そこは、地下に沈められた、石と鉄の囲い。
ただ戦うためだけに用意された、闘技場と呼ぶべきもの。
光も、風の通いも拒絶された空間。息を潜めるにはあまりに濃密な熱が、場の低層に淀んでいた。
そこに並ぶ者たちの数は、六十余り。
その誰一人として、視線を交えず、言葉を交わそうとすらしない。だが、その静寂は決して沈黙などではなかった。
すでに飽和している。敵意という名の、見えざる手。
それぞれが己の立つべき場所を測りつつ、明確な線引きなど持たないまま、ただ配置されている。
東方の軍礼を思わせる裾の長い上衣、肩口に施された絹の刺繍。
漆黒の、戦装束とすら呼べぬほどの喪服に似た揃い。
遠き寒冷地の装いに酷似した、毛皮の詰襟と銀釦の群れ。
そして、舞踏会の帰りにでも迷い込んだかのような、裳裾の長い白の礼服。
あまりに整いすぎたその服装の数々が、かえって場の異様さを際立たせる。
誰もが異なる時代、異なる空間から連れてこられたかのように。
しかし共通するものが、一つだけある。
頭上にぴんと立つ、白い兎の耳。あるいは灰、或いは煤けた墨色。
それらを、ただ二本そろって保持し続けていること。
奪われれば、その時点で、この場所から追い出される定め。
耳を奪うのは、刀でも、刃でもない。指先。
肌のぬくもりと、関節のきしみによる捕縛。
ここでは振り上げられる拳ではなく、静かに伸びる指こそが、最も鮮烈な武器となる。
彼女――場の隅、柱の影に位置取り、誰とも目を合わせない一体もまた、兎耳の少女。
踵は擦れ、脱色しかけた黒布の羽織、そして左右異なる布地で繕われた袴を羽織っている。
おそらくどこかの路地裏、細い隙間の暗渠を行き来しながら、ただ抜いてきたのだろう。幾度も。掌で。耳を。
態勢は戦意などというものには縁遠く、燃えるような情動はそこに見られない。
ただ、条件反射のように。
抜くという行為、それそのものを目的としている者。
緩やかに、壁に寄りかかりながら、片膝を立てる。
目線は低く、けれど周囲を確実に測っている。
耳は僅かに傾き、誰の気配に反応するでもなく、どこか無関心を保っていた。
場は、静謐と緊張とを拮抗させながら、重ねた層のように時を塗り潰していた。
音なきざわめきがあるとするなら、それはまさにこの場に漂うもの。
空気の流れすら存在しないのに、どこかが擦れ、軋み、膨張し続けている。
天井には煤けた鋼板。鉄錆が無数の星のように散らばって、
かつてそこに灯があったことを思わせる痕跡が残る。
闘技場の中央、亀裂の走る硝子板には円形の溝が彫られていた。
その意味を誰も問わず、知ろうとせず。
その中に立つことが、ただ一つの帰路となるという了解だけが、一同に共有されている。
共有されたのは、立つことの意義だけではなく。
銅色に鈍く染まる角の徽章、それを掲げた者のみが、次なる門へ進む権を得るということ。
"銀"。より深く、より高いもの。
その辺縁には、既に他者の気配を察知し、指をかすかに鳴らす者。
床に座し、正面から目を外さぬ者。
靴音すら立てぬように足を引いて、壁際をなぞる者。
そして、耳。
あまりにも、それは露わで、無防備で、剥き出しで。
されど、意図して晒されている。
抜かれるために、ではなく。
誘うために。
一部の少女たちは、すでに互いを「始まり」として選びかけていた。
けれど、誰ひとりとして、最初の一歩を踏み出さない。
その一歩が、この均衡を裂くものであることを、誰よりも自覚しているから。
そこに、音。
闘技場の最奥。鉄に囲まれた扉の向こう。
誰も寄りつかない暗がりより、それは規則的に響いてきた。
ひとつ、またひとつ。
鈍く、固く、沈むような反響をもって。
まるで石を打つ金属靴。あるいは、機構が何かを運ぶときの音。
足音。
それも、人のものとは思えぬ重みと節度を纏って。
音は、遠ざかることなく、緩やかに近づいていた。
あまりにも確かに、場の誰もがそれを耳で捉えているというのに、
誰もその方向を見ようとはしない。
見れば、始まってしまう。
否応もなく。
次へ、進んでしまう。
ただその場に在るという選択すら、もう許されぬ気配が、
その足音の律動に含まれていた。
そして、その音が、ひときわ大きく、床の石を軋ませながら、明確に場の境界へと踏み込んだ。
終わりつつある沈黙。
そして、破られる均衡の兆し。
