フレッチャーの別れと出会いの物語。

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嘘つきのあなたへ

 

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「フレッチャー」

 まだ青年と言っていい年齢の司令官は静かに駆逐艦の名を呼んだ。その声には諦めと、焦りと、そして愛しさが込められていたように聞こえた。

「提督」

 駆逐艦は応えた。長い金色の髪とアメジスト色の瞳。フレッチャー級一番艦、フレッチャー。日本に派遣された合衆国の艦娘、その一隻。

 夜の執務室。窓に月が浮かんでいる。月の光を、輸送機の影がエンジンの轟音とともに遮った。窓の外のエンジン音が聞こえなくなるまで、二人は何も言わなかった。

 やがて、司令官が口を開いた。

「これは司令官としての命令だ。――合衆国へ帰還せよ」

 今日、別の鎮守府が核攻撃を受けた。敵の宣戦布告と同時に戦術核で何もかもが灼き払われ、吹き飛ばされた。無論、その鎮守府に所属していた艦娘と司令官も。

 敵は明確に艦娘を擁する鎮守府を危険視していた。核兵器を用いるという暴力的極まりない手段を使ってでも排除しようとした。

 政府と軍の決定は迅速だった。残された艦娘を護るため、敵の核誘導弾が届かない合衆国本土へ彼女たちを移送する。戦艦から補助艦まで、即日合衆国へ飛ぶ輸送機に乗せられることになった。

 攻撃を受けていない各鎮守府の艦娘たちは身一つで輸送機に乗せられていった。残される人々との別れも許されなかった。

 だから――司令官とフレッチャーの別れは、そんな中で起きた小さな奇跡だった。

「どうしてですか……提督、どうしてわたくしはここにいてはいけないのですか?」

「君が艦娘だから。それだけだ」

 司令官は突き放すためにそう言ったのかもしれない。だが、彼の瞳はどこまでも哀しそうで、優しかった。

「フレッチャー、君は合衆国の艦娘だろう。なら、無理をしてここにとどまる必要はない。合衆国の、君の故郷のためにも戻るんだ」

 司令官はフレッチャーの両肩を掴み、諭した。それは本心だっただろう。ここにとどまれば、恐らく無事では済まない。この鎮守府は明日にでも核攻撃の対象となるかもしれない。

 だが、フレッチャーは首を縦に振らなかった。アメジスト色の瞳から涙を零し、叫ぶように彼女は司令官の命令を、願いを拒絶した。

「わたくしは確かにステイツの艦娘です。でも、わたくしの任務は、第一にこの鎮守府の艦娘であることです!」

 やがて、執務室に静寂が訪れた。隣接する航空基地で進められている、脱出準備の喧噪など聞こえてこなかった。

「……この鎮守府は解体されるんだ。明日にも。艦娘のいない鎮守府には何の存在意義もない」

 フレッチャーにとって、この鎮守府は思い出の場所だった。他の合衆国艦娘(フリートガールズ)とともに鎮守府へ降り立ったあの日。戦い、泣き、歌い、そして笑い合った日々。そして――司令官と恋に落ちたあの日。

 戦争さえ終われば、彼と穏やかに暮らせるようになるというフレッチャーの淡い希望と夢は、一発の核誘導弾が打ち砕いた。

 戦争は、終わらなかった。

「あなたがいない世界は、わたくしにとって何の意味もない世界です」

 司令官の両手をほどき、フレッチャーは司令官に抱きついた。彼の胸に頬をすり寄せ、そっと耳を当てる。聞こえる鼓動。艦娘である彼女のものとは少しだけ違う音。それを聞けなくなることは、フレッチャーにとって耐えられることではなかった。

「いやです、あなたと離れたくない……」

 涙を流したまま、懇願するようにフレッチャーは囁いた。彼と別れたくなかった。この鎮守府にとどまりたかった。

「……ごめん、フレッチャー……」

 そっと、壊れ物を扱うように司令官の両腕がフレッチャーを抱きしめた。

 フレッチャーは嗚咽をおさえられなかった。このまま彼と一緒に灼かれ、吹き飛ばされてもよかった。一緒に死んでくれと彼に言って欲しかった。

「このまま一緒にいることはできないけど……」

 司令官の両腕に力が込められた。フレッチャーは泣き顔を彼の胸に埋めて、彼のことばを待った。

 

 

*

 

 

