ぬるり――と。
捥いだはずの腕の断面から、肉が盛り上がった。
血に濡れた骨が蠢き、白い筋が絡み合い、ぶくぶくと泡立つようにして“腕”が戻ってくる。
「……おい」
わしは低く呻いた。
皮膚が張り直され、指がぽきぽきと音を立てて動く。
再生しておる。信じられん速度で。
「再生、するんか。こいつ……」
初めて見る。こんなこと。
人間でもない、鬼でもない――この異様な回復力。
「……おもしれぇな」
笑うた。正直、笑うしかなかった。
けど同時に、わしの鼻が言うてくる。
くせぇ。
この再生する肉から立ち上る臭い――
ただの血肉の匂いじゃない。腐った池の底の泥。死んだ蛇の内臓。獣と人間と“何か”を混ぜて煮詰めたような、気持ちの悪い匂い。
「くせぇわ……なんなんじゃお前……」
笑いながら、わしの中の怒りがまたひとつ膨れ上がった。
「――よし。ええわ」
わしは半纏を脱いだ。
肩から、赤黒い肌が露わになる。
そのまま、着物の前をばさりと払い、下から鬼の本性をちらつかせた。
「おんしが“そういうもん”なら、わしも遠慮せん」
夜が深まり、風が唸った。
木々が震え、獣たちが逃げた。
そして――蹂躙が、始まった。
男は吠える。暴れる。爪を振るい、牙を剥く。
だが、届かん。
タケシの拳は雷鳴のように響き、蹴りは大地を裂く。
男の足を砕き、肋骨を折り、頭を地面に叩きつける。
再生しても再生しても、その上から容赦なく破壊する。
「ほれ、立てや。ほれ。もっと吠えてみい」
笑いながら、タケシは骨を砕く。
その手には一切の慈悲も、躊躇もなかった。
時間が歪んだ。
月が何度も雲に隠れ、風が何度も向きを変える。
夜が、長く感じた。
だが、やがて――空が、白んできた。
鳥が鳴く。風があたたかくなる。
タケシは、血にまみれた拳を緩めた。
男はもう、地面に伏せて動かん。けれど、その身体はゆっくりと――
「……焼けとる」
タケシが呟いた。
男の皮膚から、煙が上がる。まるで油に火を点けたように、じゅうじゅうと焼ける音がする。
「日、か……」
少し見上げれば陽が差しておる。
地平から、まばゆい朝日が木々の隙間を抜け、男の身体を照らす。
「おい、消えてくんのか。これで終いか?」
タケシが一歩、近づいた。
男は最後の力で、顔を上げた。歯を剥き、口を裂き、血を滴らせながら。
「……なんなんだょ…………」
そして、言葉の最後に――
“無惨様”、と、かすかに呟いた。
その直後。
男の身体は、炎に包まれたように焼け、音もなく、灰となって崩れた。
「……“様”?」
タケシは、ゆっくりとその場にしゃがみこみ、灰の跡を見つめた。
残されたのは、焦げた土と、濁った気配の残滓。
けれど――そこに一瞬、ぞわりとした“目線”のようなものを感じた。
「……おんしの上に、誰かおるんか……?」
風が吹く。
その匂いに、あの“臭さ”は、まだ微かに残っていた。
終わっとらん。
こいつはまだ、“入り口”じゃ。
朝日が昇りきった。
タケシは、ゆっくりと立ち上がる。
「――そろそろ、帰らんとな。……産まれとるかもしれん」
地を踏み、庵のほうへ向かう背に、風が吹きすぎた。
山道を下っていくと、風の向こうから微かな音がした。
ざっ……ざっ……
落ち葉を踏む音――けど、ほとんど音にならんほど静かで、まるで風そのものが歩いとるような気配。
そして、現れた。
「……おぉう」
わしは思わず声を漏らした。
縁壱じゃ。肩に人を担いでおる。
産婆の老婆じゃ。白い布をかぶせられ、脚がぶらんと揺れておる。
「遅くなった」
「いや、ええ」
縁壱は、わしを見てすぐに目を細めた。
無言で、わしの拳を見た。
血が、まだ乾ききらんまま、手首からぽたぽたと滴っていた。
次に、わしの肩口。半纏の下でずるりと滑った皮。赤黒い肌が、着物の隙間から覗いとる。
そんで――風向きを変え、すっと山の方角に目を向けた。
そこにあったのは、灰と、焦げた匂い。
ほんのりと残る“あいつ”の残滓。
縁壱は、何も言わん。
ただ、すべてを見た。
「……あったんだね」
それだけ、ぽつりと。
わしは鼻を鳴らした。
「一匹じゃ。けど、気持ち悪ぅて仕方なかった」
「……倒した?」
「灰になってしもうた。朝日に焼けてな」
縁壱がうなずいた。
