闇の奥、ひとしれぬ蔵の最下層。
音も無く灯された炎の揺らぎが、白磁の肌を仄かに照らしていた。
鬼舞辻無惨は、書物を開いたままじっと動かない。
その目は字面を追っていたが、意識はとうに別の場所にあった。
顔は静かだ。平然を装っている。けれど、長い睫の奥の双眸は、わずかに揺れていた。
確かに感じたのだ。
先ほど、ある名もなき鬼――名前も覚えていないような、捨て駒のような存在が、風前の灯の命で絞り出した最後の言葉。
『無惨様』と叫んだ、その刹那に。
何かが、彼の中に入り込んだ。
冷たい熱のようなもの。
焦げた空気が逆流するような、身体の芯に残る不快感。
それは、“感情”ではない。
無惨にとって、“感情”とは他者にこそあるもので、自らに起こるそれは常に理解の及ぶ範疇でなければならなかった。
けれど、これは違った。
名付けようがない。
怒りでもなく、恐怖でもなく、嫌悪とも違う。
――重い。
身体の奥が沈む。
胃のあたりが鈍く締めつけられるような、奇妙な硬直。
意識の片隅が、赤く染まるような錯覚。
「……なぜだ」
無惨は書物を閉じた。
そして立ち上がる。
静かに歩み出たその背後で、書架の灯火がゆらりと揺れた。
鬼である自分に、“圧”を与えるものが、この世に存在するのか。
それは、嘲笑のようであり、宣告のようでもあった。
彼は人間を見下ろしてきた。
柱を切り伏せ、剣士たちを踏み砕いてきた。
感情も信念も、すべてが“弱者の幻想”にすぎないと理解していた。
なのに。
あの時、確かに一瞬――何かに見下ろされていた。
それは、畏怖でも屈辱でもない。
ましてや恐怖ではない。
けれど、“鬼”としてあるまじき違和を、無惨は本能で感じ取っていた。
「……私の鬼ではない、ということか?」
呟いた言葉は、床を撫でて消えた。
タケシという名も、姿も、まだ知らない。
だが、その“気配”が確かに刻まれた。
名も無き鬼を通して、無惨の中に不確かな“色”が差した。
蔵の奥で、無惨は目を細める。
「ならば……壊す。すべてを。私の外にあるものは、不要だ」
声は静かだった。
けれど、その内にあるものは――理解ではなく、理屈を越えた本能的な排除欲だった。
“鬼”という言葉が、いずれ二つに分かれるその予感を、彼はまだ知らない。
————
わしの拳から、血がやっと取れたんは朝飯の後じゃった。
縁側にしゃがみ込んで、手桶の水でゆっくり洗うた。
こびりついた泥と、血と、灰のにおいが、まだ爪の奥に残っとる。
けど、今の空気はあたたかい。
「じいちゃーん」
背後から、小さな声が飛んできた。
「わしはじいちゃんちゃう! ……言うたところで、もう遅いんじゃろな」
振り向くと、ウタが笑うとった。
その腕の中で、小さな顔が眠っとる。
赤い肌。ちっさい拳。鼻の奥に、あたたかい匂いが流れた。
湯気のような、草のような、土のような、どこか懐かしいにおい。
「抱いてみる?」
ウタが言うた。
「……ええんか?」
「父親じゃないけど……この子の“じいちゃん”でしょ」
よう言うてくれるわ。
でもな、わしにはそれが堪らんのよ。
腕を差し出すと、うたが慎重に、そっとわしの腕の中に赤子を預けた。
軽い。
でも重い。
この世に生まれ落ちた命の、すべての意味が、この小ささに詰まっとるような気がした。
「……ちっさいのう」
「ちっさいですね」
「こんなんで、生きていけるんか……」
「いけるように、守ってやらんとですね」
縁壱が、湯を運びながら答えた。
わしの隣に腰を下ろすと、静かに赤子を見つめた。
「なあ、名前は決まったんか?」
「……まだです」
「おんしの娘じゃ。ええ名をつけてやれ」
「はい……そうします」
赤子がむずがった。
小さな手が、わしの着物を掴んだ。
「……おい、わしの皮剥がすなや……」
笑いながら、そっとその手を握り返す。
指が、わしの親指に巻きついた。
握り返された。
「……こら、反則じゃろ。こんなんされたら……もう、なんでもしてまうがな」
うたが笑う。
縁壱も笑う。
わしは、笑いながらも、どこか胸の奥がきゅうっと痛うなった。
わしは鬼じゃ。ほんまは、この子らの側におるべき存在やない。
けど――今はええ。
今この時間だけは、わしも“家族”でおらせてもろうとる。
