壇上の主がわずかに右手を持ち上げた。
壇前面にあるであろう何らかの機構を、指先が斜めに撫でてゆく。
触れていたのは虚空そのものであったのか、それとも何か特定の仕掛けがそこに存在していたのか、断定には至らない。
ただ、次の瞬間。
足元に、わずかな沈みを感じた。
振動、というには軽く、気のせいだと見過ごすには確かすぎる、質量そのものの偏重。
間を置かず、音もなく底が開いた。
否、より正確に言うならば、下より別の舞台が滑るように立ち上がってきた。
これまで戦った硝子の足場が、静かに、まるで記憶の頁を綴じるように沈み、入れ替わるようにして次の場が生起する。
構造が解体されたのではない。舞台が反転し、塗り替えられるような様相。
地面は打ちっぱなしの無機質。
その上に、円形に並ぶ無数の柱が身を寄せていた。
最も外縁、即ち最も多くの柱は青で染まり、その内側に水色、続いて緑、黄色、橙と縮まりゆき、最後に中央に位置する唯一の赤が鎮座していた。
色彩は目に鮮やかではあったが、いずれもやや燻んだ、鈍い熱を孕んだ調子。
それがこの場の重みを否応なく思い出させる。
瞬間、近くの数名が不意に体勢を崩した。
足場の切り替わり、空間の反転に思わず身を引いたのだろう。
体を預けていたものが喪われる感覚は、慣れていてなお抗いがたい。
それでも、すぐに、あらゆる重心が元の均衡を取り戻していく。
中には、わずかに膝を曲げてふわりと舞い上がるようにして切り替えを受け流した者もいた。
風に揺れる裾を、そのまま払うようにして立ち上がり、事も無げに柱の外縁を見渡している。
先の戦いでは、火花を散らすほどの敵意をその身から発していた者たち。
だが今は、皆一様に、静かにその場へ順応しようとしていた。
私もまた、思わず足を後ろに引いていた。
肩から腰にかけて、動揺が波紋のように広がっていた。
脳が戦場の転換を「落下」と誤認し、次に来る地面との衝突に備えようとしたのだ。
だが、それはこなかった。
来るのは、別の舞台と、別の規則。
目を伏せ、深く一度だけ息を吐いた。
こうして再び、整えていく。
気配が、また一段階研ぎ澄まされていく音がする。
既に、誰も言葉を持たない。
それぞれの柱が、次に進む道の入り口であることを知っている。
選ばれぬ者が沈むわけではない。
だが、進めぬ者が次に在らぬことだけは、はっきりしていた。
足下が今や、確かに硬質な現実へと変わっていることを、靴底が教えていた。
これまで踏みしめていた硝子の、あの不確かで滑らかな感触ではない。
新たな摩擦と質量が、確実に肉体へと伝わっている。
中央の壇上、未だ動かぬ主はそのまま。
次なる言葉を告げる気配はない。
すでに全てが整ったことを、あの姿勢が雄弁に物語っていた。
私は視線を少しだけずらした。
最外縁。青の柱が、思いのほか高く、そして近くに見えていた。
そしてまた——風のように揺らぎのない声が、壇の上から再び降り注ぐ。
抑揚なく、しかし誤魔化しの一切を排した硬質な声音。
「只今より行いますのは、勝ち上がり形式です。
外周の青より始まり、内周へと進んでいただきます。
それぞれ、勝者一名のみが次の段階へ移動を許可されます。
該当者以外は、その場より脱落といたします。」
淡々と、まるで通知のように口上が終わる。
この場に誰一人として問い返す者は居らず、また説明を求める者も存在しない。
既知の仕組み。あるいは、知らずとも受け容れるより他に術がないという了解。
それを証明するように、直後、空気を斬るような音が眼前に生じる。
会場前方、黒で囲われた一枚の板。
構成は精緻にして冷淡。碁盤目のように並べられた記号と名。
組分け表。
誰がどの柱に立つのか、誰と交わるのか、それがすべて定められている。
それを見上げた者たちの間に、微かな沈黙と動揺。
おそらくは己の名を探す視線の群れが、その緊張をもって会場の温度を下げた。
目にした者、見上げる者、何らかの安堵と、また絶望を飲み込んだ者。
わずかなざわめきの中、私の名も、静かにその盤上に刻まれていた。
だが、そこには他の名がなかった。
一つの枠。対になるべき名が抜け落ちた空白。
それは明らかに、偶発ではない意図。
「なお、今回の参加人数により、幾人かは青の段階を免除されております」
先の声が、それを追認する。
青い柱、それは最も外側にして、最も多くの命が淘汰される場。
そこを通過することなく、先に進む資格を与えられた者が、幾人かだけいる。
シード枠。
なるほど、そうであるならば。
この空欄に納まる意味も、形も、ようやく確かになっていく。
すでに幾人かが動き出していた。
指示なくとも理解した者から、青の柱へと歩を進めていく。
列もなく、順序もない。
ただ自らの番号と、名と、色を頼りに、それぞれが割り当てられた柱を目指す。
私もまた、わずかに遅れて足を踏み出した。
向かうは、外縁の青。
だが他のどの柱とも異なり、その上に立つべき人影は私ただ一人。
足音が、やけに遠く聞こえた。
舗装された地の硬さが、靴底を通して過去の感覚を否応なく呼び覚ます。
振り返るべきではないと知りつつ、視線の端に他の影を拾ってしまう。
二人、三人と組を成し、それぞれの対面に立つ者たち。
待機にしては過剰な緊張。
あれはすでに、戦闘の寸前である気配。
そして私は。
すでに誰もいない柱の上に、ひとり静かに足をかけていた。
登り切った足元から、わずかに風が吹く。
熱気はまだ薄く、だが戦いの匂いだけが、確かに皮膚を焼いていた。