無声の耳籠   作:Tethys

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橙の足場-1

「人数が定数を下回りましたので、黄の足場が消失します。」

 

少女が、墜ちた。

白い布と赤い残滓を残して。

あの一瞬が、この決定に繋がったらしい。

 

即座に、周囲がざわめく気配が奔る。

再編される空間の予感。

拠って立つ構造が、またひとつ削がれる。

 

立ち尽くしていたわけではない。

ただ、身を支えるに足るだけの強張りが残っていた。

しかしそれは、もう許されない。

 

視界の端、二筋三筋、残光のように光が走る。

耳を奪う気配。

狙い澄ました呼吸。

わずかに膨らむ沈黙の胎動。

 

ここはまだ、終わってなどいなかった。

 

勝ったという事実に、意味はない。

次の瞬間、今度はわたしが失う側となるかもしれない。

 

駆けた。

 

足場を蹴るというよりも、

削がれる速度に追いつくように身体を置いていく。

 

戦場が、再び牙を剥く。

静けさの次にやってくるのは、必ず飢え。

その対象として自分を晒す暇など、どこにもない。

 

まだ、間に合う。

まだ、終われない。

 

手には、彼女の耳。

背には、いくつもの殺意。

 

肩が軋む。

それでも、動いた。

 

一歩。

踏み出すたびに、肉の緊張が裂ける音を幻聴のように拾った。

刹那の猶予も赦されぬ間合いに、私はもはや包囲されていた。

 

人五人分にも満たない橙の足場。

 

視界の端が走る。

布の擦れる気配。

金属の応じる余白。

 

斜め右、細身の者が膝を折り、左からは高く跳んだ影が翳を落とす。

背後にも一。

その全てを、把握しきれない。

把握すれば応じられるという保証すら、もはやない。

 

構えた右腕を敢えて下げる。

その虚ろに引き寄せられるように、ひとつ、気配が動いた。

 

読めていた、つもりだった。

けれど、斜めから走る熱が肌に触れ、眉が寄る。

 

一拍、呼吸を早める。

この密度、この気配、この熱。

意識が音の形を成す前に、敵意は輪郭を帯びている。

全身がそれを受け止める器官に変じていた。

 

切り返し。

回避の最小角を取ったはずの躯が、後方の影にぶつかる。

 

“避けた”のに“当たった”という矛盾。

判断の順序が一手、狂う。

 

その一手を、刈り取ろうとする気配。

即座に腰を落とし、影の下をくぐる。

 

天井すらないのに、圧迫されている錯覚。

それでも立ち上がる。

誰かが背後に迫っていた。

見ていない。

なのに“いる”と分かっていた。

 

手を伸ばせば何かに届く。

けれど、届かせた瞬間に、別の誰かの手が喉を掻く。

この場では、掴むことと殺されることがほとんど同義に近い。

 

膝が、熱を持ち始める。

息の詰まるような密度に、思考が滲む。

 

自分が今、何に追われ、何を斬っていたのか。

名前も、顔すら知らない敵意。

 

誰かが狙っていた。

誰かが潜んでいた。

誰かがすでに、失われた。

 

この足場の上に残されたすべてが、

敵か、それ以外か。

 

違いを識別する猶予すら、すでに残されていない。

 

指の関節が、僅かに折れる。

その程度の、わずかな角度を巡って、ひとつの命脈が決される場。

もはや呼吸が邪魔だった。

肺の動きさえ隙を招く。

そう理解しているはずなのに、口が勝手に空気を求める。

火照りきった喉奥が、風の流れすら刃のように感じる。

 

左方より来たる一閃。

それを避けるように、前へと飛び込む。

ただ一歩、それだけの動作が過剰な情報を引き寄せた。

 

視界に白。

高密度の織布。

軍服か、あるいは式典用の装束か。

脚部にかけて刻まれた意匠は幾何学的で、血のように濃い赤。

 

そこに滲む、倒れ伏す影。

その瞳が、既に閉じられていたか、見てはいない。

ただ、それが“いた”ことを眼が記録していく。

 

それでも足は止まらない。

次の敵意が既に気配を孕んでいた。

右からの踏み込み、指先の収束。

斬撃か、それとも掴みに転じる構えか。

判断のための時間が、全く足りていない。

 

間に合わないと直感した身体が、左肩から滑り込むように回避を選ぶ。

背筋を斬り抜けていく風。

際どい。

毛髪の一筋が浮き、肩甲骨の裏で熱を持つ。

 

反転。

掌を地に触れさせながらの旋回。

意識を抜く。

力を、抜く。

骨盤が軋み、筋が歪む。

痛みは、感覚としては記録されない。

ただ“破損”として、どこかで認識されているだけだった。

 

前。

すれ違った相手が、暗色の布を纏っていた。

古式。

どこか僧衣に似た印象。

飾り紐が翻り、首元に鉄片が垂れている。

 

振り向かない。

見れば遅れる。

右手を背に、返し手を仕込む。

だが、触れることは叶わず、その者は抜けるように去った。

 

駆ける。

否、滑っていた。

重力を殺すように、床を蹴らず、速度だけを加算していく術。

 

思考が裂かれる。

処理速度の限界。

見えていても、動きに反映できない情報量が視界に過積載されていく。

 

瞬間、黒。

風の切れ目のような衣が、前方を横切る。

肉厚の布、艶のある長髪、深緑の濃い瞳。

ただし、全てが断片。

輪郭はもう、把握できていなかった。

 

前方。

ひとりが崩れる。

理由は、視えない。

耳を奪われたのか、それとも、判断の遅れか。

名も、顔も、関係ない。

“残りが減った”という事実だけが、頭に突き刺さる。

 

踏み込む。

また一歩、また一歩。

足場の幅が減じている。

横滑りの誤差ひとつで、落命に等しい。

 

頭の奥で、何かが鳴る。

声か。

音か。

あるいは、自分の中の“限界”という語の形象か。

 

背後から息遣い。

誰かが追っていた。

追いつくつもりだった。

自分を選び、狙ってきた。

その意図だけが確かだった。

 

反応する余裕はなかった。

ただ、避ける。

逃げるのでも、追うのでもない。

この密度においては、立ち止まること自体が選択肢に含まれていない。

命を繋ぐとは、もはや“常に動き続けている”という状態の一語に集約されていた。

 

敵意。

気配。

踏み鳴らす靴底。

誰が仕掛け、誰が沈んだのか。

 

正確な記録はなされていない。

視界にはただ、動き続ける意志の断片だけが刻まれていた。

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