「人数が定数を下回りましたので、黄の足場が消失します。」
少女が、墜ちた。
白い布と赤い残滓を残して。
あの一瞬が、この決定に繋がったらしい。
即座に、周囲がざわめく気配が奔る。
再編される空間の予感。
拠って立つ構造が、またひとつ削がれる。
立ち尽くしていたわけではない。
ただ、身を支えるに足るだけの強張りが残っていた。
しかしそれは、もう許されない。
視界の端、二筋三筋、残光のように光が走る。
耳を奪う気配。
狙い澄ました呼吸。
わずかに膨らむ沈黙の胎動。
ここはまだ、終わってなどいなかった。
勝ったという事実に、意味はない。
次の瞬間、今度はわたしが失う側となるかもしれない。
駆けた。
足場を蹴るというよりも、
削がれる速度に追いつくように身体を置いていく。
戦場が、再び牙を剥く。
静けさの次にやってくるのは、必ず飢え。
その対象として自分を晒す暇など、どこにもない。
まだ、間に合う。
まだ、終われない。
手には、彼女の耳。
背には、いくつもの殺意。
肩が軋む。
それでも、動いた。
一歩。
踏み出すたびに、肉の緊張が裂ける音を幻聴のように拾った。
刹那の猶予も赦されぬ間合いに、私はもはや包囲されていた。
人五人分にも満たない橙の足場。
視界の端が走る。
布の擦れる気配。
金属の応じる余白。
斜め右、細身の者が膝を折り、左からは高く跳んだ影が翳を落とす。
背後にも一。
その全てを、把握しきれない。
把握すれば応じられるという保証すら、もはやない。
構えた右腕を敢えて下げる。
その虚ろに引き寄せられるように、ひとつ、気配が動いた。
読めていた、つもりだった。
けれど、斜めから走る熱が肌に触れ、眉が寄る。
一拍、呼吸を早める。
この密度、この気配、この熱。
意識が音の形を成す前に、敵意は輪郭を帯びている。
全身がそれを受け止める器官に変じていた。
切り返し。
回避の最小角を取ったはずの躯が、後方の影にぶつかる。
“避けた”のに“当たった”という矛盾。
判断の順序が一手、狂う。
その一手を、刈り取ろうとする気配。
即座に腰を落とし、影の下をくぐる。
天井すらないのに、圧迫されている錯覚。
それでも立ち上がる。
誰かが背後に迫っていた。
見ていない。
なのに“いる”と分かっていた。
手を伸ばせば何かに届く。
けれど、届かせた瞬間に、別の誰かの手が喉を掻く。
この場では、掴むことと殺されることがほとんど同義に近い。
膝が、熱を持ち始める。
息の詰まるような密度に、思考が滲む。
自分が今、何に追われ、何を斬っていたのか。
名前も、顔すら知らない敵意。
誰かが狙っていた。
誰かが潜んでいた。
誰かがすでに、失われた。
この足場の上に残されたすべてが、
敵か、それ以外か。
違いを識別する猶予すら、すでに残されていない。
指の関節が、僅かに折れる。
その程度の、わずかな角度を巡って、ひとつの命脈が決される場。
もはや呼吸が邪魔だった。
肺の動きさえ隙を招く。
そう理解しているはずなのに、口が勝手に空気を求める。
火照りきった喉奥が、風の流れすら刃のように感じる。
左方より来たる一閃。
それを避けるように、前へと飛び込む。
ただ一歩、それだけの動作が過剰な情報を引き寄せた。
視界に白。
高密度の織布。
軍服か、あるいは式典用の装束か。
脚部にかけて刻まれた意匠は幾何学的で、血のように濃い赤。
そこに滲む、倒れ伏す影。
その瞳が、既に閉じられていたか、見てはいない。
ただ、それが“いた”ことを眼が記録していく。
それでも足は止まらない。
次の敵意が既に気配を孕んでいた。
右からの踏み込み、指先の収束。
斬撃か、それとも掴みに転じる構えか。
判断のための時間が、全く足りていない。
間に合わないと直感した身体が、左肩から滑り込むように回避を選ぶ。
背筋を斬り抜けていく風。
際どい。
毛髪の一筋が浮き、肩甲骨の裏で熱を持つ。
反転。
掌を地に触れさせながらの旋回。
意識を抜く。
力を、抜く。
骨盤が軋み、筋が歪む。
痛みは、感覚としては記録されない。
ただ“破損”として、どこかで認識されているだけだった。
前。
すれ違った相手が、暗色の布を纏っていた。
古式。
どこか僧衣に似た印象。
飾り紐が翻り、首元に鉄片が垂れている。
振り向かない。
見れば遅れる。
右手を背に、返し手を仕込む。
だが、触れることは叶わず、その者は抜けるように去った。
駆ける。
否、滑っていた。
重力を殺すように、床を蹴らず、速度だけを加算していく術。
思考が裂かれる。
処理速度の限界。
見えていても、動きに反映できない情報量が視界に過積載されていく。
瞬間、黒。
風の切れ目のような衣が、前方を横切る。
肉厚の布、艶のある長髪、深緑の濃い瞳。
ただし、全てが断片。
輪郭はもう、把握できていなかった。
前方。
ひとりが崩れる。
理由は、視えない。
耳を奪われたのか、それとも、判断の遅れか。
名も、顔も、関係ない。
“残りが減った”という事実だけが、頭に突き刺さる。
踏み込む。
また一歩、また一歩。
足場の幅が減じている。
横滑りの誤差ひとつで、落命に等しい。
頭の奥で、何かが鳴る。
声か。
音か。
あるいは、自分の中の“限界”という語の形象か。
背後から息遣い。
誰かが追っていた。
追いつくつもりだった。
自分を選び、狙ってきた。
その意図だけが確かだった。
反応する余裕はなかった。
ただ、避ける。
逃げるのでも、追うのでもない。
この密度においては、立ち止まること自体が選択肢に含まれていない。
命を繋ぐとは、もはや“常に動き続けている”という状態の一語に集約されていた。
敵意。
気配。
踏み鳴らす靴底。
誰が仕掛け、誰が沈んだのか。
正確な記録はなされていない。
視界にはただ、動き続ける意志の断片だけが刻まれていた。