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朝霧が、山の木々の隙間をゆっくりと漂っていた。
庵の裏手、開けた平地に、ふたつの影が立っている。
一本の棒を構える縁壱と、腕組みでそれを見つめるわし――タケシ。
「……始めますか」
「うむ」
わしらの稽古が再開されたのは、陽の産声から十日ほどが経ったころだった。
産婆の教えどおり、うたの身体も落ち着いてきて、陽も日に日によく笑うようになってきた。
庵には笑い声が戻り、柔らかい光が満ちていた。
――けど、縁壱の目からは、あの芯の色が褪せとらんかった。
「父になったからこそ、俺はもっと強くなりたい」
そう言ったときの目は、十年前と変わらなんだ。
こいつは、変わらん。
ただ剣を振るうためやなく、“守る”ために強くなる。それだけを見とる。
「ほな、始めよか。いっぺん気合い入れ直さにゃ、拳が鈍るわ」
縁壱が木剣を構える。わしは、拳を握った。
互いに踏み込みもせず、静かな間合いのなかで見合う。
山鳴りが遠くで響く――その一瞬後。
地を蹴ったのは縁壱だった。
速い。
下手な鬼なら、影も見えん。
だが、わしの眼は見逃さん。風を裂く足音、身体の軸、次の動作の“気配”まで、まるで読めるように感じる。
「ほら!」
わしは腕を振る。横なぐりの一撃。
縁壱がその下を潜る。すれ違いざま、木剣がわしの肘を狙う。
が、間に合わん。わしの膝が、縁壱の足元を払うように走った。
縁壱は踏み込まず、空を跳ぶ。
身を翻し、着地と同時に反撃。鋭い突きが喉をかすめる。
「ええなあ」
わしは笑うた。
拳と木剣がぶつかり、爆ぜるような音が山に響く。
縁壱の動きに迷いはない。
けれど、技が鋭くなった分、わずかな“人間らしさ”も見えるようになった。
――守るべきものができた者の戦い。
それは強さやけど、同時に隙でもある。
けど、それも含めてこいつの“剣”なんじゃ。
「ほいっ!」
「っく!」
わしの突き出した掌が縁壱の肩口を捉えた。
だが、当たる寸前で縁壱が自ら倒れ込むように姿勢を崩し、転がって間合いを外した。
「おお、よう回避したな」
「……なんとか」
肩で息をしながら立ち上がる。
わしも、腕を軽くぶらつかせて息を整える。
「にしても……動きの鋭さ、さらに増しとるのう」
「子を持つと、無駄に死ねなくなる。身体がそう言ってる」
「そりゃええが……なんぞ、おんしの“技”は剣士っぽうない動きやな」
「……参考にしてるから」
縁壱が、微かに笑うた。
「タケシさんの動きは……人間には到底真似できない。でも、理はある。それを“形”にできたら、きっと誰かの助けになる」
「――は?」
「だから、今……俺なりに、考えてるんです」
縁壱の目は、剣を越えたところを見とる。
わしの拳――鬼の膂力、その動きを、人の技へと落とし込もうとしとる。
「……おんし、なんかすごいもんを始めようとしとらんか?」
「すごいものじゃなく、使えるものにしたい。いつか、誰でも“守れる力”を持てるように」
わしは思わず笑うた。
「ほんま、おんしはそういうとこ変わらんのう。鬼と遊んどった頃から、筋が一本、通っとるわ」
縁壱は恥ずかしそうに木剣を振った。
「そろそろ、戻りますか。陽が起きる前に」
「そやな。わしも“じいちゃん”って呼ばれるんが待ち遠しいけえの」
ふたりして、笑いながら道を戻る。
霧が晴れて、朝日が山の端を照らし始めていた。
それから更に十日後——
霧が晴れ、空が澄んだ朝じゃった。
十日前と同じように、わしと縁壱は山の平地に立っとった。静かな鍛錬の時間。拳と木剣。互いの間合いに、風と鳥の声しか混じらん。
「今日もよろしくお願いします」
「はいよ。今日こそは転ばしたるけぇの」
いつもの軽口。
いつもの始まり――のはずじゃった。
だが、その日。わしは、初めて“縁壱が怖い”と思うた。
開始の合図もなく、縁壱が踏み込んだ。
その瞬間、風が抜けた。
ただの踏み込みじゃない。
肺が膨らみ、全身の骨と筋が軋むほどに連動しておる。
吸って、張って、走る。まるで“太陽”をその身に宿すかのように、爆発する“熱”が全身から放たれとった。
「うおっ……」
わしが拳を振るうより先に、縁壱の木剣が眼前にあった。
かすめるだけで空が裂けたような錯覚。避けたはずの頬が、ほんのわずかに焼ける。
そのまま、続けざまにもう一撃。
わしは飛び退き、膝で土を踏みしめて距離を取る。
「……おんし、今、何した?」
縁壱は静かに、深く息を吸った。
「――呼吸です。力を“人の限界”の奥に届かせるための、形」
呼吸。
ただの吸吐じゃない。
身体を満たし、膨らませ、使いきる動き。
まるで、内なる太陽を巡らせるような、それは……
ああ、思い出した。
桃太郎や田村麻呂をも上回る、圧倒的な“輝き”。
それは、太古の昔――岩戸の奥で笑う女神、剣を振るい嵐を裂く男神、あの神々の気配じゃ。
わしの背がぞわりと震えた。
拳を構えた手が、自然とわずかに後退しとった。
「……ほんまに、なんなんじゃ、おんし……」
縁壱は、すっと木剣を下ろす。
「これが“使える”ものになるなら……いずれ、誰かを守れるはず」
「……もう、おんしが鬼でも倒せるな」
わしがそう言うた、その瞬間――
「おぎゃああああああ!!」
庵の方角から、遠慮なく響く赤子の泣き声!
