──まだ狭まる。
跳躍の軌道を幾度描いても、踏み込みの角度を変えても、
あの少女の瞳は、その先を見ていた。
追いかける背に差し込もうとした一手は、
すべて、回避ではなく“対処”されていた。
刃が走るたびに削られてゆくのは、手の内などではない。
足裏の感覚、関節の温度、肺を満たす気流。
それら全てが、崩れはじめていた。
額から滑る汗は、もはや視界を濁すというより、
顔という器の緊張の総量を告げる“兆し”となっていた。
呼吸は細く、浅い。
それでも、まだ終わりではない。
振り切れないなら──仕留める。
覚悟が、脊椎を伝って胸腔を締める。
肉斬骨断。
生き延びるための、最終選択。
戦場が狭まる。
構造物の角が、逃げ場を削り、選択肢を潰していく。
逃げられないのではない。
逃げた末の“敗北”が、明白だった。
振り切れないなら、裂くしかない。
この距離で、“抜き合い”に変える。
脚が先に動く。
既に限界を越えて、応答は反応にならない。
意志を届けるより早く、筋肉が勝手に跳ねていた。
身体を反転、重心を落とす。
最も重く、鋭く、逃げ道のない軌道。
それは相打ちすら厭わぬ踏み込み。
反撃を受けるなら、構わず受ける。
だが、打ち返す。
文字通り、身体を削ってでも。
白が、揺れる。
赤い髪が、視界を奔る。
かの少女もまた、気づいていたようだった。
この手の踏み込みに、ただの虚勢はないと。
回避しようとすれば、その身が裂かれる。
受けようとすれば、貫かれる。
だから、来る。
こちらへ。
迎え撃つつもりで。
眼前が焼けつく。
腕が痺れる。
脚の感覚はもう熱とも痛みとも呼べない。
それでも、踏み込む。
次の一瞬、己が立っているという保証は、どこにもない。
だが、それでいい。
この瞬間、ようやく対等になれた。
生き残る者と、斃れる者。
どちらに転ぶかは、あと数寸。
──激突。
周囲から一瞬大気が消え失せるような、衝撃の放出。
交差から、直ちに刃が返る。
その動きは読むというより“見透かす”域にあった。
風が、遅れて流れる。
先に裂けたのは空間の方。
彼我の境界を裂いて、白が舞い、赤が奔る。
突き立てる手が、わずかに逸れる。
数寸。
ただ、それだけの差。
それだけで、取られぬはずの耳を守り、
それだけで、致命の一撃を生む。
回避ではない。
予測でもない。
応じ合い、導き合い、打ち合うその一手。
すべてが、“差”に支配されていた。
半歩。
半息。
あるいは、半瞬。
それを間違えれば、すべてが終わる。
少女の脚がひらりと閃く。
膝の角度、肩のねじれ、そのわずかな兆しに合わせて、
こちらの肘が自ずと引かれる。
避けたのではない。
避けさせられた。
重心を移す。
返す手を、死角に沿わせる。
滑らせるように走らせた指先は、彼女の頬へすら数厘届かない。
そして、返る。
次の攻め手がもうそこにある。
歩数を詰める。
けれど、詰めきれない。
足裏の摩擦すら、次の“読み”に繋がる。
自ら撒いた塵の位置ひとつで、勝機も死角も変容する。
視線。
その動きだけで、誘導が起きる。
わずかな目の揺れが、こちらの意図を露呈させ、
仕掛けるはずの一手が、そのまま受け身に転じる。
肉体が読み、精神が切り結ぶ。
まさに応酬というより“相殺”。
互いの意志が、同時に重なり、互いの計算が同時に崩れる。
──限界が、近い。
気づいている。
かの少女もまた、呼吸の浅さに逆らい続けている。
互いに譲らず、互いに退かず。
その均衡が、この戦場の一隅にだけ異常な圧力を孕ませていた。
音が遠のく。
外界の喧騒すら、もはや届かない。
あらゆる気配が、すべてこの数尺に集約される。
そしてわたしは──緩めた。
体をわずかに、だが確かに。
視線を逸らすことなく、呼吸の拍を意図的に乱す。
追い風を逸すように、腕の軌道を寸分だけずらす。
「隙」ではない。
ただ、「見せた」だけ。
この密度、この刹那、
選ばせる余裕など与えない。
赤が踏み込む。
白が閃く。
瞳の奥に宿るのは、幾度目かの読み、勝ちへの確信。
来る。
軌道が、眼裏に焼きつく。
予測ではなく、確信に近い速度で。
その瞬間、
首を、右へ断ち切るように傾けた。
骨が、鳴った。
耳の根が千切れる寸前まで、軋みの音が響く。
見開いた視界の端で、赤の指が風を裂くのが見えた。
感覚が剥がれる。
左の耳、その輪郭だけが世界から脱落した。
しかし、その直後。
その空隙へ滑り込むように、
こちらの指が伸びる。
軸を捻る。
受け身ではない、決定の一手。
右手の指が、まず片方を。
追うように、左の掌が残りを。
耳飾のように揺れていたそれらが、
わずかな感触を残して、手中に収まる。
──奪い切った。
膝が、わずかに沈む。
全身の筋が、ぎしりと鳴る。
無理にひねった腰と肩が悲鳴を上げるも、
視線だけは崩さぬまま、相手を見据えた。
かの少女は、わずかに首を傾けていた。
切られた風の痕跡に、最後まで抗い続けた表情。
だが、その目元に、一筋の安堵が浮かぶ。
頬の緊張がほどけ、唇の端にごくわずかな弧が刻まれる。
深海のような双眸が、
微かに揺れ、そっと、閉じられる。
拒絶でもなく、悔恨でもなく。
ただ、応酬の果てに得た納得と共に。
その身体が、ふわりと緩む。
そして、音もなく、足場から失せていった。
手中に残るのは、わたしのものではない耳の感触。
そして、途切れた息づかいの余韻。
耳の奥が、じん、と疼く。
一拍遅れて、己の息遣いが戻ってくる。
喉の奥で擦れるような呼吸。
滴る汗が頬に触れ、やがて湿った体温として認識されていく。
それまではなかった。
外界の音も、風の通り抜ける気配さえも。
あらゆる感覚が、あの瞬間に押し込められていた。
圧搾された静寂のなか、
再び訪れる震えが、世界の復調を告げる。
ひとつ、声が響いた。