狙いを定めた時点で、周囲の雑音は後方に沈む。
獲物を見つけたわけではない。
ただ、そこにいるという事実が、他のすべてを後回しにさせただけ。
正面からは行けない。
孤島の縁を回る者がひとり、そこを往復している。
その動線に紛れる形で、橙の帯に沿って接近する。
視線は地に伏せ、耳の角度を抑え、気配を最低限に。
風がない。
だから、白金の髪が、ほんの少し重たげに垂れている。
肩甲から腰骨あたりまで、淡く流れ落ちるような光沢。
まるで音を吸う布のような髪。
顔は、見えない。
一度も振り返らないまま、少女は小さな孤島の手前、石柱の陰に回遊している。
それは潜むのでもなく、構えるのでもない。
ただ、その一点に留まり続けているという印象。
こちらに気づいている素振りはない。
それゆえに、却って不自然だった。
他の者たちは走る。追うか逃げるかのどちらかに、常に身を委ねている。
この場で走らずに歩き続けるという行為そのものが、戦意の逆照射。
私はなお速度を落とさない。
転ばぬ程度の疾走。
掌が布越しに湿る。
気配の膨らみと、間合いの予測。
接敵まで、十歩にも満たない距離。
柱の陰を滑り抜けた瞬間、風もないのに何かが揺れたような錯覚。
——それでも、少女は一度も振り返らなかった。
白金の髪が、斜めに揺れて、また静まる。
まるで最初から、こちらの存在など風以下のものとして、計算の内にもないような——
距離が詰まる。
耳まであと少し。
あと、わずか数拍。
気配は、なかった。
歩幅のひとつひとつを潰すように進んだ。音も、振動も、距離の軋みすら殺しながら。
あの長い白金の髪が、ただ無防備に揺れていた。
視線も背に向けられたまま。耳は露出し、あまりに整然と、そこに在った。
すでに届く位置。
刹那の後には、指が触れる。そう思った。
けれど——。
白金の少女の動きが、逆流した。
常軌の外へ、逸れていた。
ねじれた関節。反転した重心。
背面のまま宙を抉るような旋回。
筋肉や骨格という制限を、知覚が追いつくより前に裏切っていた。
腕が閃く。
耳ではない。喉元に届く線。
振り返ることすら省略されたまま、そこにだけ、死角を割り込ませてきた。
足が、先に地を蹴った。
反射ではない。咄嗟でもない。
ただ、後退の判断。
掠れる距離。触れる寸前。
もう一寸でも遅ければ、そこで終わっていた。
その事実が、遅れて体温を奪う。
着地とともに距離が滑る。だが、引き切るには至らない。
すぐそこにある眼差し。
否、顔は依然として白金の幕に隠されていた。
それでも、視線だけが、こちらの思考の縁をじわりと焼いている感覚。
——あれは、偶然ではなかったのか。
背を見せたのは、誘いだったのか。
いや、最初からこちらの動線を読み、背面ごと迎撃に転じる構えをしていたのか。
あるいは、すべてが先手ではなく、後手だったのか。
脳裏で、解が乱れる。
思考は渦を巻き、いくつもの「可能性」の名前がせめぎ合う。
ただ一つ、確かなこと。
その白金の髪の向こうには、まだこちらの視線を受け止めた顔が、存在していないということ。
指先の間隙が、数度すれ違う。
掴みにいった耳は、寸前で逸れ、狙われた耳は、寸前で振り切る。
読み合い。
ではない。
思考の隙間を与えぬほどの、連続した技の衝突。
手首が、肩が、腰が、無数に軌跡を残しては断たれ、埋めては剥がれる。
一歩も引けない距離。
体幹を軸としたわずかな崩しが、命取りの幅となって口を開ける場所。
指が胸元に掛かり、次の瞬間には逆腕を巻き取られ、膝裏が裂けるように空を切る。
姿勢が崩れかけてなお、背筋が跳ね返し、足裏が体重を殺しながら這うように着地。
その瞬間すら、白金の少女は見逃さない。
左の掌が、こちらの片耳に触れる。
呼吸が止まる音。
視界が痺れた直後、腕を刈るように絡め取り、肘ごと跳ね上げて接触を断つ。
だがその手口も、すでに読まれている。
肘の先、空を裂いたと思った一拍後には、肩の裏に体を滑り込ませていた。
回避ではない。
無効化でもない。
受け流したうえで、次へと繋げる連環。
まるで戦場というよりは、どこか完成された演舞のような、精度の連打。
押されている。
数合を交えるうちに、はっきりとそれが濃くなる。
応じる手が、常に一手遅れる。
対応は追い付き続けているのに、遅れが止まらない。
その矛盾が、息を浅くしていく。
一撃の決着ではなく、連続の圧。
その全体が、明確にこちらを上回っている。
——止まらない。
受けても、躱しても、崩れない。
こちらの意図すら、すでに取り込まれているような、そんな感触。
白金の髪が、何度も肩を越えて翻る。
顔は見えない。
だがその所在なき気配こそが、まるで全てを統べる意志のように、全身を浸蝕していた。
押されながらも崩れず、なお一矢を狙うべく、姿勢を組み直す。
土台ごと砕かれぬよう、ただそれだけを支点にして。
これは、脈動の途切れぬ攻防。
手首と手首がぶつかり合い、爪先と爪先が踏み割るようにすれ違う。
宙に踊るのはただの意志ではない。
ひとつの体系、ひとつの理。
眼前の白金、その少女の構えは、技巧という言葉にすら還元できない、純粋なまでの殺意の型。
押し返せない。
正面を割ることも、軌道を曲げることもできない。
退くしかない。
だが、退いた瞬間に喉元へ突き立つ牙がある。
耳元をかすめる爪。
肩を這い、背を抉る指先。
何度も距離を取ろうとした、そのすべてを封じるように、あの少女の一手は幾度も先回りしていた。
崩せない。
逸らせない。
削られているのは皮膚ではない。
判断の枠。呼吸の幅。眼前を計るための、わずかな間。
——このままでは。
肺が警鐘を鳴らす。
だが、意識はそのまま先へ進もうとした。
次の手を、次の構えを。
それでも、もう打つべき選択肢が、どこにも見えなくなっていた。