一歩の幅が、誤差の範疇に収まらなくなって久しい。
動きの精度を損なえば、すぐに意識が地面に触れる。
その地面が“下”ではなく、遥か彼方である可能性を孕んでいるという事実。
それだけが、この戦場の全てだった。
間断ない敵意。
ふたつ、みっつ。
どれもが一撃で耳を奪う意図。
あるいは命すら余波に巻かれる程の確度。
左腕をひねる。
肩甲骨の奥、裂けるような痛み。
反復する軌道のなかで既に摩耗しきった節の叫びが、外界の音を覆う。
視界の隅で、揺れ。
蒼。
誰のものか、分からなかった。
流れるように接近していたそれは、次の瞬間には斜め後ろへ抜け、床を蹴り、別の誰かへと軌道を変えていた。
右手に重み。
誰かの手首。
不意に触れた感触、細く冷えた皮膚。
即座に振り払い、後方へ跳ぶ。
跳びすぎた。
床板の切れ目、もしくは構造物の影。
そこを越えて着地した足裏が、わずかに“ずれた”。
全体が熱を帯びていた。
戦場の熱気、体温、擦過する風。
それらが混ざり合って、もはや外と内の区別がなかった。
皮膚感覚のあらゆる境界が曖昧になっていた。
故に、見落とす。
誰かが滑り込むように至近へ。
回避する。
ほんの数寸、頸を反らす。
咄嗟の判断。
それは“正しすぎた”のかもしれない。
身体を傾けたその瞬間、すべてが遅れた。
視界が、反転するようにして滑る。
床の縁。
かすかに乱れた模様。
足裏が接地すべきでない箇所に、完全に乗り上げていた。
気づいたときには、風の向きが変わっていた。
音が、下へ引きずられるように消えていく。
背中側の空間が、急速に“空”となり、重量が傾く。
立っているのではなく、"立たされていた"。
その理解が、遅れて脳髄へ到達する。
体幹の筋が悲鳴を上げる。
掴めるものはない。
目に映るのは、斜め下の光と、こちらを横目で見る誰かの影だけ。
落下という現象は、思ったよりも静かだった。
肩から順に力が抜けていく。
軸の外れた身体が、風に撫でられながら旋回する。
もはや抗わなかった。
己の重量が、下方へ引きずる圧のほうが、遥かに明確で、説得力があった。
ただ、重さに従った。
どこか、そうすることに理由が必要だとは思えなかった。
音が消えていた。
熱も、痛みも。
あれほどまでに乱雑に絡みついていた肉体の訴えが、今は何も語らない。
代わりに、思考だけが過剰に明瞭で、ひどくよく通った。
――まず、間違えた。
足運び、間合い、視界の選択。
些細な誤算が、複合していた。
誰を見ていたのか、どこを選んでいたのか。
最終的に敵意を退けることだけに意識が偏っていた。
風景の全体を検めていたはずの眼差しは、局所的な応酬に囚われていた。
赤髪の少女の、あの一撃。
奪ったのはこちらだった。
けれど、引き換えに何を落としたのか。
未だ耳の裏に残る熱。
彼女の眼差しが語っていたものは、戦意よりも深い“納得”の色。
――そもそも、なぜここまでして残ろうとしていたのか。
耳だけのためか。
順位のためか。
そのいずれも、今この無音の落下の中では、あまりに意味を持たなかった。
いくつかの名前が脳裏をかすめる。
戦場で見た面影、まだ見ぬ影。
声は思い出せないが、色と形は焼き付いていた。
橙の足場、あの密度。
誰もがもう限界だった。
けれど限界の手前で踏みとどまるだけの執着が、なぜか自分の中にはあった。
……あった、のか。
それすら定かではない。
輪郭を失った音が、膜越しに流れていく。
感情より先に、皮膚が沈んでいた。
深い水中に落ちていくような、そんな遅延と静けさ。
時間は、疑いようもなく伸びていた。
本来なら、二拍もあれば地に届く。
そのはずだった。
なのに、意識は地に触れず、ただ思考だけが、何周も同じところを巡っていた。
後悔というには、あまりにも静かな心。
ただ、淡く。
このままでも構わないのではないかという、妙に冷えた感覚。
濁りきった夜の水面に、そっと沈んでいくような諦念が、胸の裏側に張りついていた。
このまま、終わってもいいのか。
そう問う声すら、どこか遠い。
それすらも、自分のものとは思えなかった。
――せめて、痛みだけは覚えていたい。
最期に残る輪郭が、それならば。
かつて戦場と呼んだものの温度と重みを、せめて手の中に。
そう思いながら、ただ、落ちていた。
どこまでも、真っ直ぐに。
音も、光も、遠ざかっていくままに。