無声の耳籠   作:Tethys

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黃の足場-1

剥き出しの黄色い足場、その縁を掠めるように走っていた。

意識の端にわずかに走る、違和の気配。

風でも振動でもない、ただ一縷の──行為の予兆。

 

音なき追随。

それが背後から忍び寄るものだと、気づくまでにはさほど時間を要さなかった。

足場の残響と呼吸の律動の中に、明らかに私のものではない拍が、ひとつ。

 

振り返るには僅かに早すぎる。

それでも、“来る”という確信が、肌の裏に疼いていた。

冷えた鉄の刃を、背中に寝かされたかのような、触れぬ圧。

 

すぐに整える。

半歩、いや三分の一ほどの身の捩れ。

迎撃の姿勢というよりは、“こちらも気づいている”という意思の表示。

不用意に振り返れば、その隙すら刈り取られる。

 

指先にわずかな熱を呼び、膝裏へは弾性を。

内心のあらゆる震えを、姿勢の中に封じ込める。

 

焦ることはなかった。

ただ、遅れてはならない。

手が伸びるよりも早く、気配が爆ぜる前に、先手の位を組む。

 

何かが近づいている。

それは確かに“誰か”ではあるが、名も輪郭も、まだ曖昧なままだった。

足音はない。吐息すら残さず、影のみを伸ばすような接近。

 

その異質さに、一瞬、白金の少女の影を思い出しかける。

けれどあれは、もっと沈んでいた。

今、背を打つこれは、熱に近い。 切っ先のような加速の意志。

 

気づかれていないと思わせているのか、

それとも本当に、見落とされていると信じているのか。

 

いずれにせよ、次の瞬間には牙が閃く。

ならばこちらも、それに値する“応じ”を用意せねばならなかった。

 

私は振り返らない。

ただ、そこに来る者の存在だけを感覚で咀嚼し、

防壁ではなく、刃となるかたちで、己の構えを結ぶ。

 

後ろにはもう、足場の外縁しかない。

それはつまり、こちらに踏み込む者の逃げ場も、限られているということ。

 

どちらが、先に迷いを断てるか。

それだけの静かな読み合い。

無音にして過剰な、死角の一手。

 

視界の端。鋭く割り込んでくる色彩──それが姿を現す。

鮮烈な紅の髪が、戦場の灰白に引き裂くような軌跡を描く。

流れるものではない。絡まるでもない。ただ、そこに在るだけで視覚を侵すような強度。

 

白。

それは服の色。明滅する照度の中で、どこか艶やかに鈍く光る。

その輪郭には未来じみた無機の硬質が宿り、

なのに動きはあまりにも有機的で、脅威という言葉が最も似合いそうだった。

 

肌は灼けたような褐色。

全身がひとつの発熱器のように、生を燃やしながら跳ねている。

それでいて、その瞳だけが──異質だった。

 

深海。

あるいは、底がない井戸。

青ではある。けれど、青であるという表現があまりに表層的に思えるほど、

その奥底に、終わりと始まりがない。

 

こちらを、見ていた。

確かに、そうだった。

 

私が構え直す一瞬、その全てを映し返すように、彼女の視線がぶつかってくる。

けれど、敵意というには淡い。

狙いを絞るには、不安定すぎる。

 

まるで試されているかのような──そういう視線だった。

 

脚が跳ねる。

わずかに軌道を捩じ曲げる動き。

それが挑発か、偶発か、判断はつかない。

だが、間違いなく“仕掛けどき”という直感が、背骨に電流のように走った。

 

腕を振る。体軸を沈める。

音を先に起こすのではない。

気配そのものを先制の刃とする。

 

沈黙の斬撃。

呼吸と足音の境界を限りなく零に近づけて、

ただ、気配だけを鋭角に削って、少女の目前へと差し込んだ。

 

だが──

 

受け止められる。

 