足音は、やがて門の前にて静止した。
その一瞬の沈黙が、場の全てを凍らせる。
すぐに、鉄が擦れる音。
扉が内へ向けて開くのではなく、左右に裂かれる。
まるで誰かの意志など介さぬような、定められた機構。
そこから現れたのは、明らかにこの場の者たちとは異質な存在だった。
その足取りには一切の迷いがなく、地を踏むたびに、乾いた金属音が石の反響と共鳴して跳ね返る。
音を抑える気配もない。
むしろ、音そのものがその存在の一部として設計されたかのように、一定の間隔で響き渡り、遅滞なく、壇へと向かう。
闘技場の前方、直方体に突き出た壇。
中央に据えられた、わずかに高い一段。
そこにあまりに滑らかに、機械的に、足をかけ登っていく。
纏っていたのは、見る者に違和を与えるほどに整った礼装。
全身を包む白練の布地、折り目一つないままに張り詰めたような光沢を帯びていた。
袖口は内側へ向かって二重に折られ、縫い目が一切表に現れていない。
胸元には金属の装飾がひとつ、言葉とも記号ともつかぬ象形を刻んでいる。
それは不思議なことに、見る者によってその意味が異なるような、そんな錯視を伴っていた。
足許には漆黒の革。あまりに磨かれ影のように床と溶け合いそうなもの。
そこに立つだけで、壇の肌が場の他所より数度、冷えているようにすら思われた。
顔の左半分を覆う古傷。
滑らかすぎる無表情。
そして耳。
他の誰とも違っていた。
兎の耳ではあったが、その動きがない。
生気も、反応もない。
ただ左右対称に立ち、まるで意匠として縫いつけられているかのよう。
左手に持たれていたのは、古びた拡声筒。
塗装の剥げた鉄の筒。
持ち手の部分だけが妙に新しく、握りしめられた跡が皮革の表面に浅く刻まれている。
場が一斉に、その動作を待った。
発声が、場を裂く刃となることを、
誰もが理解していた。
拡声筒が、音もなく、口元へと掲げられる。
「時間になりましたので、中央までお集まりください。」
発せられたその声は、肉声というよりも、金属の表面を軽く叩いたような響きだった。
高すぎず、低すぎず、抑揚もなく、ただ淡々と。
けれど、その一文が放たれた瞬間、場の温度が確かに一段下がった。
誰からともなく動き出す気配が、まず耳に届いた。
布ずれの音、足音、重さを測るように地を踏みしめる音。
誰もが、静かに、中央へと歩みを寄せていく。
石の床、その中央部に嵌め込まれた硝子の円盤。
微細なひびが無数に走っているのに、なぜか割れてはいない。
あの上へ、行けということなのだ。
私も、背を壁から離した。
何のためらいもないわけではない。
ただ、拒む理由がないだけだった。
視線を下げ、足元を確かめながら歩き出す。
他の誰かの足音が、すぐ近くで並ぶ。
けれど、誰も話さない。目も合わない。
ただ、それぞれがまっすぐに、あの硝子の中心へと向かっている。
耳が、冷える。
空気の流れがないはずなのに、薄い刃を撫でるような感触が何度も走る。
誰かの視線か、それとも、気配そのものがそう感じさせるのか。
足は止めない。止まったら、違う何かが始まってしまう気がした。
硝子の縁に触れる。わずかに足が滑った。
中心に立つ他の少女たちの姿が、斜めの硝子に歪んで映り込む。
白い耳。黒い耳。灰色の耳。
長い髪、短く切り揃えた襟足、濃く染めた眼差し。
同じ兎の形をしていても、誰一人として似ていない。
一歩、硝子の円盤の上に乗る。
薄く軋む音が、鼓膜の奥に爪を立てるように響いた。
その場にいた全員が、同じように軋ませながら、円の中へと足を踏み入れていく。
ざわり、という音が、どこからか立ち上る。
それは音ではなく、心臓の裏に染みる何か。
誰かが呼吸を深くし直す。
誰かが耳に触れそうな位置まで手を上げかけて、やめる。
まだ抜かない。
まだその時じゃない。
ただ、立つ。
この硝子の、中央に。
頭上は、閉じている。
足元は、割れそうで割れない。
左右は、敵しかいない。
その全てを、今さら確認するまでもなかった。
ただ、静かに待つ。
始まる瞬間が、この真ん中から引き裂かれるのを。
「ただいまより行いますのは、脱落形式。」
拡声筒を通した声が、天井に反射しながら降ってきた。
しかし、誰一人として顔を動かそうとはしない。
声がどこから届くのか、そんなことに注意を割く余裕はなかった。
