無声の耳籠   作:Tethys

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水の足場

「始め。」

 

音がすぐに、下から消えた。

 

足裏の感覚がなくなったことに、脳が気づくのが一拍遅れる。

視界が落ちる。或いは、地平線の上昇。

次の瞬間には、硝子の床が抜け落ちていた。

 

音はしない。

誰も叫ばない。

落下する全員が、沈黙のまま。

 

わずかに広がった衣の裾が、視界の隅でふわりと翻る。

耳が風を裂く。

あの一瞬の静けさを切り裂いて、耳朶をなぞるように疾風が走る。

 

照明もないはずの闘技場に、どこからか降る白光が差す。

その中に、点在する柱と「孤島」が浮かび上がる。

すでに舞台の形は見えている。

あそこに落ちる。

誰かより、先に。

 

それが一瞬の判断。

全身を縮め、衝撃に備えるでもなく、

ただ落下の中で、次の動きを探る。

 

誰も叫ばない。

ただ、音だけが強調される。

衣が風を裂く音、耳が跳ねる音、身体が空を撥ねる音。

 

落ちていく。

跳ねるでもなく、舞うでもなく。

これはただの落下。

けれど、地に届いた瞬間、戦場になる。

 

そして着地の瞬間、音が返ってきた。

 

沈んだ肉の鈍い打音、靴底が石を蹴る摩擦、膝の軋む小さな震え。

それらが一斉に舞台に叩きつけられ、耳を焼くような音圧へと変わる。

誰もが同じ高度から、同じ一歩を、別々の軌跡で着地した。

そして、その「違い」が明確に現れる。

 

着地とともに踏み出す者。

一瞬のよろめきで窮地に陥る者。

 

悲鳴はない。

けれど音はある。

「転落音」――舞台の底に消える、それだけで敗者と知れる音。

 

次に響くのは、靴音。

跳ねるように、滑るように、疾走に移る複数の足。

それはまるで獲物を見つけた猛禽の加速。

空気の揺らぎを裂いて、何かがすでに接近している。

 

視線が錯綜する。

全員が誰かを狙っている。

全員が誰からか狙われている。

 

耳が、熱い。

血がそこへ集まる。

どこかの足音が背中に迫る。

 

私は、すぐには動かない。

膝を軽く緩め、踏み込む角度だけを測る。

床の質、傾斜、距離、跳ねた音の重さ――

全部をほんの一拍で計算する。

 

左、耳が触れる距離まで接近する影。

黒いコート、片膝にだけ綴じた銀の鋲、

跳ね上げられた耳の内側が赤い。

 

こちらを獲物と定めた目を、確かに捉える。

右手が伸びる。

私は、前へ。

 

跳ねるように走る。

逃げではない。

抜かれないための前傾。

振り返らずに全体の位置を把握し、

踏み場を奪われないよう、次の一歩を探し続ける。

 

背後、誰かが飛び込んで、別の誰かとぶつかる音。

耳を裂かれる音は、まだしない。

けれど時間はない。

 

疾走の中、呼吸を浅く切り刻む。

この速さ、この加速、この脚の一歩――

どれもが抜きの間合いを操るための布石。

 

耳はまだついている。

だが、それはいつまでも続かない。

 

戦場の空気は、もう完全に飽和していた。

ここは静寂ではない。

加速と殺意が、形を持たずに満ちている。

 

耳を残す。

それだけが、この場における唯一の命題だった。

 

地を蹴る反発が底部から逆流する。

足裏に纏わりつく石の粉。軋む骨の振動。周囲を縫う擦過の足音。

全身の各所に散ったそれぞれの接地、その差異が即座に淘汰の形をとる。

 

脱落音。

小さく、そして深い。

誰かが“孤島”に踏み損ね、姿勢を崩した。

背中を裂くような擦過、そのまま耳も振り切られ、

音にならぬ音として底に沈む。

 

舞台はすでに——剥き出しだった。

 

突風のような気配が右方をかすめる。

疾駆と同時、耳へと延びる手。

だがそれは私ではない。

追尾される誰かの鼓膜が、剥がされるように、断絶する。

 

私は奪わない。

傍観でもない。

わずかに膝を折り、床の傾斜を感知し、

地の縁と縁を繋ぐ静脈を確かめるように、移動する。

 

視界の端で、黒衣の影が一人、柱を死角として横切る。

左耳にだけ包帯。右の輪郭はむき出し。

こちらを向いた目はない。

だがその掌は、抜くための角度をずっと保持している。

 

獣ではない。

それ以上に厄介な、訓練の匂い。

 

石面に刻まれた色の帯。

水色、緑、黄色、橙、赤。

境界は曖昧だが、境界線の意味は明確だった。

減少と崩落。

数が減るたび、床が外周から削られる。

この場において、踏み出す先が“在る”保証は、秒ごとに失われていく。

 

誰もがそれを知っている。

だから中心を目指す。

だから追いかける。

だから狙う。

 

私は、それをしない。

むしろ追い越される。

耳の輪郭を寝かせ、視線を下げ、ただ一歩ずつ——

 

――そうして、戦場の図を拾い集める。

 

この広さ、この地形、

影の濃度、足音の反響、石柱の死角と高低差。

 

目は合わせない。

殺意を跳ね返す余裕は、ない。

それは見れば発火する。

それを拒めば、指先が来る。

 

今は、音を拾う。

耳が、生きていることの証になる。

 

誰かがまた、落ちた。

色の帯の端、その一線がわずかに光を呑み、沈む。

淵に踏み込んでいた者の末路。

そこに立ったことが、敗因だった。

 

舞台は、崩れる。

それ自体が、敵だ。

 

ここは、“舞台”ではない。

ただの“底”だ。

手を伸ばす者が、底に堕ちる。

 

だから私は、伸ばさない。

しばしの間、ただ観察する。

全体の流れを、速度を、殺意の濃度を、

すべてを体に、皮膚に、耳に焼きつける。

 

抜かないことが、勝つための最初の一歩。

抜かれないことが、生き残るための最後の一線。

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