朝霧がまだ畦道に残る、初夏の山間の村だった。
木々のざわめきは新芽の重みで低く、川の流れは雪解けの名残を運びつつも、確かな陽気の匂いを孕んでいた。
うたは縁壱に小さな布包みを手渡す。中には煎じた薬草と干し肉が少し。薬草は彼女の手製、干し肉は近隣の猟師との物々交換の賜物だ。
縁壱は無言で礼を言い、包みを懐にしまった。
その隣で、巨大な体躯をもてあまし気味にしゃがみこむのは、浅黒い肌を纏った“人ならぬ者”――タケシだった。
「なあ、うた。昼メシん時にゃ戻る。味噌の残っとったろ」
「ええ、ありますよ。でも……ご無理はなさらないで」
うたは縁壱よりも、むしろタケシを心配するように声をかける。
そうしたやり取りにも、もう誰も驚かなくなっていた。
この村は知っていた。
“化け物に似た何か”が、夜な夜な鬼を殴り潰してゆくことを。
“剣士の若者”が、その隣で静かに鬼を斬り伏せることを。
だからこそ、村には今、平穏があった。
縁壱とタケシは並んで村を出た。
日が昇り、霧が割れてゆく。ふたりの影は真っ直ぐ山の奥へと向かっていた。
* * *
その山奥では、別の戦いが進行していた。
煉獄寛寿郎――後に“炎柱”と呼ばれる男が、手傷を負いながらも踏みとどまっていた。
「ハァ……ハァ……! だが、まだッ……!」
炎の呼吸・壱ノ型――不知火。
振り下ろされた剣の軌跡はまさに焔。斬撃と共に鬼の右腕が焼け落ちる。
背後では、水の呼吸の使い手が援護していた。
かつて縁壱が指南した者たち。今や彼らも、鬼を狩る者として一人前だった。
だが鬼は、異形をさらけ出してなお動きを止めない。
再生し、喚き、突進してくる。
その時だった。
轟音と共に山肌が砕けるような衝撃が走る。
巨大な何かが、鬼の背に突き刺さったのだ。
――否、何か、ではない。男だった。
赤黒い肌、鬼のような二本の角、そして太すぎる腕。
タケシが飛来し、拳一発で鬼の背骨を粉砕していた。
「やかましいのう……口ばっかりで骨ばぁスカスカやんけ、おんしら」
「タ、タケシ殿……!」
煉獄が驚愕の表情で呟く。
その視線の先――山影から、縁壱もまた静かに姿を現した。
「俺の出番はないかもしれないな」
「まだ三体、いる」
縁壱の声は静かだった。
その言葉を合図に、彼はすうっと息を吸い、次の瞬間には鬼の首がひとつ、宙に浮いていた。
日の呼吸・円舞。
炎のような剣戟が、紅の軌跡を空に描く。
タケシが腕を振るい、縁壱が斬る。
誰も届かないはずの鬼たちが、まるで童のように地へ伏せていく。
「……また、偽物じゃったのう」
タケシが呟いた。鬼たちの肉体は、斬られてなおなお苦しげに泡立ち、やがて白く崩れて消えていく。
「“あれ”とは違う」
「違う。だが、“あれ”が育てた。作りもんじゃが、悪意だけは本物じゃ」
縁壱は無言で頷いた。
そして、静寂が戻った。
* * *
その夜、焚き火がはぜる音が村の空気に溶け込んでいた。
剣士たちは皆、火の回りに集っていた。
誰もが火傷と血を帯びた体をしていたが、皆どこか、誇らしげだった。
「……今日は俺の斬撃のが先だったぞ」
「いや、タケシ様の拳が先だった!」
「アレは反則だろう、あの質量で飛んでくるとか!」
笑い声が夜気に溶ける。
その一歩外側に、縁壱とうた、そしてタケシが座っていた。
縁壱は静かにうたの手を取っていた。手に包帯が巻かれている。薬草の処置をしすぎて、掌を荒らしたのだ。
「……ありがとう」
「いいえ。あなたの方こそ」
ふたりの会話に、タケシは興味なさげに火を見つめる。
だが、その眼には消えかけた火の奥に、まだ見ぬ影を見ているような光が宿っていた。
火が、ぱちりと弾けた。
炎の明滅が、寛寿郎たち若者の顔を赤く照らしていた。
「……おれは思うんだ」
そう言ったのは、まだ十代の剣士――小柄ながらも目の据わった少年だった。
「このまま、鬼なんていなくなってしまえばいい」
「なるさ」
寛寿郎が言った。「俺たちが、そうするんだ」
周囲が頷く中、ふと、うたが呟いた。
「……でも、無惨はまだいます」
その名を口にしたとたん、夜の空気が少しだけ冷えたように思えた。
縁壱は焚き火の奥を見つめたまま、黙っていた。
「……無惨。わしは、会うのが楽しみじゃ」
タケシが、ゆっくりと言った。
「……楽しみ?」
うたが聞き返す。思わず笑みが零れる。
「ふつう、怖いとか言うところじゃありませんか?」
「怖いもんか。おんしらには見えとらんのじゃろ。あいつら、あの“偽物の鬼”どもが出てきよる時の“空気”。」
タケシは焚き火を見ていた。
その炎の向こうに、かつての血の匂いが立ちのぼっているかのようだった。
「風が震えとる。草木が黙りこくる。……あれはのう、神仏も目ぇ背けとる」
「……」
「だから、わしはの。ちゃんと、睨んどかにゃあかんのよ」
焚き火が、またひとつ弾けた。
誰も言葉を継がなかった。だがその沈黙は、重くも苦しくもない。ただ、真っ直ぐな尊敬がそこにあった。
