火が落ちきった庭に、ようやく夜が満ちとった。星はまだ薄いが、空のてっぺんで月だけが真ん丸に膨れておる。冷たい空気のなか、わしはひとりで立っとった。口で吸う息よりも、鼻で吸う息のほうが世界の“臭い”がよくわかる。鬼は匂いで生きとるもんじゃ。
今のわしの鼻が拾うとるんは、藤の花、焚き火の残り香、縁壱の汗、陽がかじった団子の蜜、そして……血じゃ。
ほんのわずか、遠いが間違いない。血の匂い。それもただの人のもんやない。あれは……剣を振るう者の血。殺すための血や。
庭の端、藤の結界の外から、じわじわと近づいてきとる。音はせん。風も鳴いとらん。けど、あの“圧”は……消しようがない。
(おんし、ようやっと戻ってきたか)
わしは縁壱と過ごした十年のうち、あいつの口からその名を多く聞いたことはなかった。けど、たまに夢でうなされるような夜、火を見つめながらぽつりぽつりと語ったんじゃ。「兄がいた」と。「強かった」と。「けれど、別れた」と。
その名は、“継国厳勝”。血を分けた兄弟。……その匂いが、今、屋敷に近づいとる。
「……さて。どうするかな」
わしは立ち上がった。音を立てぬように、静かに草を踏んで屋根へ登る。そこからなら、結界の向こうもよう見える。
夜目の利くわしにゃ、闇のなかで動く一つの影がはっきりと見えとった。背が高い。剣士の歩き方。無駄がない。風の流れすら斬り裂いてくるような、切っ先の鋭さを纏う男――あれが、厳勝か。
(似とる……いや、似とらんな)
(骨格も歩き方も、縁壱とはまるで違う。けど、その剣の気配だけは……似とる)
わしの目の奥が、ぞわりと疼いた。あれは“剣で生きる者”の歩き方じゃ。剣の先に、いつも“命を落とす相手”がおる。……わしが幾度も出会ってきた、英雄たちと同じ。
(桃、田村麻呂、そして縁壱……)
(そういう奴らは、ほんまに時折、生まれてくる)
ぴたりと足が止まった。
厳勝の目が、屋敷の方を見た。わしの位置には気づいとらんが、気配は読まれとる。どんな剣士でも、気配を隠せるもんと隠せんもんがある。わしは“隠せん側”じゃ。
目が合った。いや、視線の線が交錯した。
(ええ眼しとるのう。弟と同じ、あれは命を諦めとらん眼じゃ)
その瞬間、屋敷の中から、縁壱が庭へ出てきた。足音はせん。いつもどおり、まるで風が形を持ったような歩き方。
縁壱はこっちを見上げて、ただ一言。
「来ましたか」
わしはにいっと笑って、屋根の上から言い返した。
「ほうじゃ。来おったわ、兄貴が」
縁壱の表情は、いつもより少しだけ柔らかかった。怖れや緊張や怒りではなく、なんかこう、寂しさに似たもんが混じっとる。
縁壱は刀を抜かんかった。ただ庭の真ん中に立ち、月を背にして厳勝を待っとった。
(こっからが、ほんまの始まりじゃのう)
剣を持たぬまま待つ弟と、剣を背に歩む兄。
どちらが正しいかなんて、誰にもわからん。けど、わしのこの目だけは、あいつらが“何かを越えようとしとる”のを見逃しはせん。
風が、屋根の下から巻き上がった。
今宵、兄弟は再び出会う。
重い空気じゃった。
剣を抜かんのに、まるで刀の雨が降り始めたような気配。わしは屋根の端で静かに息を殺した。
厳勝が庭に足を踏み入れ、縁壱と向かい合うた。
弟は微動だにせん。顔は柔らげとったが、腰の重心はまっすぐ地面に落ちとる。戦わぬ姿勢でありながら、いつでも動ける構え――十年の鍛錬がしみ込んだ、見事な立ち方じゃ。
「……変わったな」
兄が言うた。声は低い。まるで何かを押し込めとるような響き。
「兄上も。変わってないようで、変わった」