 世界が滅亡しかねない戦争があった。海から現れた謎の勢力――深海棲艦と人類が繰り広げた絶滅戦争。後世に深海戦争と呼ばれた戦役である。

 深海戦争の主役となったのは、かつて海上にあった艦船の魂と名を受け継いだ艦娘と呼ばれる存在だった。圧倒的な物量で圧してくる深海棲艦を相手に、彼女たちは粘り強く戦い抜いた。

 そして、深海戦争は二〇三〇年に終結した。だが、人類の戦争状態は二〇三四年まで継続されている。

 ――深海棲艦の駆逐が完了するその前に、人類同士の戦争が始まったためだった。海洋国家群が主導する地球連邦と、大陸国家群が掌握した国際連合。深海との戦いのために団結したはずの人類は、二つに分かれて戦い始めたのである。

 連邦軍と国連軍が最強の戦力とした兵器が二つあった。一つは核弾頭。そして、もう一つが艦娘だった。

 

 

*

 

 

「……一度だけ、俺はみんなを裏切る」

「提督……?」

「君だけを特別扱いする、依怙贔屓する」

 フレッチャーの背中を優しく叩き、彼女を離した司令官は、執務机の上にある館内電話、その受話器を取った。

「俺だ。明石、五番船渠を開放しておいてくれ。面倒をかけるが……すまない。これが最後の連絡だ。どうか元気で」

 五番船渠(ドック)。フレッチャーは不思議に思った。鎮守府の船渠は四番までしかなかったはず。五番船渠など見たことがない。受話器をそっと置く司令官。窓の向こうから、また輸送機のエンジン音が聞こえてきていた。

「行こう、フレッチャー」

 握られるフレッチャーの手。手袋越しに感じた司令官の掌は、温かかった。

 窓を震わせるエンジン音の中、二人は執務室を後にした。

 普段であれば男子禁制の船渠棟、その中をフレッチャーと司令官は歩いていった。もう使用されることがないと判断されたためか、船渠棟の電源はすべて落とされている。暗闇の中を小さな懐中電灯の灯りだけで進む司令官。彼の左手を握るフレッチャー。以前はあれほど賑やかだった船渠棟は、まるで廃墟のようだった。

 そしてフレッチャーは気付いた。船渠が並ぶ「風呂場」の床、その一部が水密扉のように開いていたことに。司令官に手を引かれ、フレッチャーはハッチの向こうにあった階段を下っていった。地下へ深く、深く。

 まるで(ニュークリア)シェルターのよう、とフレッチャーが思ったとき、司令官の足が止まった。

「提督……?」

「このまま一緒にいることはできないけど……」

 同じことばを繰り返し、司令官は何かに手を触れた。甲高い起動音とともに、周囲を電灯が照らした。

 そこには船渠があった。艦娘が損傷を修復する船渠と形はほぼ同じだが、透明なキャノピーが備えられている。何かを船渠に封じ込めるために。

「五番船渠。艦娘をモスボールしておくために造られたカプセル。この中で眠っていれば、無事でいられる」

 司令官が振り返った。フレッチャーははっとして息を呑んだ。

「……この中に、わたくしを……?」

「これしかないんだ。核で吹き飛ばされることもないし、人間同士の戦争に駆り出されることもない。君を護ってやれるのは、俺じゃなくてこの船渠なんだ」

 いつしか、司令官の頬を涙が伝っていた。フレッチャーにもわかった。彼は、たった一つ残された手段でフレッチャーを護ろうとしていたのだ。

 ――戦争が本当に終わった、その時のために。

「ここで待っていてくれ。すべてが終わったら、迎えに来る」

 必死に涙を止めようとしている司令官に歩み寄り、フレッチャーは背伸びした。彼の首に腕を回し、涙を唇で拭う。

「……わかりました」

 微笑みながら、フレッチャーは司令官の願いを今度は受け入れた。恋人のことばを素直に信じた。恋人の特別扱いを信じた。

 衣服と装備をすべて脱いだ、一糸まとわぬフレッチャーが船渠に身体を横たえた。冷たい金属の感触。

 彼女の顔を司令官が覗き込んだ。これから少しの間だけ眠ることになる。その前に、フレッチャーは司令官の顔を両手でそっと寄せて、口づけた。

「待っています、提督」

「ああ……おやすみ、フレッチャー」

 司令官が離れ、キャノピーが閉じられる。透明な樹脂の向こうに見える愛しいひとの姿。

 もう一度だけ彼に微笑み、フレッチャーは瞳を閉じた。急速冷却の音が聞こえた。

 何か冷たい液体を感じた瞬間、フレッチャーの意識は遠い世界に連れ去られた。

 