赤子が、口をぱくぱくさせた。
声にならん鳴き声。何かを伝えようとする、小さな意思。
「……そうかそうか。言いたいことあるんか」
わしは、そっと頬を寄せた。
「なんでも聞くぞ。じいちゃん、全部受け止めたるけぇな」
風が吹いた。
木の葉がそよぎ、庵の屋根をくすぐっていく。
縁側の温もりと、掌の重さと、笑い声と、匂いと――
全部が、ええもんじゃった。
だから、守らにゃいけん。
いつか、こいつが自分の足で立つその日まで。
わしは、鬼のまんまでええ。
その力で、全部を守り通してやる。
小さな命が、わしの胸で、すぅすぅと寝息を立てとった。
——
「……あとは、腹を温めて、ゆっくり寝ることですわ」
産婆が湯飲みを片手に言うと、ウタは静かに頷いた。
「ありがとうございます。ほんまに……よう助けてもろうて」
「うちはただの取り上げ婆ですけぇ。よう産んだのは、あんたです」
「……はい」
庵には、ようやく落ち着いた空気が戻っておった。
赤子は布団のなかでよく眠っとる。
縁壱は縁側で、削った木札に何やら文字を彫っておる。
わしは薪をくべつつ、それをちらと覗いた。
「……名か?」
「はい」
「決まったんか」
「ええ」
縁壱は木札を掲げた。
――「陽(ひなた)」
「ええ名やな」
「……あの子が、生まれてすぐ、朝日を背にして泣いたから」
「おんしらしい、素直な名やのう」
湯気が立ちのぼる。
薪の爆ぜる音。赤子の寝息。うたの眠る気配。
すべてが、静けさの中にあった。
庵の空気は、まだ赤子の体温であたたかかった。
湯を冷まし終えた縁壱が木札に指で「陽」となぞり、そっと窓辺に置く。
うたは布団の中で眠り、赤子も小さな手を丸めて眠っとる。
わしは、囲炉裏の火を見つめながら、ああ、この日常が続けばええ……と、珍しく思うとった。
だが、その時だった。
空気が、変わった。
木々の葉が静止し、虫の声が遠ざかる。
踏みしめる音が、山道の向こうから近づいてきた。
わしは立ち上がり、縁壱も自然と腰を上げる。
やがて姿を見せたのは、一人の男。
羽織の下に道着を着込み、長い太刀を背負っておる。
黄金色の髪を後ろに束ねた面差しは、まだ若いが、火の芯のように凛としとった。
庵の前で立ち止まり、男はまっすぐこちらを見据えた。
「……失礼。煉獄寛寿郎という」
その声は抑制され、丁寧だが、曇りがなかった。
「この山に鬼の匂いが流れた。匂いの源は――お前か?」
わしは眉一つ動かさんまま、答えた。
「昨日、えらい気持ち悪い奴が来た。そいつを殴って、朝まで嬲り倒して灰にしただけじゃ」
「……鬼を?」
「そう聞こえるなら、それでええ」
寛寿郎の目がわずかに細まった。
わしの姿をじっと見る。拳の傷、血のにおい、肩に滲む熱。
その視線は、「何者か」を問うていた。
けれど、わしは何も名乗らん。名乗る意味もない。
「貴殿は……」
寛寿郎が言いかけたその時、
庵の奥から、小さな産声がかすかに響いた。
わしは、そちらをちらりと見やり、そして口元をわずかに緩めた。
「おんしらの言う“鬼”とはちゃう。わしはただ、あの子の寝顔を守りたかっただけじゃ」
寛寿郎の手が、太刀の柄へわずかにかかる。
だが――抜かない。
「……気配が異様だ。人とは……根が違う」
「ほうか」
ふたりの間に、緊張がひとしきり張り詰めて。
けれど、それを裂いたのは、また赤子の小さな泣き声だった。
寛寿郎のまなざしが、戸の奥に揺れた。
「人の子か」
「ああ。よう泣いて、よう握ってくる。目が開いたらまた笑うとる」
しばらくの沈黙。
そして、寛寿郎は手を柄から離した。
「……人を守る拳なら、俺の剣と敵対するものではない」
「賢い剣士じゃのう。若いのに」
わしは笑った。
寛寿郎もほんのわずかに口元を緩めた。すぐに引き締めたが、それでも確かに笑うとった。
「俺は、この“異様”を忘れん。もし、この地にまた鬼が現れるなら――また来る」
「来るなら、団子くらいは用意しといてやるわ」
寛寿郎は一礼し、山道へと戻っていった。
わしはその背を見送る。
「……剣の血筋が、またひとつ伸びていきそうじゃな」
縁壱が、静かに庵の戸を閉めた。
中から、また赤子の笑い声が、小さく聞こえた