縁壱の返しは淡々としとった。けど、言葉の奥に微かな震えがあった。わしの耳には聴こえる。再会が嬉しいとか、懐かしいとか、そんなもんとは違う。胸の奥で長年渦巻いとった問い――“まだ、お前は斬らんでいてくれるか?”という不安が揺れとる音じゃ。
厳勝は歩みを止めた。距離は七歩。剣の間合い。
縁壱はそれを詰めようとせず、ただ見上げた。弟の方が背は少し低い。けど、“見上げてる”感じはまるでなかった。
「何をしに来た?」
縁壱の問いは、優しくなかった。
過去を知っているからこその“確認”じゃ。
厳勝は口を噤んだまま、視線だけを落とした。
「……見に来た」
「何を?」
「お前が、どう在るかを」
しばらくの沈黙。
ただ、虫の声すら鳴かぬ静寂の中で、二人の呼吸音だけが屋敷に満ちていた。
「俺は……あのとき、お前に負けたと思っていた。
いや、才能に、というべきか。剣に選ばれなかった俺には、お前が憎かった」
縁壱の表情は動かん。
ただ目だけが、過去を映すように揺れた。
「今でも?」
「……わからん」
あまりにも素直で、あまりにも虚ろな言葉。
兄は迷っていた。剣を交えるでもなく、赦しを乞うでもなく、ただ――“答えを探しに来た”。
縁壱は一歩、踏み出した。けど、それ以上は進まんかった。
「俺はあなたを……今でも、兄だと思ってます」
風が吹いた。
だがそれでも、二人は近づかん。
「……なら、それだけでいい」
「……いいえ。俺は、本当は話したいことが山ほどある」
「話しても……俺は、今のお前に、何も返せん」
そう言い切った厳勝の声に、微かな後悔がにじんどった。
けど、縁壱はうなずきもせんかった。否定も肯定もせず、ただ目を細めて、それを受け取るだけじゃ。
――これが、“兄弟”なんかのう。
わしは屋根の上で、小さく息を吐いた。
言葉は交わしても、心までは通じんことがある。
剣は交えんでも、痛みは消えんこともある。
それでも、会いに来た兄と、待っていた弟。たったそれだけで、今宵は十分すぎる。
厳勝は踵を返した。
剣も抜かず、言葉も残さず。来たときと同じ歩調で、ゆっくりと闇に去っていく。
縁壱はその背を、ずっと見送っとった。
呼吸すら忘れるように、ただ静かに――まるで、再び幼きころの兄の背を見つめているように。
兄は語らず。
弟も追わず。
それが、縁壱と厳勝の、たったひとつの“和解”だったのかもしれん。
あれが弟だ。
風の中に立ち、まっすぐに俺を見ていた。
十年。長かったと思ったことはない。
だが、こうして目の前に立たれると、自分がその十年を何に費やしてきたか、嫌というほど思い知らされる。
あの夜を境に、世界は変わった。
家を出た俺は、旅の途中、鬼と遭遇した。
否――襲われていたのは、他人だった。村の女と、赤子を背負った若い男。咄嗟に飛び出した俺の剣は、鬼の爪に届く前に折られた。
俺は死ぬと思った。
だが、その鬼は、なぜか俺を喰わずに去っていった。
理由はわからなかった。ただ――その目にあったのは、人への飢えではなく、“何かを探している者”の眼差しだった。
それが、“本物の鬼”だと知った瞬間だった。
夜に現れ、人を喰らう悍ましき悪鬼。
幼い頃、絵巻でしか見たことのなかったそれが、目の前にいた。
俺は戦うと決めた。
“弟を守るため”でも、“人を救うため”でもない。
あの鬼に、そしてそれを超える“弟の背”に、追いつくためだ。
鬼殺隊――その存在を知り、己の剣を鍛え直した。
あの頃はまだ呼吸法など知られていなかった。
だが、弟の名を聞いた。どこかの集落に現れ、“奇妙な剣術”を教えていると。
《呼吸》。
俺はそれを、断片だけ聞きかじり、真似し、身体に叩き込んだ。
骨が砕けるまで、肺が破れるまで、剣を振り続けた。
呼吸一つで、人間が鬼に斬り結ぶことができるのなら、俺もその域に届きたかった。
