無声の耳籠   作:Tethys

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緑の足場と白金-3

そのとき——

 

鋭く差し込まれるような圧力。

視界の端を切り裂くように、別の耳が割って入る。

 

跳ね飛ばされた細い影。

わずかに軌道を外れて流れた白金の手が、そのまま空を掴む。

 

侵入者。

斜め後方から差し込んだ、別の一人。

耳狙いではなかった。

ただ、戦場の渦に誘われたかのように接近し、偶然のような軌跡で割って入っただけ。

 

だが、その「偶然」だけで、一本分の圧が揺らいだ。

背筋を通っていた斬気のような流れが、ほんのわずかに逸れる。

 

それだけで、空気が変わる。

 

脇の空間へ、強引に肩を落とし、すれ違いざまに軌道を捻じる。

流れる重心。

割られた流れを逃がすように、斜めへと崩れる。

 

それは後退ではない。

撤退でもない。

 

ただ、死線の隙間をすり抜ける一手。

 

その眼は、確かにこちらを追っている。

だが、追い切れない。

この一手だけは、執行されなかった。

 

張り詰めていた間が、一度きり解かれる。

 

呼吸が戻る。

刹那の距離。

空いたのは、わずか数歩。

それでも、追撃を封じるには十分。

 

ひとつの判断が、かろうじて死線を綻ばせる。

 

喘ぎを押し殺しながら、崩れた肺に小さく呼吸を戻す。

鼓動は未だ荒い。

だが、意識は切れていない。

削られたのは皮膚でも骨でもない。

 

経験。

知識。

技術。

 

そのすべてを、あの少女はまるで玩ぶように凌駕してきた。

 

追いつけるのか。

あるいは、交わるための構えそのものが、始めから通じないものだったのか。

 

それでも。

まだ、終わってはいない。

 

掌に残る熱が、まだ逃げない。

脈打つ拍動を煮詰めたような感覚が、掌から腕へ、首筋までを巡る。

 

逃れた一瞬、そのまま視界は霞の中を割っていた。

 

風。

風のような何かが、耳朶をかすめる。

呼吸は熱に変わって、身体の外へと漏れていく。

 

その刹那、また音。

 

「人数が定数を下回りましたので、緑の足場が消失します。」

 

声。

明瞭、だが静謐。感情という濁りをまったく含まない、機構めいた通達。

どこから届いたかさえ今はもう定かでない。

だが、内容はあまりに明確。

 

その報せが届いた直後、足がわずかに沈んだ。

違和を孕む振動。

すぐに理解へと変わる。

 

——もう、その数まで削れていた。

 

白金との応酬の間。

感覚が飢えるほど研ぎ澄まされたあの数瞬で、

この場の誰かが、何人かが、ただ「いなくなった」のだ。

 

緑。

第二帯。

色の境界で仕切られていたはずのそれが、

いまや何かを湛えたように、揺れ、崩れ、透けていく。

 

足下ではない。すでに踏み込んでいた。

内側へ。

 

その僅差が、命脈を保っていた。

 

速度を緩めぬまま、重心を沈める。

地を掴むように、膝が、脚が、次の蹴り出しへと応じる。

 

誰かが並走する気配。

まだ遠い。だが、近づく。

 

視界が再び狭まる。

思考が波に喰われる。

 

未だに熱は引かない。

骨の奥に沈殿したまま、跳躍の形で呼気へ染み出していく。

 

白金との数合、互いに傷ひとつ負わぬまま剥がれたそれは、

果たして交戦だったのか、あるいはただの通過儀礼だったのか。

決着は未了、戦意は途切れず、互いの中枢に揺曳を遺したまま。

 

目を逸らす暇すらなかった。

この場に残る者らすべてが、その数瞬の間にも削れ、散り、抜かれていったと知る。

呼吸一つ、瞬き一つにさえ代償が生じる地。

 

そして今、足場は再び狭まった。

色彩にして第三帯、緑。

見慣れた淡緑の区画が、音もなく視界から消えていた。

 

その事実にさえ即時の実感を許さないほど、地が狭く、空気が重い。

 

ゆるやかに速度を落としながら、なお止まることは許されず、

視線のみが風に抗うように、周囲を流してゆく。

 

膨れ上がった敵意の渦。

そのひとつひとつが膨大な情報量を孕み、焼きつくように網膜へ貼りついて離れない。

 

姿勢、靴底の角度、歩幅の癖、腕の余剰な軌道。

ただ視るだけでは意味をなさず、繋ぎ、ほどき、組み直すことによってのみ、輪郭が得られる。

 

戦場を検める。

それは即ち、すべての存在に仮の死因を与えていく作業。

 

誰が射程か。誰が演技か。誰が狙っていないふりをしているか。

気配の遅れ。間合いの過不足。

わずかな相殺の兆候と、視線の交錯。

 

そのすべてが、

ここでは等しく、引き金。

 

未だ胸腔の奥に残る高熱。

それを握り潰すように、喉奥を湿らせる。

 

まだ遠くで、なにかが鳴った。

音ではなかった。空気の変調。

 

誰かが仕掛ける。

それだけは、確かだった。

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