剥き出しの黄色い足場、その縁を掠めるように走っていた。
意識の端にわずかに走る、違和の気配。
風でも振動でもない、ただ一縷の──行為の予兆。
音なき追随。
それが背後から忍び寄るものだと、気づくまでにはさほど時間を要さなかった。
足場の残響と呼吸の律動の中に、明らかに私のものではない拍が、ひとつ。
振り返るには僅かに早すぎる。
それでも、“来る”という確信が、肌の裏に疼いていた。
冷えた鉄の刃を、背中に寝かされたかのような、触れぬ圧。
すぐに整える。
半歩、いや三分の一ほどの身の捩れ。
迎撃の姿勢というよりは、“こちらも気づいている”という意思の表示。
不用意に振り返れば、その隙すら刈り取られる。
指先にわずかな熱を呼び、膝裏へは弾性を。
内心のあらゆる震えを、姿勢の中に封じ込める。
焦ることはなかった。
ただ、遅れてはならない。
手が伸びるよりも早く、気配が爆ぜる前に、先手の位を組む。
何かが近づいている。
それは確かに“誰か”ではあるが、名も輪郭も、まだ曖昧なままだった。
足音はない。吐息すら残さず、影のみを伸ばすような接近。
その異質さに、一瞬、白金の少女の影を思い出しかける。
けれどあれは、もっと沈んでいた。
今、背を打つこれは、熱に近い。 切っ先のような加速の意志。
気づかれていないと思わせているのか、
それとも本当に、見落とされていると信じているのか。
いずれにせよ、次の瞬間には牙が閃く。
ならばこちらも、それに値する“応じ”を用意せねばならなかった。
私は振り返らない。
ただ、そこに来る者の存在だけを感覚で咀嚼し、
防壁ではなく、刃となるかたちで、己の構えを結ぶ。
後ろにはもう、足場の外縁しかない。
それはつまり、こちらに踏み込む者の逃げ場も、限られているということ。
どちらが、先に迷いを断てるか。
それだけの静かな読み合い。
無音にして過剰な、死角の一手。
視界の端。鋭く割り込んでくる色彩──それが姿を現す。
鮮烈な紅の髪が、戦場の灰白に引き裂くような軌跡を描く。
流れるものではない。絡まるでもない。ただ、そこに在るだけで視覚を侵すような強度。
白。
それは服の色。明滅する照度の中で、どこか艶やかに鈍く光る。
その輪郭には未来じみた無機の硬質が宿り、
なのに動きはあまりにも有機的で、脅威という言葉が最も似合いそうだった。
肌は灼けたような褐色。
全身がひとつの発熱器のように、生を燃やしながら跳ねている。
それでいて、その瞳だけが──異質だった。
深海。
あるいは、底がない井戸。
青ではある。けれど、青であるという表現があまりに表層的に思えるほど、
その奥底に、終わりと始まりがない。
こちらを、見ていた。
確かに、そうだった。
私が構え直す一瞬、その全てを映し返すように、彼女の視線がぶつかってくる。
けれど、敵意というには淡い。
狙いを絞るには、不安定すぎる。
まるで試されているかのような──そういう視線だった。
脚が跳ねる。
わずかに軌道を捩じ曲げる動き。
それが挑発か、偶発か、判断はつかない。
だが、間違いなく“仕掛けどき”という直感が、背骨に電流のように走った。
腕を振る。体軸を沈める。
音を先に起こすのではない。
気配そのものを先制の刃とする。
沈黙の斬撃。
呼吸と足音の境界を限りなく零に近づけて、
ただ、気配だけを鋭角に削って、少女の目前へと差し込んだ。
だが──
受け止められる。
彼女は微かに、口の端を上げただけだった。
まるで、それを待っていたかのように。
白金の少女の時と同じ、あるいはそれ以上の確信が、再び肺の内側を刺す。
すぐに視線が交錯する。
そこには、焦りも、警戒もなかった。
あるのは、純粋な応酬への期待──あるいは、愉悦。
わずかに後ろへ重心をずらしながら、彼女の脚が浮く。
一歩。
わずか一歩の跳躍に過ぎない。
けれどその一歩が、戦場の重力をまるごと撥ね退けるような質量を持っていた。
火蓋。
それは声なく、けれど確かに、今、切られた。
風圧と眼差し、軌道と視線。
全てが交差し、交錯し、衝突のその一瞬前で、思考が飽和する。
この距離。
この間合い。
退くことも、溜めることも、もう許されない。
読み合いではない。
もはやこれは──互いの誤差を削るだけの、即興の演算。
踏み込む。
否、それはもう、踏み込んでいた。
柱の影が、視界を寸断する。
幾つも立ち並ぶ構造体。
それは足場のためではない。
視界を切り裂き、導線を攪拌するための罠。
こちらが一歩、踏み出すたびに、
かの少女の姿が、一瞬で消えていく。
見えなくなるのではない。
見えなく「させられている」。
それが、この空間の本質だった。
脚が閃く。
赤い髪の少女が、柱の隙間をすり抜けてゆく。
直線ではない。斜線でもない。
まるで削られた時間の隙間を泳ぐかのように、姿が揺れて、そして定まらない。
追う。
否、誤差を補いながら、寄せる。
誤魔化しの一歩を削り、差し込みの角度を探る。
その合間に、一閃。
視界を縫うような掌を、横薙ぎに走らせる。
耳など狙っていない。
目線を逸らすための楔。
回避の選択肢を奪うための、罠。
即座、左に跳ぶ。
柱の裏へと身を滑り込ませ、視界を遮断。
一瞬、気配を切る。
が、それすらも──読まれていた。
影の先に、少女の白があった。
音もなく、柱を伝い、回り込んでいた。
息を飲む。
こちらの再出現の軌跡すら、既に捉えられている。
この一合すら、想定のうちとでも言わんばかりに。
脚を払う動き。
下段。
柱の陰で視認が遅れる。
回避が間に合わない距離と角度。
しかし──
わずかに重心を沈め、
紙一重、身体を落とすことで脚の軌道を外す。
横へ。
そのまま戦場の斜面を跳ねるように逃れ、
距離を、半歩だけ返す。
それでも──追いつかれる。
否、“踏み込まれる”。
白の輪郭が、前へと転がるように伸びてくる。
それは跳躍ではなく、捕縛。
逃れたつもりのその軌道すら、
最初から“使わせる”つもりで用意されたものだった。
回避では足りない。
ここにはもう、退くという選択が存在しない。
視線が交錯する。
一瞬、動きが凍る。
だがそれも、一拍も要さぬほどの瞬間。
駆ける。
追い、追われる構図が切り替わる。
柱が、構造体が、再びその視界を遮断する。
踏みしめる。
傾斜の歪みに一度だけ抗い、
脚力を一瞬だけ解き放つ。
風が裂ける。
衣擦れと構造音。
褐色の肌が、視界の端で弾けるように躍動する。
どれだけ縮めても、
彼我の“認識の速さ”が違っている。
その現実だけが、視界の全てに影を落としていく。
足場が、揺れる。
否、誰かの跳躍が、戦場全体の空気を乱している。
別の因子が、動き出した気配。
それでも、背後の少女だけは、
変わらぬ速さで、次の一撃を整えていた。
いずれ、限界が訪れる。
視界の隅に、黃の残光がちらついた。