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この世に天国があるんなら、きっと、こういう場所のことを言うんじゃろうな――
わしはいつもの岩の上で、ひっくり返って空を見とった。庵の煙が細く立ち昇り、炊きたての米の匂いが風に乗って鼻先をくすぐる。
うたの歌声が、ほんのかすかに聴こえてくる。
それを、縁壱が土間で黙って聞いとる。
縁壱はよう働く。
朝は日が昇る前に起きて薪を割り、水を汲んで火を起こす。日中は畑に出て鍬を振り、夕方には山から山菜や茸を背負って戻ってくる。
顔ひとつ歪めん。笑いもせん。けど、その背中からは、よう分かるんじゃ。おんし、いま幸せなんじゃの。
「ほら、縁壱さん。手、出して」
縁壱が縁側に座ると、うたがにこにこと小さな包みを差し出した。
「今日は味噌団子。ちょっと焦げたけど……」
「……おいしい」
「食べてへんのに!」
「……もう分かる」
ふたりして、くすくす笑い合う。
その光景を、わしは陰からそっと見とる。
居た堪れんいう気持ちは無い。寂しさも、嫉妬も無い。ただ……ほっとするんよ。
鬼として生きてきたわしが、こんな感情持つとは思わなんだ。
けど、ここに吹く風は、わしの血を沸かせん。
炎のような怒りも、飢えも、どこか遠くへ行ってしまう。
縁壱とうたが一緒におるだけで、それでええんじゃ。
ある日、縁壱が木彫りの櫛を削っとった。
無骨な手先で、慎重に、丁寧に彫りを入れとる。その目が真剣そのもので、何を彫っとるかなんて聞かんでも分かった。
「完成したら、渡すんじゃろ?」
誰にも届かん距離から、わしはそっと呟いた。
数日後、うたが髪を結って出てきた時、髪留めにその櫛が挿さっとった。
気づいた瞬間、わしは胸がぎゅううっと縮まるような気がした。
ああ、こりゃあ、もう戻られんな――
うたが縁壱にご飯をよそい、縁壱が黙ってそれを受け取る。
夜は囲炉裏を囲んで、湯を沸かし、季節の話をし、うたが昔話を語る。縁壱は時折、頷くだけ。
それでも、十分すぎるくらい会話はあった。
言葉はいらんのんよ。互いが“ここにいる”という事実だけで、全部が伝わっとる。
――縁壱は、もう枝を持たんようになった。
小屋にある木刀すら握らん。わしが時折仕掛けても、身をひねるだけで受け流す。
「なんで斬らん?」
「……もう、斬りたくない」
「おんしの剣は、誰かを守る剣じゃったろ?」
「今は、守りたいものが、武器の外にある」
その言葉に、わしは何も言えんかった。
こいつは、ほんまに強うなったんじゃ。
縁壱が土間に座り、黙って針仕事を手伝っとる。
ウタが笑いながら茶を淹れとる。
窓の外で、わしがあくびをして寝転がる。
その静けさが、ええんじゃ。
鬼と人が、なんの血も涙も流さずに、こうして共に時間を過ごせる世界が、ちゃんとあるんじゃ。
この時はまだ知らんかった。
こんな幸せが、どれほど脆うて、どれほど愛おしいもんか――
けど、いまはただ思う。
おんしらに、よう出会えたわ。
そっからしばらく。
「……おんし、ちぃと付き合え」
朝もやの中、薪を割ろうとしとった縁壱の背中に、そう声をかけた。
「? 何を……」
「決まっとる。稽古じゃ」
「……武具はもう……」
「誰が“剣の稽古”ゆうた。動きじゃ、動き!」
そう言いながら、わしは肩をぐるりと回した。骨がごきりと鳴る音が山に響く。
「身体が鈍っとるんじゃ、付き合え。わしひとりで走ってもつまらんけぇな」
ほんまのことを言うと、最近ちぃと不安やった。
縁壱はえらい速さで「人間」に馴染んでいきよる。畑の耕し方も、布団の干し方も、わしよりよっぽど上手くなっとる。けどな――
剣を手放すってことは、「命を守る術」を手放すことでもあるんじゃ。わしがここにおる間はええ。けど、もし何かあった時、おんしの手が鈍っとったら……わしぁ、耐えられん。けぇ、稽古なんじゃ。どうしても。なあ、頼むけぇ……付き合え。って言うのは格好悪いけぇ――
「ええか、断るな。わしの身体が鈍ったら、おんしのせいやからな!」
「……理不尽だ」
「うるさい。さあ行くぞ!」
縁壱は、しぶしぶという顔で立ち上がった。けど、どこか楽しげでもあった。
山の裾にある平らな草地。ふたり向かい合って、軽く礼だけして、すぐに間合いに入った。
「構えいらん。お互い、動きの感覚を思い出すんじゃ」
「わかった」
風が吹いた瞬間、わしは地を蹴って前に出た。
刹那、縁壱がふっと身を引いて躱す。
「おっ、ええ動き!」
続けざまに拳を突き出すと、奴はその腕を捌き、くるりと背後に回った。
わしは素早く反転し、踵を地面に叩きつける。
――どすん!