その顔は、静かじゃったが――目だけが、微かに揺れておった。
「“鬼”だったのか?」
わしは少し黙って、それからゆっくり言うた。
「鬼や。……けど、わしの知っとる鬼とは違う」
産婆が、縁壱の背でもぞもぞと動いた。
「う、うぅ……うう……ここ、なにか気味が悪いわぁ……」
「もうすぐです。すぐに終わりますから」
縁壱が優しく声をかける。
「……タケシさん」
「ん?」
「そいつ、何か言ってたか?」
わしは少し眉をひそめ、思い出す。
男が灰になる直前、確かに言うた。
「“無惨様”……とか、なんとか」
縁壱の眉がぴくりと動いた。
「無惨……?」
「知らん名じゃ。けど、何やおったような気配も残っとった。こいつを造ったやつがおる」
「……気配、まだある?」
わしは鼻をすんと鳴らす。
「薄うなっとるが、消えとらん。あれは……執着の匂いやな。血に染み込んどる」
縁壱は短くうなずいて、それ以上は何も言わんかった。
そして、ふたり並んで歩き出す。
朝日が差し込む山道を、産婆を背負って、足を揃えて、静かに。
言葉は少なかったが、何もかも通じ合っとる気がした。
あいつは“剣を置いた”。
けど、感じ取る力は鈍ってない。今も変わらず、何かが起きれば剣を振れる男じゃ。
「なあ、縁壱」
「うん?」
「おんし……もうすぐ“剣を振るう日”が来るぞ」
縁壱は足を止めず、まっすぐ前を見たまま答えた。
「――知ってる」
風がふたりのあいだを通り抜け、あたたかい陽が庵の屋根を照らしていた。
庵の屋根が見えた頃、産婆が縁壱の背中でうううと呻いた。
「うぅ……こんなに……早く山を越えたのは初めてや……」
「すみません。道中の揺れが……」
「うんにゃ、揺れじゃない。速さが問題や……なんかまだ風の中におる気がするわ……」
わしは笑いをこらえた。
「あんた、それ“風の呼吸”みたいな顔しとるで」
「じいちゃん、笑かすな……吐く……」
庵の戸を開けたとき、ほんの一瞬、空気が止まった。
そこにあったのは、湯気と汗と、そして“命”の匂い。
「縁壱……!」
うたの声が、力なく響いた。
顔は赤く、額に汗が滲み、着物の帯を外して布を被せられている。
「……間に合ったか」
縁壱が、すぐさま産婆を下ろす。
「ふうっ……さて……あんた、夫は外おって!」
「……俺もここに……」
「アホか、女が腹裂けるかもしれん時に男が目ぇ合わせてどうすんの! 出なさい!」
「……わかりました」
産婆の剣幕に押されて、縁壱が戸の外へ出た。
わしも一緒に縁側へ座り込む。
ふたりで背中を並べて、じっと戸の向こうを聞いとる。
「……なあ、じいちゃん」
「言うな言うな」
「……あの子、産まれてくるんだな」
「……そやな」
その時、戸の内からうたの呻きが響いた。
それはただの痛みじゃない。“命が出てくる”音じゃ。
「うっ……はっ……!」
産婆の声が続く。
「よしよし、そのままや! 深う息吸ってぇ……吐いてぇ!」
「くっ……!」
「もうちょいや、顔が見えとる……!」
縁壱の指が小さく震えた。
わしはそれを見んふりしながら、そっと呟いた。
「なあ縁壱」
「……なんだ」
「おんしの中に、桃太郎や田村麻呂と同じ色を見たことがあった」
「……」
「でも、今は……そうじゃねえ」
「……?」
「今のおんしは、ただの“父親”や」
縁壱が、静かに目を閉じた。
そして――その時。
――オギャアアアアアッ!!
空気が震えた。
戸の向こうから、甲高く、力強い産声が響いた。
「おぉ……」
縁壱が戸を押し開けた。
そこには、うたが汗と涙にまみれて横たわり、その腕の中に、小さく、赤く、ぬくもりを持った命があった。
「……女の子や」
産婆が笑う。
「しっかり息しとる。よう産まれたなあ……」
うたが、縁壱に手を伸ばした。
「見て、縁壱さん……わたしたちの、娘……」
縁壱は膝をついて、そっとその額に手を添えた。
「……ありがとう」
声が震えとった。
わしは、縁側からそっと覗き込むように言うた。
「じいちゃんにも、見せてくれや」
「……もう、“じいちゃん”でええです」
うたが笑い、赤子もまた、小さな声で泣いた。
朝の光が、庵の中を満たしていく。
湯気と、木の香りと、柔らかな呼吸と――命の匂いが、そこにあった。
わしはそっと、拳を握った。
守るもんが、また一つ、増えたんじゃな……