無声の耳籠   作:Tethys

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緑の足場と白金-2

狙いを定めた時点で、周囲の雑音は後方に沈む。

獲物を見つけたわけではない。

ただ、そこにいるという事実が、他のすべてを後回しにさせただけ。

 

正面からは行けない。

孤島の縁を回る者がひとり、そこを往復している。

その動線に紛れる形で、橙の帯に沿って接近する。

視線は地に伏せ、耳の角度を抑え、気配を最低限に。

 

風がない。

だから、白金の髪が、ほんの少し重たげに垂れている。

肩甲から腰骨あたりまで、淡く流れ落ちるような光沢。

まるで音を吸う布のような髪。

 

顔は、見えない。

一度も振り返らないまま、少女は小さな孤島の手前、石柱の陰に回遊している。

それは潜むのでもなく、構えるのでもない。

ただ、その一点に留まり続けているという印象。

 

こちらに気づいている素振りはない。

それゆえに、却って不自然だった。

他の者たちは走る。追うか逃げるかのどちらかに、常に身を委ねている。

この場で走らずに歩き続けるという行為そのものが、戦意の逆照射。

 

私はなお速度を落とさない。

転ばぬ程度の疾走。

掌が布越しに湿る。

気配の膨らみと、間合いの予測。

 

接敵まで、十歩にも満たない距離。

柱の陰を滑り抜けた瞬間、風もないのに何かが揺れたような錯覚。

 

——それでも、少女は一度も振り返らなかった。

 

白金の髪が、斜めに揺れて、また静まる。

まるで最初から、こちらの存在など風以下のものとして、計算の内にもないような——

 

距離が詰まる。

耳まであと少し。

あと、わずか数拍。

 

気配は、なかった。

歩幅のひとつひとつを潰すように進んだ。音も、振動も、距離の軋みすら殺しながら。

 

あの長い白金の髪が、ただ無防備に揺れていた。

視線も背に向けられたまま。耳は露出し、あまりに整然と、そこに在った。

 

すでに届く位置。

刹那の後には、指が触れる。そう思った。

 

けれど——。

 

白金の少女の動きが、逆流した。

常軌の外へ、逸れていた。

 

ねじれた関節。反転した重心。

背面のまま宙を抉るような旋回。

筋肉や骨格という制限を、知覚が追いつくより前に裏切っていた。

 

腕が閃く。

耳ではない。喉元に届く線。

振り返ることすら省略されたまま、そこにだけ、死角を割り込ませてきた。

 

足が、先に地を蹴った。

反射ではない。咄嗟でもない。

ただ、後退の判断。

 

掠れる距離。触れる寸前。

もう一寸でも遅ければ、そこで終わっていた。

その事実が、遅れて体温を奪う。

 

着地とともに距離が滑る。だが、引き切るには至らない。

すぐそこにある眼差し。

否、顔は依然として白金の幕に隠されていた。

それでも、視線だけが、こちらの思考の縁をじわりと焼いている感覚。

 

——あれは、偶然ではなかったのか。

 

背を見せたのは、誘いだったのか。

いや、最初からこちらの動線を読み、背面ごと迎撃に転じる構えをしていたのか。

あるいは、すべてが先手ではなく、後手だったのか。

 

脳裏で、解が乱れる。

思考は渦を巻き、いくつもの「可能性」の名前がせめぎ合う。

 

ただ一つ、確かなこと。

その白金の髪の向こうには、まだこちらの視線を受け止めた顔が、存在していないということ。

 

指先の間隙が、数度すれ違う。

掴みにいった耳は、寸前で逸れ、狙われた耳は、寸前で振り切る。

 

読み合い。

ではない。

 

思考の隙間を与えぬほどの、連続した技の衝突。

手首が、肩が、腰が、無数に軌跡を残しては断たれ、埋めては剥がれる。

一歩も引けない距離。

体幹を軸としたわずかな崩しが、命取りの幅となって口を開ける場所。

 

指が胸元に掛かり、次の瞬間には逆腕を巻き取られ、膝裏が裂けるように空を切る。

姿勢が崩れかけてなお、背筋が跳ね返し、足裏が体重を殺しながら這うように着地。

その瞬間すら、白金の少女は見逃さない。

 

左の掌が、こちらの片耳に触れる。

呼吸が止まる音。

 

視界が痺れた直後、腕を刈るように絡め取り、肘ごと跳ね上げて接触を断つ。

だがその手口も、すでに読まれている。

肘の先、空を裂いたと思った一拍後には、肩の裏に体を滑り込ませていた。

 

回避ではない。

無効化でもない。

 

受け流したうえで、次へと繋げる連環。

まるで戦場というよりは、どこか完成された演舞のような、精度の連打。

 

押されている。

数合を交えるうちに、はっきりとそれが濃くなる。

 

応じる手が、常に一手遅れる。

対応は追い付き続けているのに、遅れが止まらない。

その矛盾が、息を浅くしていく。

 

一撃の決着ではなく、連続の圧。

その全体が、明確にこちらを上回っている。

 

——止まらない。

受けても、躱しても、崩れない。

こちらの意図すら、すでに取り込まれているような、そんな感触。

 

白金の髪が、何度も肩を越えて翻る。

顔は見えない。

だがその所在なき気配こそが、まるで全てを統べる意志のように、全身を浸蝕していた。

 

押されながらも崩れず、なお一矢を狙うべく、姿勢を組み直す。

土台ごと砕かれぬよう、ただそれだけを支点にして。

 

これは、脈動の途切れぬ攻防。

手首と手首がぶつかり合い、爪先と爪先が踏み割るようにすれ違う。

宙に踊るのはただの意志ではない。

ひとつの体系、ひとつの理。

眼前の白金、その少女の構えは、技巧という言葉にすら還元できない、純粋なまでの殺意の型。

 

押し返せない。

正面を割ることも、軌道を曲げることもできない。

退くしかない。

だが、退いた瞬間に喉元へ突き立つ牙がある。

 

耳元をかすめる爪。

肩を這い、背を抉る指先。

何度も距離を取ろうとした、そのすべてを封じるように、あの少女の一手は幾度も先回りしていた。

 

崩せない。

逸らせない。

削られているのは皮膚ではない。

判断の枠。呼吸の幅。眼前を計るための、わずかな間。

 

——このままでは。

 

肺が警鐘を鳴らす。

だが、意識はそのまま先へ進もうとした。

次の手を、次の構えを。

それでも、もう打つべき選択肢が、どこにも見えなくなっていた。

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