 

*

 

 

 夢を見ていた。

 戦争が終わり、彼は軍を除隊して、フレッチャーも除籍された。

 どこか海沿いの街で暮らし始め、小さいながらも家を持ち、二人の間に子供も産まれた。

 穏やかに、静かに、家族となった二人は生き続けていく。

 そんな、夢を見ていた。

 

 

*

 

 

 何か音が聞こえる。水が流れていくような音。彼女を包んでいた冷たい水がどこかにこぼれ落ちていく音。

 生きている、そんな感覚がある。身体が賦活していく感覚がある。

 「――あ」

 重い瞼を開けて、フレッチャーは光を見た。眩しい。眩しい光。

 まだ焦点の合わない視線の向こうでキャノピーが開いた。温かい空気が流れ込んでくる。

 その向こうに、誰かが立っていた。誰だろう。どこかぼんやりした意識の中で、フレッチャーは思い出した。

『すべてが終わったら、迎えに来る』

 ――そう、ここで彼女が眠っていることを知っているのはただ一人だけ。彼女の恋人だけ。

「……提督……?」

 意識が覚めていく。身体が重さをなくしていく。裸のままのフレッチャーは上体を起こした。濡れた長い髪が肌に貼り付く。

「……提督?」

 よく知っている顔があった。そう、彼女の愛する司令官の顔だった。

 でも、どうしてそんなに驚いているんだろう。どうして戦闘服装(バトルドレス)なんて着ているんだろう。

「提督……!」

 身体が意識より先に動き、フレッチャーは彼を抱きしめていた。ほんの少しだけ眠っていた実感しかない。だが、彼はフレッチャーを迎えに来てくれた。きっと戦争は終わったのだろう。これからは彼と一緒にいられるのだろう。

「あっ、あの……」

 彼は明らかに動揺していた。フレッチャーのことなど知らないというように。

 そしてフレッチャーは気付いた。彼女の知っている司令官より、少しだけ背が低い。顔が若い。

 時間を遡った? そんなはずはない――

「あなたは……?」

 抱きしめる腕をほどかないまま、フレッチャーはそう問いかけた。

 この人は、提督じゃない。そんな予感がした。

「あの、その……ふ、服を着てもらえませんか!?」

 赤面する彼。

 予感は、確信に変わった。

 

 

*

 

 

 青い服と装備で身を包み、フレッチャーは自らの手を見つめた。艤装を装着できる感覚がある。まだ、自分は艦娘のままだ。

 そして視線を持ち上げた。そこにいる、司令官によく似た青年。服を着たフレッチャーを認めて、ようやくこちらを向いた。

「……本当に眠っているとは思いませんでした」

 そう言って、青年は視線を少しだけ逸らした。何か決心したように視線をフレッチャーに戻し、名乗った。司令官とよく似た日本語の響き。だが、司令官の名ではなかった。

「えっと、フレッチャーさんが知っている人は、僕の祖父です。祖父は、国防海軍で艦娘を指揮していたと聞いています」

 フレッチャーは何を言われたのか、すぐにはわからなかった。理解できなかった。

「あの、あなた方が深海棲艦と戦った戦争から……もう四十五年経っています」

 四十五年。ほんの少しだけ眠っていたと思っていたのに。フレッチャーはそれが事実とは思えなかった。

 いや、それよりも――さっき青年は司令官を「祖父」と呼んだ。祖父ということは。

「……提督は、誰かと……」

 彼は、フレッチャーを迎えにきてくれなかった。彼女が眠っている間に誰かと結ばれ、子供をもうけた。そして、その血を受け継いだ青年が、第五船渠の封印を解いた。

 わたくしは、見捨てられた。忘れられた。

 信じられなかった。信じたくなかった。自分ではない誰かと司令官が結ばれたなんて――

「この場所を、祖父から聞きました。自分が死んだら、あの子を迎えにいってほしいと」

 青年はポケットから白い封筒を取り出し、おずおずとフレッチャーに手渡した。震える手で受け取るフレッチャー。

 中には一通の手紙が収められていた。見覚えのある文字。日本語ではなく、英語で書かれたその手紙には、ただ謝罪のことばが綴られていた。許してくれ。許してくれ。そう何度も。

