼舞辻を断てなかったとしても……“誰か”がやり遂げられるように、道を残します」
御利哉は、その言葉に目を細めた。
「継国殿。……あなたの剣が紡ぐ未来は、きっと、我々の“呪い”をも越えてゆくでしょう」
風がそっと吹いた。
庭に垂れる藤の花が揺れ、あの名の残響が、縁壱の胸に落ちていった。
――鬼舞辻無惨。
タケシによってその名を知った時から、彼の剣の先は、ただの闇を斬るだけではなくなった。
――ほう。えらい話になっとるのう。
縁壱が屋敷の奥で当主と語り合うというけぇ、わしもひょいと付いてきたんじゃが。
これは思ったより深いもんに触れとる。……てか、あの坊主、こんな顔もできるんか。
《鬼舞辻無惨》。
《最初の鬼》。
《呪われた血》。
……そんなもんを、しれっと口に出しよるとはな。
わしは襖の向こうで腕組んで、息をひそめて話を聞いとった。
まぁ、隠れとるつもりやったんじゃが……さすがにあの当主、気づいとるかもしれんな。
縁壱が立ち上がり、庭に礼をしたところで、ふっと口を開いた。
「――おんし、それは“呪い”とはちゃうぞ」
御利哉が目を細めて、ゆっくりと振り向いた。
「……タケシ殿」
「すまんのう、聞くつもりはなかった。……いや、聞くつもりはあった。じゃけぇ今、こうして口挟ませてもらう」
わしは縁壱の隣に立って、庭を見下ろす御利哉に向き直った。
「おんしらが言う“呪い”ちゅうもん。……それ、ただの病じゃ。
血に乗った毒か、あるいは何かを習慣的に食しとるか。水か。塩か。焚く香か。……どこかに因がある」
御利哉は表情を変えなかった。けど、その指がほんのわずか動いたのを、わしは見逃さなんだ。
「呪いちゅう言葉はの、昔の人間が“理由を知る手段がなかった頃”に使うたもんじゃ。
今の世にゃ呪いなんぞ、もう存在しとらん。……少なくとも、この現世(うつしよ)にはな」
わしは、ふぅっと息を吐いて、空を仰いだ。
「常世(とこよ)は知らん。……けどの、今は“封じられとる”。
瘴気も祟りも神魔も、全部、天岩戸の奥に閉じ込められとるんじゃ。
伊奘冉(いざなみ)がまだ“出てこんよう”、餓鬼どもがせっせと祀っとる。……それで、今の世は保たれとる」
縁壱がわずかに顔を上げた。
御利哉は目を伏せて、口元だけがかすかに笑う。
「……まるで、古き神話の語り部のようだ」
「実際そうじゃが?」
「……あなたは、“神の側”の者なのですか?」
「いやいや。《鬼》じゃよ。正真正銘、ほんまもんの鬼じゃ。……ただな」
わしは御利哉のほうへ一歩近づいて、肩越しに空を見た。
「わしは、神でも呪いでもなく、“今を生きるもん”の側に立つと決めとる。
おんしの血筋が何であれ、病であれ、呪いじゃなかろう。
ただ、それを“呪い”と呼んだ瞬間に……人は自分で“道を閉ざす”んじゃ」
庭の風が、ふわりと藤を揺らした。
その香りが、どこか懐かしく、穏やかに鼻をくすぐった。
「……なら、我が一族が呪いを越えるには」
「呪いと思わんことじゃ。
それでもおんしが、誰かを守るために“鬼と戦う”と決めとるなら……わしは、文句も言わん」
縁壱がふっと笑った。
「……いつものタケシさんだ」
「なんじゃ、ほめとるんかけなしとるんかわからんのう」
御利哉は、ほんのわずか頭を垂れた。
「……ありがとうございます。タケシ殿の言葉、私の中に、深く留めさせていただきます」
「ふむ。まぁ、わしの言葉が役に立つなら、好きに使うたらええ」
空には、まだ夜が降りてこなかった。
けど、深く――確かに、時代が“次の節”へと向かい始めとる。