ふたりして、ぴしりと動きを止めた。
顔を見合わせた。
「陽や!」
「なんか知らんけど陽や!」
木剣を投げ出し、わしと縁壱は慌てて走り出す。
「ほらまた泣いとる! 腹か!? 腹が減っとるんか!?」
「いや、昼はさっき飲ませたばっかりや!」
「寒いんか!? 服脱がしすぎたか!?」
「タケシさん、それ俺の羽織です!」
「ぬうっ!?」
わちゃわちゃと庵に飛び込むと、布団のなかで陽が元気よく足をばたつかせとる。
泣いとるが、顔色はええ。ぴんぴんしとる。
「……あー……うん」
「……たぶん、かまってほしかっただけですかね」
「なんなんじゃこの小さい奴は……」
陽の小さな手が、縁壱の指を掴む。
次いで、わしの頬をぱしぱしと叩く。
「痛いっ……あ、いや、ええよ。もっと叩け」
「タケシさん、顔が崩れてますよ」
ふたりで赤子を囲んで、笑うた。
ついさっきまでの“太陽の剣”も、ここではただの話の種じゃ。
平穏が戻った。
それが、どれだけ奇跡的なことか――わしらは、よく分かっとる。
だからこそ、守らにゃならん。
この小さな命が、いつか、自分の足で歩くその日まで。
そして縁壱は遂に———
庵の裏にある小さな岩棚に、縁壱が腰をかけていた。手には木板。足元には炭と灰で描いた粗い線と記号。
「……息を深く、身体の端々まで通す。それで動きが一段階上がる。でも、なぜかは分からない」
「……どうせおんしのことじゃ、“分かりたい”んじゃろ」
「はい。“できる”だけじゃ、誰にも伝えられないから」
わしは火の番をしながら、それを聞いていた。縁壱の筆先は、今も炭を握ったまま、木板に何やら図を描いている。骨の位置。筋の走り。呼吸と動きの連動。
「“息を吸えば速くなる”なんて話、わしの時代にはなかったで。殴れば速く、踏めば強く。それだけじゃった」
「でも、動きはある。“強い鬼”の動きに理があるなら、それを人間に落とせるかもしれない」
「おんし、ほんまに“それ”を人に教えようと思うとるんか」
縁壱は黙って頷いた。
「……すげぇのう」わしは小さく呟いた。「その考えが出る時点で、わしにはない発想じゃ」
目を閉じれば、過去が浮かぶ。
天岩戸の奥に籠もった光の女神。恐ろしい力と慈しみを併せ持ち、他を引き寄せてしまう。荒ぶる海の神、剣の神、炎の神。わしはそれらの“本物”と、かつて向き合ってきた。
縁壱の気配は、あの神々とよう似とる。
人の形をして、誰より人らしく、けれどその奥に人間の器をはみ出す“何か”を宿しとる。
「なあ、縁壱」わしは言うた。「おんし、もう神になってまうんちゃうか?」
縁壱は筆を止めた。「……なりませんよ、そんなもの」
「わしから見りゃ、もう片足突っ込んどるように見えるわ」
「神になったら、笑えなくなると思う。泣くのも難しくなる。陽が泣いて、ウタが笑って……それを見て笑える自分のままでいたいです」
「……ほう」
わしは火を見つめた。薪が、ぱちりと音を立ててはぜた。
その火と、縁壱の背中が、同じくらいあったかくて、同じくらい遠かった。
人がここまで登れるもんなんじゃろうか。鬼でも神でもない。ただ“人”で、こんなにも強く、優しくなれるんか。
わしは、拳を膝に置いて握った。
「なあ、縁壱」
「はい」
「おんしが神になりたくないなら、せめて“守る者”として立ってくれや。今のおんしには、それができる」
縁壱は、微かに頷いた。そして木板に再び文字を走らせながら、静かに呟いた。
「じゃあ、俺の“呼吸”は……人を守るための“日の形”にします」
その言葉が、空にしみ込んでいく。
日の呼吸――その最初の名前が、ここに落とされた瞬間やった。
人化の術(じんかのじゅつ)
──古の世に在りし、異形なる者どもが“人”の姿を得た、哀しき恩寵。
かつて、この地には“かたち持たぬ者”たちが彷徨っていた。
血と鉄の渦より生まれ、名も魂も持たぬ、ただ力だけの存在。
その異形が、ある日ひとつの願いを抱いた。
「人に、なりたい」――
それを憐れんだ古の神がひとつ、術を遺したという。
“人化の術”と呼ばれたそれは、真なる変身ではなく、ただの“模倣”に過ぎぬ。
肌は仮初め、声は写し、鼓動すら真似るもの。
だが、“心”だけは宿さぬまま――
しかもその装いは、粗雑にして繊細。
強き感情に触れれば剥がれ落ち、戦の熱に晒されればあっけなく破れるという。
それでも、彼らはその姿を纏い、ひとの群れに紛れた。
生きることを選び、喰らわぬことを学び、
己の名を持たぬまま、“誰か”として在り続けた。
いつしか人々は彼らをこう呼んだ。
「人に似たるもの」「まことの鬼神」「ひとの影」――
だが彼らが何者であったのかを、今に知る者は、もういない。