無声の耳籠   作:Tethys

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橙の足場-2

一歩の幅が、誤差の範疇に収まらなくなって久しい。

動きの精度を損なえば、すぐに意識が地面に触れる。

その地面が“下”ではなく、遥か彼方である可能性を孕んでいるという事実。

それだけが、この戦場の全てだった。

 

間断ない敵意。

ふたつ、みっつ。

どれもが一撃で耳を奪う意図。

あるいは命すら余波に巻かれる程の確度。

 

左腕をひねる。

肩甲骨の奥、裂けるような痛み。

反復する軌道のなかで既に摩耗しきった節の叫びが、外界の音を覆う。

 

視界の隅で、揺れ。

蒼。

誰のものか、分からなかった。

流れるように接近していたそれは、次の瞬間には斜め後ろへ抜け、床を蹴り、別の誰かへと軌道を変えていた。

 

右手に重み。

誰かの手首。

不意に触れた感触、細く冷えた皮膚。

即座に振り払い、後方へ跳ぶ。

 

跳びすぎた。

床板の切れ目、もしくは構造物の影。

そこを越えて着地した足裏が、わずかに“ずれた”。

 

全体が熱を帯びていた。

戦場の熱気、体温、擦過する風。

それらが混ざり合って、もはや外と内の区別がなかった。

皮膚感覚のあらゆる境界が曖昧になっていた。

 

故に、見落とす。

誰かが滑り込むように至近へ。

回避する。

ほんの数寸、頸を反らす。

咄嗟の判断。

それは“正しすぎた”のかもしれない。

 

身体を傾けたその瞬間、すべてが遅れた。

視界が、反転するようにして滑る。

床の縁。

かすかに乱れた模様。

足裏が接地すべきでない箇所に、完全に乗り上げていた。

 

気づいたときには、風の向きが変わっていた。

音が、下へ引きずられるように消えていく。

背中側の空間が、急速に“空”となり、重量が傾く。

 

立っているのではなく、"立たされていた"。

その理解が、遅れて脳髄へ到達する。

 

体幹の筋が悲鳴を上げる。

掴めるものはない。

目に映るのは、斜め下の光と、こちらを横目で見る誰かの影だけ。

 

 

 

落下という現象は、思ったよりも静かだった。

 

肩から順に力が抜けていく。

軸の外れた身体が、風に撫でられながら旋回する。

もはや抗わなかった。

己の重量が、下方へ引きずる圧のほうが、遥かに明確で、説得力があった。

 

ただ、重さに従った。

どこか、そうすることに理由が必要だとは思えなかった。

 

音が消えていた。

熱も、痛みも。

あれほどまでに乱雑に絡みついていた肉体の訴えが、今は何も語らない。

代わりに、思考だけが過剰に明瞭で、ひどくよく通った。

 

――まず、間違えた。

 

足運び、間合い、視界の選択。

些細な誤算が、複合していた。

誰を見ていたのか、どこを選んでいたのか。

最終的に敵意を退けることだけに意識が偏っていた。

風景の全体を検めていたはずの眼差しは、局所的な応酬に囚われていた。

 

赤髪の少女の、あの一撃。

奪ったのはこちらだった。

けれど、引き換えに何を落としたのか。

未だ耳の裏に残る熱。

彼女の眼差しが語っていたものは、戦意よりも深い“納得”の色。

 

――そもそも、なぜここまでして残ろうとしていたのか。

 

耳だけのためか。

順位のためか。

そのいずれも、今この無音の落下の中では、あまりに意味を持たなかった。

 

いくつかの名前が脳裏をかすめる。

戦場で見た面影、まだ見ぬ影。

声は思い出せないが、色と形は焼き付いていた。

橙の足場、あの密度。

誰もがもう限界だった。

けれど限界の手前で踏みとどまるだけの執着が、なぜか自分の中にはあった。

 

……あった、のか。

それすら定かではない。

 

輪郭を失った音が、膜越しに流れていく。

感情より先に、皮膚が沈んでいた。

深い水中に落ちていくような、そんな遅延と静けさ。

 

時間は、疑いようもなく伸びていた。

本来なら、二拍もあれば地に届く。

そのはずだった。

なのに、意識は地に触れず、ただ思考だけが、何周も同じところを巡っていた。

 

後悔というには、あまりにも静かな心。

ただ、淡く。

このままでも構わないのではないかという、妙に冷えた感覚。

濁りきった夜の水面に、そっと沈んでいくような諦念が、胸の裏側に張りついていた。

 

このまま、終わってもいいのか。

そう問う声すら、どこか遠い。

それすらも、自分のものとは思えなかった。

 

――せめて、痛みだけは覚えていたい。

最期に残る輪郭が、それならば。

かつて戦場と呼んだものの温度と重みを、せめて手の中に。

 

そう思いながら、ただ、落ちていた。

どこまでも、真っ直ぐに。

音も、光も、遠ざかっていくままに。

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