わしらはそれを、ただ見届ける役でも、ええかもしれんのう。
縁壱とタケシが庭先から下がろうとしたとき――産屋敷御利哉は、ふと声をかけた。
「……タケシ殿」
立ち止まるわしに、御利哉は真正面から問いを投げた。
「あなたは、先ほど“自分は鬼だ”と仰った。
けれど、私の知る鬼とは違う。陽を浴び、人を喰わず、理を語る。……あなたは一体、何者なのですか?」
ふむ、とわしは顎をさすった。
ここで笑ってごまかしてもよかったが、そういう顔ではなかった。
「……わしゃあ、鬼じゃよ」
わしはまっすぐ言うた。
「おんしも聞いたことあるじゃろ? 昔話の“桃太郎”」
御利哉は瞬きもせずに頷いた。
「……桃から生まれた英雄が、鬼ヶ島へ向かい、悪しき鬼を退治する――という伝承」
「ふふっ。まぁ厳密に言うたらの、仙桃を喰うた爺さん婆さんから産まれたらしいがの。
その桃太郎が向かった鬼ヶ島。その時におった鬼が、わしじゃ」
縁壱が目を見開いた。
「……タケシさん、あの鬼ヶ島の鬼、というのは――」
「うむ。わしじゃ。……あの時の桃はええ奴じゃった。ええ土産持って来おっての、あの吉備団子……ほいで、一緒に酒飲んで、なんやかんやあって仲良うなった」
「……“退治”されたわけでは?」
「いや、最初はちょいとやり合うたんじゃが、わしも眠たかったけぇな。腹も減ってしもうたし、桃の持っとった団子があんまりにも旨そうで、な」
御利哉が、まるで神話を聞くような目でわしを見とる。
「……他にもおったがの、鬼っちゅうもんは。わし以外にもの」
わしは指を折って数えた。
「酒呑童子、茨木童子、それから……鈴鹿。
おんしの家系なら、名前くらいは知っとるじゃろ? あいつらがどうなったかも」
御利哉は、ゆっくりと目を伏せた。
「……すでに“討たれた”と伝わっています。数百年も前に。……人の手で、または神の手で」
「そうじゃろうな。
わしは寝とるうちに色々変わったらしい。……ほんま、時代ちゅうのは勝手に流れるもんじゃ」
縁壱が小さく呟いた。
「けれど……タケシさんは、いまも生きている。
陽の下を歩き、人と共に飯を食い、鬼とは戦いもする」
「それが、なんでか知っとるか?」
「……?」
わしは腰に手を当てて、にぃっと笑った。
「わしは、“鬼”やけど、“人に生まれた鬼”やない。
この国がまだ“形になる前”、岩から生まれたんじゃ。……地の底から、溶岩と共に、ゴオッと吹き出してな」
「……」
「神でもなければ、ただの妖(あやかし)でもない。……《鬼神》じゃ。
人間が“鬼”っちゅう言葉を使う前から、おった。わしらが、“本来の鬼”じゃ」
御利哉は、手のひらをゆっくりと膝に置いたまま、わずかに深く頭を下げた。
「……そのような存在が、我々と共にあるということ。……心強くもあり、畏れもあります」
わしはぽんと縁壱の背を叩いて、言うた。
「でもまぁ、わしは“人の味方”をするって決めとるけぇの。
この坊主が、道を間違えんように後ろで見張っとるのが役目じゃ。わしのような“鬼”も、一匹くらいおってええやろ」
縁壱は、何も言わずに微笑んだ。
御利哉もまた、沈黙のまま、深く、礼を返した。
その夜。
藤の花が静かに揺れたのは、風が吹いたからじゃない。
ひとつの“理”が、この地に根を下ろしたからだった。
暫くして夜が深まり、屋敷の藤がかすかに甘い香りを放っていた。
虫の声も遠く、月明かりが庭石に静かに落ちる。
その庭に、柱たちが集められていた。鬼殺隊の根幹を支える強者達である。
縁側に面した広間の障子が開かれ、そこに座すのは産屋敷御利哉。
その傍らに、ふたりの男の姿があった。
