評価、感想ありがとうございます。
ちょっと短いので先に出しました。
強調文なんですが、多分直ってると思います…多分。
庵の外で、風が止まった。
――ピタリ、と言うべきだった。
風そのものが、まるで“掴まれた”ように、空気が固まったのだ。
夜気が澱む。
音のない圧が、木々の隙間から這い寄ってくる。
わしは囲炉裏の火をくべる手を止め、静かに拳を握った。皮膚が音を立てて軋む。指の節々が熱を帯びていく。
「来るぞ」
「……はい」
縁壱は既に、庵の中央で息を整えていた。深く吸い込み、足元の畳に吸いつくように重心を落とす。
陽が、まだ寝とる。
その寝息が、まるで灯火のように庵の空気を守っている。小さな命を震わせないよう、外から何かが“触れて”きた。
ギィ……。
庵の戸が、ごくわずかに軋んだ。
叩かれたのではない。開けられていない。けれど、“押された”。
「おい……そこまで来とんのか」
わしは縁壱に目をやる。あいつは頷きもしない。ただ、目を閉じたまま集中しとった。
「触れてきてる。指先で庵の“内と外”の境を確かめてる」
「においが、濃くなった。腐ったような、生ぐささじゃない。もっと、深く……土の底の匂いや」
「来ます」
その言葉と同時だった。
戸の木板が、わずかに“沈んだ”。
指が、そこにあった。
ぬらりと、濡れた何かが戸の隙間をなぞっていた。
音を立てず、まるで庵の呼吸に同調するかのように、じわりと気配が染み込んでくる。
「……不気味な真似を」
わしはゆっくりと立ち上がる。縁壱も、それに合わせるように静かに歩を進める。
二人の気配が戸の前で交差した。
「出るぞ」
「陽を、頼みます」
「任せとけ」
縁壱が、そっと戸に手をかける。
そこに、まだ“指”があった。木をなぞり、庵の温度を探るような、意志を持った動き。
「……よう気持ち悪いな、こいつは」
縁壱が、すっと指を動かし、戸を一気に引いた。
風が吹き込む。
月光の下に、ひとつの影が立っていた。
それは人の形をしていた。だが、目が爛々と濡れていた。光を呑み込むような深い黒。口元は引き攣り、笑っていた。
「こんばんは」
鬼は、まるで旅人でもあるかのように言った。
「山道で迷いましてね。温かい火の気配がしたもので……ちょっと、寄らせていただけないかと」
その声は、耳ではなく骨に響いた。生き物が発する“言葉”ではない。
音として、意味を成しているだけの“喉の動作”だった。
縁壱は何も答えず、ただ、その場に立ったまま気配を殺していた。
わしは、にじり出るように戸口に立つ。
「悪いが、満席じゃ。帰ってくれんか」
鬼はぴくりと片眉を上げた。視線が庵の奥へと向く。陽の寝息が聞こえたか、鼻がぴくりと動いた。
「……ああ。なるほど。人の匂いだ。ちいさな、あったかい……」
わしの額が、かすかに熱を帯びた。
「おんし」
「はい?」
「入んなや」
言葉と同時に、わしの拳が動いた。
戸口の柱を擦り、鬼の頬をかすめたその一撃は、空気ごと夜を叩きつけるような熱を孕んでいた。
鬼は、ひゅうと息を呑み、にたりと笑った。
「……なるほど。なるほど……面白い家族だ。今夜は、匂いだけにしておきましょう」
そう言い残し、鬼は一歩、森の闇へと引いた。
消えるのではない。潜った。
大地に、闇に、風に――まるで溶け込むように姿を霞ませる。
わしと縁壱は、すぐに追わなかった。
「……これは、引いたんやないな」
「はい。試しただけです。“夜の入口”を、指でなぞっただけ」
わしは拳を下ろし、振り返る。
庵の奥で、陽が小さく身を丸めて、寝返りを打った。
夜が開いた。