朝靄の立ち込める庭にて、出立の支度が整えられていた。
タケシ、縁壱、うた、そして陽。
産屋敷家の者たちが一礼し、最後に姿を現したのは当主・御利哉だった。
白き衣を翻しながら近づいた御利哉の腕には、一対の鳥が止まっていた。
「――これを、お持ちください」
縁壱が目を細め、タケシが怪訝な顔で近づく。
「鳥……か?」
御利哉は穏やかに頷く。
「伝令です。
鬼の気配を察知した際、または市井の者たちから“異変”が持ち込まれたとき――我々があなた方に伝える手段。
この鳥たちは、人の言葉を理解し、意思を伝える訓練を施されております」
「ふむ……わしに言葉で伝えられる生き物っちゅうんも、面白いのう」
御利哉はさらに続ける。
「彼らは、“鬼を探し、伝える”という役目を持ち、世のうねりの先端に立っております。
どうか……力を貸してください」
そのとき、タケシのほうへ差し出された鳥は――
ふわりと翼を広げ、次の瞬間、タケシの額に着地した。
「……おお? なんか乗って――」
ぷちゅ。
「――のおおおおおおおお!? なんじゃコイツゥゥゥ!!」
糞。
それはまさしく、見事なタイミングで産み落とされた“挨拶”だった。
「わしの頭は便所ちゃうぞコラ! ていうか、誰が頭を選んで止まるんじゃお前は!?」
「たけちー、うんちついてるー」
「やかましい! 見るな陽っ!」
対して、縁壱の方に渡された鳥は、すう……と羽ばたき、彼の右肩に静かに止まった。
無言で、ただ前を見据え、首だけで周囲を見張っている。
鳥の名はまだないが、どこか“兵”のような威厳を感じさせた。
「……いい子ですね」
「そりゃおんしのとこのは賢そうな顔しとるわ! わしのはさっきまで口開けて寝とったぞ!」
御利哉はくすりと微笑み、深く頭を下げた。
「彼らが、あなた方と共に“未来を繋ぐ羽”となるよう願っております」
旅支度を終え、四人と二羽は藤の垣根を抜けて道へと戻る。
空はすでに高く、風は東へ吹いていた。
縁壱は歩きながら、ふと呟く。
「鳥の目は、遠くを見て、今を掴む。
僕たちよりもずっと早く、“何か”を感じ取れるかもしれません」
タケシは、頭を拭きながら言うた。
「……せめて、ちゃんと紙にして出してくれや。のう、名を付けるなら“ブリ”じゃ。“ブリ”!」
「さかなの名前……?」
「糞の音じゃ糞の!」
陽がけらけら笑い、うたはそっと縁壱の鳥を撫でた。
鳥が知らせるのは、風の向きか、鬼の気配か。
それとも――もっと深い“何か”かもしれない。
屋敷に戻ると、空気はすでに切り替わっていた。
隊士たちはすでに道場に集まり、稽古に備えて黙々と準備を進めている。
縁壱はその中央に立ち、日輪刀の柄に手を添えながら、静かに呼吸を整えていた。
彼の呼吸はすでに“常中”にあり、しかしその先、さらなる“深み”を模索している。
「――踏み込みの一瞬に、世界が止まる。
その瞬間に、太陽の如き刃を刻めば……」
縁壱の動きに合わせて風が巻く。
体温、血流、筋肉の密度――そのすべてを制御するように呼吸は巡る。
「日の呼吸・拾ノ型……いや、その先へ」
“奥義”とは、技ではなく“生”そのもの。
彼はすでに剣術ではなく、命を太陽へと変えようとしていた。
一方、他の隊士たちもまた、自らの“呼吸”を極めようとしていた。
炎を纏う者、水と共に舞う者、雷の如く閃く者。
それぞれの身体が、それぞれの“型”に寄り添うように進化していく。
そんな中、屋敷の裏庭で、誰にも気づかれぬように静かに腰を下ろしていた男がひとり――
「……ふぅぅううう……」
タケシだった。
目を閉じ、深く、深く息を吸い込む。
その音は、空気を喰らうような重たさと圧を孕んでいた。
鼻腔から肺へ、血流へ。
その“鬼の肉体”が、本来、人間の術である“呼吸”を受け入れようとしていた。
(人間がこの術で、わしらと渡り合うほどの力を得られるなら……)
(太初よりこの身を持ったわしが、この“呼吸”ちゅうもんを会得できたら……)
大地がかすかに軋んだ。
(……どうなるんじゃろうな)
彼は誰に見せるでもなく、ただひたすらに呼吸を繰り返した。
血が熱を帯び、脈が跳ねる。
太陽に向かう剣ではなく、“鬼の身で息を刻む”という矛盾。
しかし、それでも――
「……なんか……見えてきた気がするのう」
タケシの目が、ゆっくりと開いた。
赤黒いその瞳の奥に、まだ人は知らぬ“深い呼吸の底”が、確かに揺れていた。
その日。
人と鬼、それぞれの“呼吸”が交差し始めた。
誰が想像できただろう――“鬼が、息をする日”が来るなど。
屋敷の空気は穏やかだった。
だが、その静けさの底で、何かがゆっくりと蠢いていた。
縁壱は庭で刀を構えたまま、ふと、背後に気配を感じた。
静かに振り返ると、道場の縁側、柱の陰に腰を下ろした大男――タケシが、深く長い息を吐いていた。
「……タケシさん?」
その身体に流れる気が、明らかに変わっていた。
煮えたぎるような血の熱が、以前よりもはるかに高く、猛々しく脈打っていた。
骨が軋み、筋肉が脈動し、肺が音を立てて膨らんでいる。
(……これは)
“全集中の呼吸”。
もともと“人の身体”を極限まで動かすために生まれた技。
だが今、目の前にいるのは、人ではない。
鬼。
それも、始原の“鬼神”。
――その存在が、今、“人の理”を飲み込もうとしている。
「……タケシさん、あなた……」
縁壱は一歩、足を踏み出した。
その瞬間、内臓の蠢きすら音に感じるような圧が、確かにタケシから放たれていた。
「どこまで行くんですか、あなたは」
庭の奥。
ウタの膝の上で、陽が笑っていた。
「たけちー、むーってしてるー!」
「ほんまか……わし、顔も固まっとるんか……」
その光景に、縁壱は苦笑を漏らした。
だが、心の底では震えていた。
(鬼が、呼吸を得る。
それは、かつてない力の誕生。……けれどそれ以上に、“何か”が揺らぐ)
「……俺も負けてられないな」
そう呟いたそのときだった。
屋敷の東の端。藤の結界の外――そこに、“影”が現れた。
踏みしめる足音。重く、揺るがぬ意志。
その気配に、縁壱の呼吸がわずかに乱れた。
「……!」
姿が見えた。
長い髪、険しい眼差し、懐に静かに隠された剣。
継国巌勝――縁壱の兄。
弟と道を違え、別れたあの日から、再びその足が、この屋敷へと向かっていた。
風も、鳥も、花も、その到来を予感していたかのように静まり返っていた。