* * *
翌朝。
薄曇りの空の下、縁壱はひとりで山の小道を歩いていた。
うたはまだ眠っており、タケシは村の子供に「一本背負い」の受け身を教えている。
小道の奥には、一本の巨木があった。
その根元に、一振りの木刀が突き立てられていた。形見のように。
縁壱はそれを見つめ、しゃがみ込む。
その木刀は、彼が最初に呼吸を使った時のものだった。
「……今でも、時々わからなくなる」
縁壱の声は、誰に向けたものでもなかった。
「戦うべきなのか。守るべきなのか。……生きたいのか、生かすためなのか」
その問いに答える者はいない。
だが縁壱は、答えが要らぬこともまた知っていた。問い続けること自体が、彼の歩みだった。
その時、背後で声がした。
「縁壱。まだ考えとるんか」
タケシだった。木刀に目もくれず、手に握った白米団子を差し出してくる。
「お前、朝飯抜きすぎじゃ。食わんと頭働かんぞ」
「……ありがとう」
縁壱は小さく笑い、団子を受け取った。
ふたりは並んでその場に座った。
「わしはのう、縁壱」
タケシが言った。「この国の土と血とにまみれとる。せやから、よう分かるんよ」
「何が、ですか」
「こっから先が、ほんまの地獄やってことがの」
縁壱は頷いた。
無惨がまだいる。その影はこの国のどこかで、次の手を静かに進めている。
「でも、いずれ終わる」
縁壱が言った。「この命に代えても」
「わしも同じ気持ちじゃ。ただな……」
タケシは空を仰ぐ。雲がゆっくりと流れていく。
「終わったあとのことも、考えとけ。守った後の国で、誰が笑うんか。誰が子を抱くんか。……おんしは、そういう“あと”を考える顔しとるけえ」
その言葉に、縁壱は黙って目を伏せた。
火のように揺れる心の内に、ひとつの像が浮かぶ。
――うた。
命を懸けてでも守りたい存在。
“あとのこと”を、確かに考えさせてくれる唯一の光。
縁壱は拳を固め、ゆっくりと立ち上がった。
「……タケシ。俺たちは、間違っていない」
「そりゃこっちのセリフじゃ。……行こか」
ふたりはゆっくりと歩き出す。
その背には、風が吹いていた。新たな戦いの兆しと共に。
それはまるで、春と夏の間にだけ現れる幻のような時間だった。
タケシと縁壱、そして鬼殺隊たちは、各地を巡り、鬼を討ち続けた。
戦いはあった。血も流れた。
だが、そのたびに人々の生活は少しずつ取り戻され、夜に笑い声が戻っていった。
ある日。南方のとある村――
月の光の下、縁壱はたったひとりで鬼と対峙していた。
斬撃は一閃。
“鬼”は叫ぶ間もなく、地に崩れ落ちる。だがその肉体は、どこかおぞましい気配を宿していた。
「……また“混ざっとる”な」
背後から聞こえたのはタケシの声。
縁壱は頷いた。
彼らが討ってきた鬼の中に、“何か別の何か”が混ざり始めていた。
明確に異なる、“本物”ではない気配――造られた者。
「無惨の実験か、遊びか。どっちにしても、質が悪い」
「うむ。けど……これも、終わりが近い証拠じゃろ」
タケシは鬼の遺骸を睨みつけた。
風が吹いた。血の匂いが、わずかに鉄と土に溶けて消えていった。
* * *
夜。焚き火の明かりのもとで、若い鬼殺隊士たちが集まっていた。
「……俺の村が救われたのは、あんたたちのおかげだ」
ある剣士が言った。目に涙を浮かべながら、頭を下げる。
縁壱は静かに首を振った。
「違う。君たち自身が戦ったから、生き残ったんだ」
「……でも!」
「人を守るのは、刀じゃない。意思だ。
君のような者が、これからの“柱”になるんだ」
火がぱち、と音を立てた。
「……そりゃかっこええな」
タケシが笑った。
「なんや、名乗りでも考えとくんか? “太陽柱”とか、“タケシ流奥義・突きまくりの呼吸”とか」
「そんなものはない」
「ほんで、そっちの笑わん面で“沈思柱”か。うたが付けたら“白湯柱”とかになりそうじゃのう」
「……」
「なんや、否定せんのかい!」
うたが肩を震わせて笑った。
夜の空気は、あたたかかった。
* * *
その翌朝、縁壱は一通の手紙を読んでいた。
“東の方角、狐塚の山にて、異形の気配あり。討伐を願う”――
「行こう」
縁壱が立ち上がる。タケシも背を伸ばし、背中の大剣を片手で持ち上げる。
「狐塚? あそこら、山奥すぎて人も寄らんとこやろ」
「それでも、何かがいるなら、行かねばならない」
「……ふん、まぁええ。久々に本気出すとするか」
ふたりはそのまま、何も言わずに歩き出す。
雲ひとつない空が、二人の背を押していた。
* * *
人々は、語る。
“あの二人がいた頃、夜が明るかった”と。
“どこかであの声が聞こえたら、村に鬼は現れなかった”と。
“天と地とを、両方背負う者たちが、確かにそこにいた”と。
そして――
二年の月日が、過ぎた。
季節は巡り、草木は再び芽吹く。
だが、かつての平穏の背後には、音もなく近づく“何か”の気配が、確かに潜んでいた。
その気配が、次に動くのは――ほんの、もう少し先のことだった。