無声の耳籠   作:Tethys

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緑の足場と白金-1

空気が沈む。

正確には、空気が動かなくなる。

その無風が、先に皮膚へ触れる。

何かが変わる前には、必ずそういった形のない前触れがある。

 

そして、それは言葉として落とされた。

 

「人数が定数を下回りましたので、水色の足場が消失します。」

 

澄んだ声だった。

無機とすら言えるその声音には、抑揚がない。

ただ、それだけで充分だった。

舞台全体に、張られていた見えない膜がひとつ、はっきりと震える。

 

私の足が、半歩だけ石から浮く。

誰にも見えないほどの遅れとともに、衝動の一歩が止まる。

 

消える、と告げられた。

足場が。水色の帯が。

その意味を咀嚼するより先に、身体は知っていた。

 

思考のなかで、過去の構図が反芻される。

視たはずの場所。動いていた者たち。

だが——気づけば、そのすべてが、もうぼやけている。

 

見ていなかったのだ。

耳を抜かれないこと、それだけに囚われ、

視野のほとんどを自己の周囲にだけ縛っていた。

 

もう、そこまで——減っていた。

 

気づいたのは、音ではなかった。

視線の端、空間の縁がごくわずかに滲み、

そして、ふと。

 

何の前触れもなく、そこにあったはずの石と色彩が、消える。

 

石柱がひとつ、音もなく沈む。

足場の一部が切り落とされたのに、崩れる音はなかった。

無音の断絶。

切除された舞台の一部が、まるで最初から存在しなかったかのように溶ける。

 

それが水色の帯だった。

最外縁。

誰もが最初に降り立ち、誰もが最初に捨てた地。

その水色が、告げられた通りに——確かに、失われた。

 

誰かが息を詰める音。

一瞬、戦場全体の足音がわずかに鈍る。

焦燥ではない。

もっと根深い、感覚の重なり。

「間違いなく狭まる」という予測が、今この瞬間、「確実な消失」へと変わった。

 

その差異だけで、体勢を崩しかけた者がひとり。

すぐに持ち直したが、見た。

腰の引けたその重心に、もう“耳を狙う”者の気配が向かっていた。

 

私の視界もまた、揺れていた。

誰を見ていたのか、どこを見ていたのか。

戦場全体を検めていたはずの眼差しは、知らぬ間に数を数えることすら放棄していた。

 

中央の柱が風もないのにきしみ、音もなく静止する。

その背後で、何人かが移動を急ぎ、影が重なり、視線が交錯する。

 

焦りが、ここにある。

狭まるという現実が、それを余すところなく可視化させていた。

一瞬の判断が、次の瞬間の喪失に変わる。

誰もがそれを知りながら、選ぶしかない。

残るか、離れるか。狙うか、潜るか。

 

私は動かない。

音を捨てず、気配を伏せ、ただそこにいる。

崩れたのは舞台の縁、

だが、崩れかけているのは、それぞれの内部。

 

駆け出す。

その行為自体に、もはや意味などない。

ただ耳を抜かれぬために、ただ空間の余白を求めて、次の瞬間へ滑り込む。

移動と逃走の境界が曖昧になる。

呼気に合わせて視界が跳ね、柱の陰に尾を引く誰かの残像が横を裂く。

 

それでも、しばらくはただ、走っていた。

誰を狙うでもなく、どこに向かうでもなく。

この密度、この熱量。

そのなかで標的を定めること自体が、もはや無策に等しかった。

 

けれど——ふと、

ひとつの影が、視線の奥で止まる。

 

遠くはない。

橙の帯の、まだ中心に程近い地点。

中央の柱より少し外れた孤島の隣接部。

そこに、ひとり。

 

目を奪うというよりも、意識が逸れる。

その存在だけが、空気の違う温度を纏っていた。

 

整っている。

にもかかわらず、際立つ異質。

 

布地の質が明らかに違う。

白を基調とした装束、裾の刺繍が古い時代の宗派紋に近く、肩口にかけて錫色の留め具が重なっている。

にもかかわらず、足元は素足に近い薄布。

袖口から見える手には、何かを握る形跡も、守る意志もない。

耳は伏せず、むしろやや持ち上がっていた。

戦いの最中で、それは致命に近い姿勢。

 

だが、その立ち姿。

崩れていない。

何かを隠している気配もない。

それゆえに、逆に目が離れなくなる。

 

静けさ。

戦場の只中にあって、あまりにも濁りの少ない佇まい。

踏み込みすら発していない。

周囲が地を蹴り、視線を交差させるなか、

その少女だけが、僅かな軌跡さえも残さぬように、ただ回遊している。

 

警鐘のような直感。

残しておけば、あとが厄介になる。

そうした予測ではない。

もっと根の深いもの、見てはならぬものに触れてしまったときの、感覚。

 

遠くない距離。

そこに至るまでの遮蔽も、最短で三。

 

間にもうひとり、注意の逸れている個体がいる。

視線を交わさずに抜けられそうな動線。

遮るものの少ない、真横の道筋。

 

私の脚が、一歩ぶれた。

無意識に。

そこを通る形で。

 

指先が、袖の中で熱を持つ。

この直感に従うか、見送るか。

狙いを定める瞬間に浮かぶ葛藤はない。

 

問題はただ、間に合うかどうかだけ。

 

そして、どこから“気づかれている”かということ。

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