そのとき——
鋭く差し込まれるような圧力。
視界の端を切り裂くように、別の耳が割って入る。
跳ね飛ばされた細い影。
わずかに軌道を外れて流れた白金の手が、そのまま空を掴む。
侵入者。
斜め後方から差し込んだ、別の一人。
耳狙いではなかった。
ただ、戦場の渦に誘われたかのように接近し、偶然のような軌跡で割って入っただけ。
だが、その「偶然」だけで、一本分の圧が揺らいだ。
背筋を通っていた斬気のような流れが、ほんのわずかに逸れる。
それだけで、空気が変わる。
脇の空間へ、強引に肩を落とし、すれ違いざまに軌道を捻じる。
流れる重心。
割られた流れを逃がすように、斜めへと崩れる。
それは後退ではない。
撤退でもない。
ただ、死線の隙間をすり抜ける一手。
その眼は、確かにこちらを追っている。
だが、追い切れない。
この一手だけは、執行されなかった。
張り詰めていた間が、一度きり解かれる。
呼吸が戻る。
刹那の距離。
空いたのは、わずか数歩。
それでも、追撃を封じるには十分。
ひとつの判断が、かろうじて死線を綻ばせる。
喘ぎを押し殺しながら、崩れた肺に小さく呼吸を戻す。
鼓動は未だ荒い。
だが、意識は切れていない。
削られたのは皮膚でも骨でもない。
経験。
知識。
技術。
そのすべてを、あの少女はまるで玩ぶように凌駕してきた。
追いつけるのか。
あるいは、交わるための構えそのものが、始めから通じないものだったのか。
それでも。
まだ、終わってはいない。
掌に残る熱が、まだ逃げない。
脈打つ拍動を煮詰めたような感覚が、掌から腕へ、首筋までを巡る。
逃れた一瞬、そのまま視界は霞の中を割っていた。
風。
風のような何かが、耳朶をかすめる。
呼吸は熱に変わって、身体の外へと漏れていく。
その刹那、また音。
「人数が定数を下回りましたので、緑の足場が消失します。」
声。
明瞭、だが静謐。感情という濁りをまったく含まない、機構めいた通達。
どこから届いたかさえ今はもう定かでない。
だが、内容はあまりに明確。
その報せが届いた直後、足がわずかに沈んだ。
違和を孕む振動。
すぐに理解へと変わる。
——もう、その数まで削れていた。
白金との応酬の間。
感覚が飢えるほど研ぎ澄まされたあの数瞬で、
この場の誰かが、何人かが、ただ「いなくなった」のだ。
緑。
第二帯。
色の境界で仕切られていたはずのそれが、
いまや何かを湛えたように、揺れ、崩れ、透けていく。
足下ではない。すでに踏み込んでいた。
内側へ。
その僅差が、命脈を保っていた。
速度を緩めぬまま、重心を沈める。
地を掴むように、膝が、脚が、次の蹴り出しへと応じる。
誰かが並走する気配。
まだ遠い。だが、近づく。
視界が再び狭まる。
思考が波に喰われる。
未だに熱は引かない。
骨の奥に沈殿したまま、跳躍の形で呼気へ染み出していく。
白金との数合、互いに傷ひとつ負わぬまま剥がれたそれは、
果たして交戦だったのか、あるいはただの通過儀礼だったのか。
決着は未了、戦意は途切れず、互いの中枢に揺曳を遺したまま。
目を逸らす暇すらなかった。
この場に残る者らすべてが、その数瞬の間にも削れ、散り、抜かれていったと知る。
呼吸一つ、瞬き一つにさえ代償が生じる地。
そして今、足場は再び狭まった。
色彩にして第三帯、緑。
見慣れた淡緑の区画が、音もなく視界から消えていた。
その事実にさえ即時の実感を許さないほど、地が狭く、空気が重い。
ゆるやかに速度を落としながら、なお止まることは許されず、
視線のみが風に抗うように、周囲を流してゆく。
膨れ上がった敵意の渦。
そのひとつひとつが膨大な情報量を孕み、焼きつくように網膜へ貼りついて離れない。
姿勢、靴底の角度、歩幅の癖、腕の余剰な軌道。
ただ視るだけでは意味をなさず、繋ぎ、ほどき、組み直すことによってのみ、輪郭が得られる。
戦場を検める。
それは即ち、すべての存在に仮の死因を与えていく作業。
誰が射程か。誰が演技か。誰が狙っていないふりをしているか。
気配の遅れ。間合いの過不足。
わずかな相殺の兆候と、視線の交錯。
そのすべてが、
ここでは等しく、引き金。
未だ胸腔の奥に残る高熱。
それを握り潰すように、喉奥を湿らせる。
まだ遠くで、なにかが鳴った。
音ではなかった。空気の変調。
誰かが仕掛ける。
それだけは、確かだった。