地面が軽く揺れ、縁壱の足元の草が舞う。
「おわっ、危な……」
「集中せえ!」
笑いながら、今度は低く踏み込み、足払いを仕掛ける。
縁壱はそれを跳躍でかわし、空中で一瞬、太刀筋をなぞるように指先を動かした。
――あ、今の、“斬る”動きじゃった。
わしは心の中でニヤリと笑う。
「なあ縁壱、おんし、斬りたいんやろ?」
「……いいや。斬らない。でも……動きは、忘れたくない」
「ほう! ええやないか!」
それからわしらは、何度も打ち合った。
拳、足、時に体ごとぶつかり合う。
笑いながら、時に無言で。風の音が拍子になる。
「はぁ……はぁ……」
珍しく縁壱が肩で息をしておった。
その姿を見て、なんかもう、堪えきれず笑うてしもうた。
「どうした、若造。たったこれしきで息切らすか!」
「タケシが……全然息切れてないほうが、おかしい」
「ふはは! わしぁ鬼じゃけんなあ!」
縁壱も、小さく笑うた。
休憩しながら、木の根に腰を下ろす。
空が高うなってきて、鳥が飛んどった。
「なあ、タケシ」
「ん?」
「……ありがとう」
「なんじゃ急に」
「なんか、嬉しかったから」
わしは返事もせずに、空を見た。
なんやろな。こいつの「ありがとう」は、軽うて重い。
魂にまで沁みるような、変な言葉じゃ。
やっぱり、おんしは斬るべき時に斬れるようになっとかんといけん。
そうでないと、いつか――大事なもんを、守れんかもしれん。
けど今は、まだええ。
こうして、風の中で肩を並べて座っとるだけで――わしは十分、幸せなんじゃ。
「じいちゃん!」
「……は?」
わしは頭の上にでかい疑問符を浮かべた。
うたが、にこにこと笑いながらもう一度呼ぶ。
「タケシじいちゃん、こっち来て。今、豆煮えてるから」
「じいちゃん!? 誰が!? わしが!?」
あまりの衝撃に腰が抜けるか思うた。思わず、指で自分の顔をぺちぺち叩く。
「ほら、縁壱さんよりずっとお年上でしょ?」
「いや、まあ、そら……そやけど……」
「じゃあ“じいちゃん”で合ってます!」
勝手に決定すなぁああ!!!
――まあ、でも。
悪うない。
庵に出入りするようになって、もうだいぶ経つ。
最初は陰から眺めるだけのつもりじゃったんやけど、ある日うたが「そこの鬼さんも一緒にご飯どうぞ」なんて言い出してな。あれにはさすがのわしも面食らうた。
けど、まあ、腹も減ってたし。断る理由も無ぇし。
それから、たまーに囲炉裏を囲むようになった。
うたは、ええ子じゃ。
気の利くところもあるけど、それ以上に“よう見とる”。
縁壱の細かい変化や気配にもすぐ気づくし、わしに対しても、まるで昔からおるような自然な接し方をする。
「タケシじいちゃん、味噌足らんかったら言うてな」
「……言うてええんか?」
「言うてください」
「じゃあ、味噌足らん」
「はい、すぐ足します!」
縁壱も、横でくすっと笑うておる。
まったく、おんしたちは……なんなんじゃ、こんな穏やかな時間は。
わしの時間は、戦と争いと、裏切りと、炎と血にまみれとったのに。
縁壱が火をくべる姿を見ながら、ふと、思い出す。
――桃太郎。
鬼のわしと刀と拳を交えて、団子で和解した奴。
あれはもう、ずっと昔の話じゃ。吉備団子を分け合って、笑い合うた。
ひとりで空を見上げとると、「何してんねん!」って後ろから木の棒で頭を叩かれたもんじゃ。
――坂上田村麻呂。
あいつはあいつで、刀を抜くまでが長かった。
さんざん語って、語って、飲んで、笑うて――それで最後に裏切りよった。
「すまぬ」と言われたときの、あの顔。あれは、今でも覚えとる。
けど、まあ、ええ。今なら思える。
どいつもこいつも、わしの“時”にはおらん奴らじゃ。
ほんでも、縁壱は――“ここ”におる。
それだけが、なんやありがたく思えてくるんよ。
「じいちゃん、縁壱さんと稽古してるとこ、なんか似合ってるね」
ウタがそんなことを言うて、湯気の向こうで笑うた。
「ほうか……似合うか……じいちゃんと若旦那で、次が師範か?」
「うん! じゃあ、じいちゃんは団子師範やね!」
「なんで団子やねん!!!」
「えへへ」
笑う声が、囲炉裏の火に重なる。
縁壱も、ただ火を見て微笑んでおる。
わしは、そっと空を仰いだ。
――この時間が、長う続けばええ。
鬼がそう願うのは、贅沢かもしれんけど。
せめて、おんしたちの笑顔が、失われんように――わしが、傍で見とるわ。