「両耳を失った者、または順に消失していく足場より落ちた者から順に、失格となります。」
説明する声には、感情というものが混じっていなかったように思う。
怒りも、期待も、悲哀も混じらず、
ただ事実として、既に確定している未来を語るように。
足元の硝子板が、じわりと音もなく沈んでいく。
…いや、違った。正確には、沈んではいなかった。
舞台の下から何かがせり上がり、入れ替わるように、空気の層を押し上げていく。
一瞬、目が眩んだ。
閉ざされた空間のはずなのに、突然眼下に拡がったのは、開けた平面。
まるで一枚の舞台を天空に浮かべたような、無地の空間。
足場は、約四十メートル四方ほどか。
周縁には、淡く色の違う円環が重なり合っているのが見える。
水色。緑。黄色。橙。そして赤。
それぞれが、どれほどの意味を持つのか、知らされずとも、
その消える順に危険が迫ってくることは、明白だった。
視界の端に、突き出した柱がいくつか見える。
高さのあるもの、膝ほどの段差しかないもの、間隔も秩序がなく、ただ点在している。
まるで周囲から隔離されたような、狭い一人分の足場もあった。
あの上で一歩でも歩みを間違えれば、その場から落ちるのだろう。
そしてその間には、わずかな傾斜や窪みが混在していた。
誰もが、すでにその構造を読み取ろうとしていた。
目を伏せず、足元に気を配り、
すぐ隣にいるはずの誰かの気配だけを、視線の端で感じ取っていた。
「制限時間は設けません。生存者が定数を下回るまで、戦闘は続行されます。」
やがて硝子の舞台が完全に地面と重なると同時、わずかな振動が爪先から伝わってくるようになった。
それが、この場に固定された合図。
もはや、逃げ場はない。
耳に、風が当たる。
本来、こんな空間に風が吹くはずはない。
けれど確かに、耳の先が揺れている。
自分だけではない。誰の耳も、同じように微かに動いていた。
それが風なのか、それともただの気配なのか、もう判別がつかない。
呼吸が、浅くなる。
何人かが、わずかに姿勢を落とす。
かすかに膝を緩め、指先をだらりと下げ、
視線の角度を調整する。
「レギュレーションの確認は、お済みかと思いますので……」
その言葉に続いた静寂は、音が吸い込まれていくような感覚に変わった。
ほんの僅か前まで存在していたはずの、足音、呼吸、衣擦れ、
すべてが沈黙に取り込まれたかのように、消えていた。
声の主が動く気配を、耳ではなく、皮膚で感じ取ろうとしていた。
壇上に据えられた台座の奥、
厚い黒布で覆われた箱状の装置の傍に、その手が伸ばされる。
細く、骨ばった指。
白布の袖がわずかに揺れるたびに、空気の層すら緊張する。
その動きに誰も反応しない。
反応できない。
視界が、じわじわと狭まっていくのが分かる。
まず、他者の顔が見えなくなった。
耳しか目に入らない。
白、黒、灰、赤、金――色とりどりの毛並みが、視界の周縁を占めている。
次に、床。
足元の感覚は確かにあるのに、見ているはずの石肌が大きく霞んでいる。
腕がかすかに緩む。
膝裏が乾いた熱を帯びて、張っていく。
喉に唾を飲み込む音が、爆音のように響いた気がした。
誰も言葉を発しない。
誰も、顔を動かさない。
けれど、全員の意識が一点に向かって尖っている。
壇上、その手の先。
ただ一つの、起動装置。
その上に、白布の手が置かれた。
押すのではない。
まだ、触れただけ。
それでも、その瞬間、身体の奥に熱が走ったような感覚を覚えた。
逃げ道のない場所で火が灯されるのを、
見てしまった時のような。
耳が、あまりに聴こえすぎている。
自分の鼓動が、他人のものと交じり合っているような錯覚すら起きる。
狭まった視界の隅で、誰かの肩がほんの僅か動いた。
反応するな。
その一動作を視線で追えば、そこから崩れる。
そう思った瞬間には、すでに脊髄が硬直していた。
肩にかかる僅かな視線の流れ、後方でかすれた呼気、
指先の先、わずかに浮いた誰かの爪先――
どれもが引き金になり得た。
一斉に発されるはずだった暴力の予感が、
いまにも破裂寸前で空中に張り詰めている。
張りつめすぎた沈黙が、内側から自壊していく感覚。
思考の隙間に、奇妙な雑音が差し込む。
音楽の断片のようでいて、ただの耳鳴りかもしれない。
しかしそれが雑音でないと理解するのに、大きな時間は要さなかった。