無声の耳籠   作:Tethys

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黃の足場-2

──まだ狭まる。

 

跳躍の軌道を幾度描いても、踏み込みの角度を変えても、

あの少女の瞳は、その先を見ていた。

追いかける背に差し込もうとした一手は、

すべて、回避ではなく“対処”されていた。

 

刃が走るたびに削られてゆくのは、手の内などではない。

足裏の感覚、関節の温度、肺を満たす気流。

それら全てが、崩れはじめていた。

 

額から滑る汗は、もはや視界を濁すというより、

顔という器の緊張の総量を告げる“兆し”となっていた。

呼吸は細く、浅い。

それでも、まだ終わりではない。

 

振り切れないなら──仕留める。

 

覚悟が、脊椎を伝って胸腔を締める。

 

肉斬骨断。

生き延びるための、最終選択。

 

戦場が狭まる。

構造物の角が、逃げ場を削り、選択肢を潰していく。

逃げられないのではない。

逃げた末の“敗北”が、明白だった。

 

振り切れないなら、裂くしかない。

この距離で、“抜き合い”に変える。

 

脚が先に動く。

既に限界を越えて、応答は反応にならない。

意志を届けるより早く、筋肉が勝手に跳ねていた。

 

身体を反転、重心を落とす。

最も重く、鋭く、逃げ道のない軌道。

 

それは相打ちすら厭わぬ踏み込み。

反撃を受けるなら、構わず受ける。

だが、打ち返す。

文字通り、身体を削ってでも。

 

白が、揺れる。

赤い髪が、視界を奔る。

 

かの少女もまた、気づいていたようだった。

 

この手の踏み込みに、ただの虚勢はないと。

 

回避しようとすれば、その身が裂かれる。

受けようとすれば、貫かれる。

 

だから、来る。

こちらへ。

迎え撃つつもりで。

 

眼前が焼けつく。

腕が痺れる。

脚の感覚はもう熱とも痛みとも呼べない。

 

それでも、踏み込む。

次の一瞬、己が立っているという保証は、どこにもない。

だが、それでいい。

 

この瞬間、ようやく対等になれた。

 

生き残る者と、斃れる者。

どちらに転ぶかは、あと数寸。

 

──激突。

周囲から一瞬大気が消え失せるような、衝撃の放出。

 

交差から、直ちに刃が返る。

その動きは読むというより“見透かす”域にあった。

 

風が、遅れて流れる。

先に裂けたのは空間の方。

彼我の境界を裂いて、白が舞い、赤が奔る。

 

突き立てる手が、わずかに逸れる。

数寸。

ただ、それだけの差。

 

それだけで、取られぬはずの耳を守り、

それだけで、致命の一撃を生む。

 

回避ではない。

予測でもない。

 

応じ合い、導き合い、打ち合うその一手。

すべてが、“差”に支配されていた。

 

半歩。

半息。

あるいは、半瞬。

 

それを間違えれば、すべてが終わる。

 

少女の脚がひらりと閃く。

膝の角度、肩のねじれ、そのわずかな兆しに合わせて、

こちらの肘が自ずと引かれる。

避けたのではない。

避けさせられた。

 

重心を移す。

返す手を、死角に沿わせる。

滑らせるように走らせた指先は、彼女の頬へすら数厘届かない。

 

そして、返る。

 

次の攻め手がもうそこにある。

 

歩数を詰める。

けれど、詰めきれない。

足裏の摩擦すら、次の“読み”に繋がる。

自ら撒いた塵の位置ひとつで、勝機も死角も変容する。

 

視線。

その動きだけで、誘導が起きる。

わずかな目の揺れが、こちらの意図を露呈させ、

仕掛けるはずの一手が、そのまま受け身に転じる。

 

肉体が読み、精神が切り結ぶ。

まさに応酬というより“相殺”。

互いの意志が、同時に重なり、互いの計算が同時に崩れる。

 

──限界が、近い。

 

気づいている。

かの少女もまた、呼吸の浅さに逆らい続けている。

互いに譲らず、互いに退かず。

その均衡が、この戦場の一隅にだけ異常な圧力を孕ませていた。

 

音が遠のく。

外界の喧騒すら、もはや届かない。

 

あらゆる気配が、すべてこの数尺に集約される。

 

そしてわたしは──緩めた。

体をわずかに、だが確かに。

 

視線を逸らすことなく、呼吸の拍を意図的に乱す。

追い風を逸すように、腕の軌道を寸分だけずらす。

 

「隙」ではない。

ただ、「見せた」だけ。

 

この密度、この刹那、

選ばせる余裕など与えない。

 

赤が踏み込む。

白が閃く。

瞳の奥に宿るのは、幾度目かの読み、勝ちへの確信。

 

来る。

 

軌道が、眼裏に焼きつく。

予測ではなく、確信に近い速度で。

 

その瞬間、

首を、右へ断ち切るように傾けた。

 

骨が、鳴った。

耳の根が千切れる寸前まで、軋みの音が響く。

見開いた視界の端で、赤の指が風を裂くのが見えた。

 

感覚が剥がれる。

左の耳、その輪郭だけが世界から脱落した。

 

しかし、その直後。

その空隙へ滑り込むように、

こちらの指が伸びる。

 

軸を捻る。

受け身ではない、決定の一手。

 

右手の指が、まず片方を。

追うように、左の掌が残りを。

 

耳飾のように揺れていたそれらが、

わずかな感触を残して、手中に収まる。

 

──奪い切った。

 

膝が、わずかに沈む。

全身の筋が、ぎしりと鳴る。

無理にひねった腰と肩が悲鳴を上げるも、

視線だけは崩さぬまま、相手を見据えた。

 

かの少女は、わずかに首を傾けていた。

切られた風の痕跡に、最後まで抗い続けた表情。

 

だが、その目元に、一筋の安堵が浮かぶ。

頬の緊張がほどけ、唇の端にごくわずかな弧が刻まれる。

 

深海のような双眸が、

微かに揺れ、そっと、閉じられる。

 

拒絶でもなく、悔恨でもなく。

ただ、応酬の果てに得た納得と共に。

 

その身体が、ふわりと緩む。

そして、音もなく、足場から失せていった。

 

手中に残るのは、わたしのものではない耳の感触。

そして、途切れた息づかいの余韻。

 

耳の奥が、じん、と疼く。

一拍遅れて、己の息遣いが戻ってくる。

喉の奥で擦れるような呼吸。

滴る汗が頬に触れ、やがて湿った体温として認識されていく。

 

それまではなかった。

外界の音も、風の通り抜ける気配さえも。

あらゆる感覚が、あの瞬間に押し込められていた。

 

圧搾された静寂のなか、

再び訪れる震えが、世界の復調を告げる。

 

ひとつ、声が響いた。

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