――肩を並べたかったんだ。
あのとき、縁壱が見せた目は、どこまでも遠かった。
優しさも、孤独も、背負うものすべてが“俺には触れられない場所”にあるようだった。
だから、剣を持った。
それが唯一、俺とあいつを繋げる道だと思っていた。
けれど、今。
目の前に立つ弟は、もう“剣の先”ではなく、“人の中”にいた。
人を守り、人に教え、人のために笑っていた。
俺は――もう、あいつの隣には立てないのか。
ただそれだけが、胸を締めつけた。
声をかけて、何かを伝えたところで、あいつはきっと変わらない。
あの笛も、あの言葉も、俺の過去のためのものでしかない。
それでも、歩いてきた。
あいつがどれだけ遠くへ行っても、“俺は、俺の足で歩いている”と伝えたかった。
そして、もう一度見たかった。
あの時の、まっすぐな目を。
――追いつけなかった。
けれど、追い続けてよかった。
弟よ。
お前の背はもう、俺の届く位置にはない。
けれど、お前の隣に立てる日が来るなら、俺は、まだ歩みを止めはせん。
月が、ただ静かに、白く、照らしていた。
……その時だった。
「にーちゃん」
声がした。
胸の奥の、深くにまで届いてくるような声だった。
高く、柔らかく、真っ直ぐな――幼い声。
思わず振り返る。
そこにいた。
縁壱が、女と、ひとりの小さな幼子と共に立っていた。
女は静かに子を抱き、その子は俺を見て、笑っていた。
「兄上、僕の子です」
縁壱が、月に照らされた顔で、はにかむように言った。
「陽と言います」
胸の奥に、何かが、すぅっと溶けるように落ちた。
縁壱が子を持つ――
そんな未来を、かつての俺は一度も想像しなかった。
俺の知る弟は、いつも母を支え、喋らず、そして何かを背負っていた。
人に囲まれ、家族を得て、笑みを浮かべる弟など――どこにもいなかった。
今、目の前にいるのは。
俺が、一度も超えることができなかった弟であり、
しかし俺が、どこかでずっと願っていた、“ひとりの男”としての縁壱だった。
陽という名の娘が、また声を上げた。
「にーちゃん!」
縁壱が目を細め、笑っている。
傍の女――うたもまた、俺に向かって深く礼をしてくれた。
「……ああ」
俺は小さく応えた。
そうか……
言葉が足りないのは、昔からだ。
けれどそれでも、この夜風が、すべてを伝えてくれる気がした。
家を捨て、妻子を捨て、ただ剣を持ち彷徨った。
だが剣では届かなかった背中。
追いかけ続けていたその弟の隣に、今、少しだけ何故だか近づけた気がする。
「……良い名だな」
俺が言うと、陽は「えへへ」と笑って、縁壱の裾にしがみついた。
月が、優しく、三人を照らしていた。
その光の中で、かつて兄弟が背中を向け合った記憶が、ゆっくりと融けていくようだった。
継国巌勝(つぎくに みちかつ)
―かつて月を裂こうとした者―
才能なき者が、才能ある者の隣に生まれた。
剣を持ち、戦を知り、それでも届かぬ背があった。
巌勝は弟を追った。否、弟という光に、自らを焼かれ続けた。
人の身のままに、鬼を斬ろうとした。
だがそれは、誰かを救う剣ではなく――己の誇りを繋ぎとめるための刃だった。
彼は、勝てなかった。
それでも歩みは止めず、剣を研ぎ、夜を裂いて進んだ。
やがて出会う、“人ではないもの”と、“かつての弟”。
そして知るのだ。もはや、自分の剣では辿り着けぬ場所があることを。
剣を交えることなく背を向けた兄は、
最後にひとつの名を聞く――“陽”。
それは弟が選んだ、剣ではない道。
光を宿す者の、その小さな名に、彼の戦は終わった。
斬れなかった者。届かなかった者。
けれどその足は、誰よりも遠くまで歩いたのかもしれない。