 ――フレッチャーが眠りについてから、人類同士の戦争は四年で終結した。司令官たちはかろうじて勝利し、世界はようやく静けさを取り戻した。

 司令官は海を渡り、合衆国で艦娘を指揮していた。戦争の中で、彼を支えてくれる女性が現れた。フレッチャーのことを忘れたわけではなかった。ただ、寂しかった。苦しかった。それから逃れたかった。だから、その女性と結ばれた。そして子供が産まれ、終戦を迎えた。

 もう、あの頃には戻れなかった。幸せに生きているようで、ずっとフレッチャーのことを後悔し続けていた。

 手紙を読み進めていくと、文字が少しずつ歪んでいった。震えながらこの手紙を書いていたのだろう。きっと、彼は激しく後悔していたのだろう。

「提督……」

 不思議と涙は出てこなかった。ただ、悲しかった。彼のことを憎いとは思わなかった。名前も知らない誰かに嫉妬することもなかった。世界に自分だけ取り残されたような孤独感だけがあった。

 

 

*

 

 

 フレッチャーは青年に連れ出され、四十五年ぶりに空の下へ出た。少しだけ暖かい風が彼女の頬をくすぐる。季節は春だった。

「ここに鎮守府がありました」

 司令官、そして父に続いて自らも国防海軍に入隊したという青年は、夕暮れの陽光に照らされた広い敷地を見渡した。なんの建物もない。ただの跡地だった。

「もうすぐここに、再び海軍基地が造られます。その前にフレッチャーさんを迎えに来られてよかった」

 司令官と仲間、そしてフレッチャーがいた鎮守府は何も残されていなかった。オレンジ色にきらめく海を彼女は見遣った。一隻の貨物船が航行していた。

「……お願いがあります」

 フレッチャーは、静かに口を開いた。

「提督が眠っているところへ、連れて行ってもらえませんか」

 青年は少しだけ逡巡したようだが、やがて、頷いた。

 数日後、二人は鎮守府があった街から少し離れた丘、その上にある墓地にいた。せめて鎮守府の、フレッチャーの近くに骨を収めてほしいと司令官は生前に言い残していたそうだった。

 春。穏やかに晴れた日。たくさんの桜が咲いている。

 黒い常装と軍帽姿の青年が、墓碑に向かって敬礼した。フレッチャーはそっと白い花束を置き、瞳を閉じて両手を組んだ。

「嘘つきの提督。わたくしはあなたを許してあげません」

 祈りのことばのあと、フレッチャーは優しくそう呟いた。

「わたくしの中では、あなたはずっとあの姿のままです。英雄だなんて認めてあげません。……だから」

 フレッチャーの視界がわずかに歪む。やっと、やっと涙が流れた。やっと受け止めることができた。

「だから、罰としてわたくしを見守ってください。ずっと……」

「フレッチャーさん……」

 泣きながら立ち上がったフレッチャーは青年を見た。悲しそうに微笑む青年。その顔が、司令官に重なって見えた。

 フレッチャーは青年に抱きしめられた。彼女は、その腕をほどこうとは思わなかった。

「ごめんなさい。僕は、こうする以外に慰め方を知りません」

「ふふっ、不器用なところはあの人にそっくりです……」

 フレッチャーは青年の腕の中で泣き続けた。ただ、桜の花だけが風に揺れていた。

 

 

*

 

 

 墓地から戻る車の中で、フレッチャーは青年に問いかけられた。

「フレッチャーさん、これからどうします?」

「そうですね……」

 もう艦娘として戦うことはない。海軍に関わる必要もない。

 一人の少女として静かに生きていければ。そう思うので精一杯だった。

「あの、僕、官舎じゃない家を借りてるんです。よければ、部屋を貸しますが……」

 それは、祖父に代わっての小さな罪滅ぼしだったのかもしれない。フレッチャーはアメジスト色の瞳をしばたたかせた。まだ、この青年のことをよくは知らない。

 でも、この世界でたった一人になってしまった彼女にとって、司令官の孫であるこの青年だけがただ一人の頼れる人だった。

「……では、ご厄介になります。そう、Pancakeを作らせてもらえますか? わたくし、ちょっとしたものなんですよ」

 

 

 四十五年前を最後にして、フレッチャーと呼ばれた艦娘の行方は一切の記録に残されていない。

 ただ、国防海軍に所属する一人の少尉だけが、彼女の居場所を知っていた。

 人間としての生を得て、静かに暮らし続ける彼女の居場所を。

 

 


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