ひとりは、白衣の青年――継国縁壱。
もうひとりは、浅黒い肌と太い肩を持つ男――タケシ。
柱たちはいくらか緊張を滲ませていた。
ただし、皆が手を帯びず、座の構えもやや和らいでいるのは、御利哉の言葉と、タケシ自身の態度に“誠”を感じた証だ。
「……皆。夜分の招集、感謝します」
御利哉の声が、静かに広間を満たす。
「先ほど、私はこの庭にて、縁壱殿と、そしてタケシ殿と話を交わしました。いまより伝える言葉は、我が家の秘密であり、この国の根幹に触れるもの。どうか、よく聞いてほしい」
柱たちは姿勢を正した。
無言のなか、ただ視線が交差する。
御利哉は一度だけ目を伏せ、そして顔を上げた。
「――“鬼”という存在の、根」
風がないのに、庭の藤が一度だけ揺れたように見えた。
「鬼舞辻無惨。おそらく皆が、この戦いの元凶と認識している存在です。
ですが……この男は、“鬼の始まり”ではありません。あくまで、人が鬼になった例に過ぎない」
柱の一人、花澤清十郎がわずかに眉を上げる。
「では……鬼には、もっと古い“元”が?」
「……はい」
御利哉の隣に立ったのは、タケシだった。
彼は柱たちの前に一歩進み、浅く頭を下げる。
「……ワシが、それじゃ」
再び沈黙が落ちた。
だが誰一人として剣を抜く者はいなかった。
「むかしむかしの話じゃ。まだ人が“鬼”という言葉を持たん頃。
山が怒り、火が噴き、雷が落ちて、そこから生まれたものがあった。……それが、ワシのようなもんじゃ」
「人でもなく、神でもない。祟りでも、妖でもない。……この国がまだ形になる前におった、そういう類の存在じゃよ」
それは――「本物」の鬼の自己紹介だった。
柱たちのなかに動揺はあった。だが誰も否定の言葉を挟まなかった。
長く人を脅かしてきた“鬼”という存在が、いま目の前で、人の言葉を話していた。
御利哉が続ける。
「タケシ殿は、鬼ではありますが、人に敵意を持たぬ“理を守る者”です。
我らの敵である鬼舞辻は、彼の在り方を模倣し、侮辱し、誤った力を得た者に過ぎない。……偽物です」
すると、別の柱――煉獄寛寿郎が、静かに立ち上がった。
「当主のお言葉。真として受け止めます」
凛とした声に、広間の空気が張り詰めた。
「加えて、我々は、この戦いに新たな光を得ました。……縁壱殿が編み出した、“呼吸”という技です」
寛寿郎は腰の太刀に手を添え、正面に構えた。
「縁壱殿から教わった“型”。いま、ここでお見せします」
誰もが目を見張る中、煉獄は刀を引き抜く。
燃えるような気迫。だが、ただ荒々しいのではなく、芯の熱を秘めた太刀筋だった。
「――炎の呼吸・壱ノ型、《不知火(しらぬい)》」
瞬間、広間の空気が焼けた。
赤く、静かに、揺れる火柱のような一撃が、目の前を横切る。
誰もが息を呑んだ。
それはただの剣技ではない。命の中にある“理”を燃やし、火と化す呼吸だった。
縁壱が立ち、穏やかに言った。
「……これが、俺が伝えたかった“呼吸”です。
体の内にある“火”や“水”を、剣に乗せて振るう技。
どんな者にも適した“型”がある。……誰もが、鬼に立ち向かえる技になる」
御利哉が、再び柱たちに向き直った。
「――我らは、“鬼殺”のために、この力を次代に繋ぐ。
継国縁壱殿と、タケシ殿は、鬼狩りの原点です。
そして皆もまた、未来へと道を紡ぐ者。……これより、正式に呼吸の修行を始めましょう」
言葉が落ちると同時に、柱たちの中に、揺るぎない“決意”が灯った。
鬼が在り、理が在り、人が抗う。
戦いは終わっていない。だが――いまここに、“始まり”が揃った。