彼女は微かに、口の端を上げただけだった。

まるで、それを待っていたかのように。

 

白金の少女の時と同じ、あるいはそれ以上の確信が、再び肺の内側を刺す。

 

すぐに視線が交錯する。

そこには、焦りも、警戒もなかった。

あるのは、純粋な応酬への期待──あるいは、愉悦。

 

わずかに後ろへ重心をずらしながら、彼女の脚が浮く。

一歩。

わずか一歩の跳躍に過ぎない。

けれどその一歩が、戦場の重力をまるごと撥ね退けるような質量を持っていた。

 

火蓋。

それは声なく、けれど確かに、今、切られた。

 

風圧と眼差し、軌道と視線。

全てが交差し、交錯し、衝突のその一瞬前で、思考が飽和する。

 

この距離。

この間合い。

退くことも、溜めることも、もう許されない。

 

読み合いではない。

もはやこれは──互いの誤差を削るだけの、即興の演算。

 

踏み込む。

否、それはもう、踏み込んでいた。

 

柱の影が、視界を寸断する。

幾つも立ち並ぶ構造体。

それは足場のためではない。

視界を切り裂き、導線を攪拌するための罠。

 

こちらが一歩、踏み出すたびに、

かの少女の姿が、一瞬で消えていく。

見えなくなるのではない。

見えなく「させられている」。

それが、この空間の本質だった。

 

脚が閃く。

赤い髪の少女が、柱の隙間をすり抜けてゆく。

直線ではない。斜線でもない。

まるで削られた時間の隙間を泳ぐかのように、姿が揺れて、そして定まらない。

 

追う。

否、誤差を補いながら、寄せる。

誤魔化しの一歩を削り、差し込みの角度を探る。

 

その合間に、一閃。

視界を縫うような掌を、横薙ぎに走らせる。

耳など狙っていない。

目線を逸らすための楔。

回避の選択肢を奪うための、罠。

 

即座、左に跳ぶ。

柱の裏へと身を滑り込ませ、視界を遮断。

一瞬、気配を切る。

 

が、それすらも──読まれていた。

 

影の先に、少女の白があった。

音もなく、柱を伝い、回り込んでいた。

 

息を飲む。

こちらの再出現の軌跡すら、既に捉えられている。

この一合すら、想定のうちとでも言わんばかりに。

 

脚を払う動き。

下段。

柱の陰で視認が遅れる。

回避が間に合わない距離と角度。

 

しかし──

 

わずかに重心を沈め、

紙一重、身体を落とすことで脚の軌道を外す。

横へ。

そのまま戦場の斜面を跳ねるように逃れ、

距離を、半歩だけ返す。

 

それでも──追いつかれる。

否、“踏み込まれる”。

 

白の輪郭が、前へと転がるように伸びてくる。

それは跳躍ではなく、捕縛。

逃れたつもりのその軌道すら、

最初から“使わせる”つもりで用意されたものだった。

 

回避では足りない。

ここにはもう、退くという選択が存在しない。

 

視線が交錯する。

一瞬、動きが凍る。

だがそれも、一拍も要さぬほどの瞬間。

 

駆ける。

追い、追われる構図が切り替わる。

柱が、構造体が、再びその視界を遮断する。

 

踏みしめる。

傾斜の歪みに一度だけ抗い、

脚力を一瞬だけ解き放つ。

 

風が裂ける。

衣擦れと構造音。

褐色の肌が、視界の端で弾けるように躍動する。

 

どれだけ縮めても、

彼我の“認識の速さ”が違っている。

 

その現実だけが、視界の全てに影を落としていく。

 

足場が、揺れる。

否、誰かの跳躍が、戦場全体の空気を乱している。

別の因子が、動き出した気配。

 

それでも、背後の少女だけは、

変わらぬ速さで、次の一撃を整えていた。

 

いずれ、限界が訪れる。

視界の隅に、黃の残光がちらついた。

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