首刈コリス   作:ことのはだいり

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今回は下ネタ注意です。
例のチョコパフェよりは前になります。


第19話 Resistance is futile, I have a taste for martial arts

「ああもう! 掃除の邪魔です!」

 

 いつものように千束の部屋を掃除していたたきなが、いつもと違ってこの日は千束に文句を言った。

 映画好きの千束は日々新しい映画のDVDを購入しては視聴が追いつかずに積み上げていたのだが、掃除機をぶつけるたびに崩れるそれがついにたきなの逆鱗に触れたのだ。

 

「今日中に片付けてください! 床に放り出してあるものはゴミと見做して捨てますからね!」

 

「へ〜い」

 

「あと机の上に積むのも駄目ですから!」

 

「ア〜イコピ〜」

 

 恐妻に脅された千束は渋々といった様子で映画を視聴済みのものと未視聴のものに分類していく。

 千束は複数のセーフハウスを所有しているので、未視聴のものは今いる部屋に残し、視聴済みのものは全て別のセーフハウスに避難させるつもりなのだ。

 

「これはまだ観てないやつ〜、これは観たけどもっかい観たいやつ〜、これは〜……あっ、やべ」

 

「ゴキブリでも出ましたか?」

 

「違わい」

 

 千束が発見したものは随分前にこりすに借りた超希少映画だ。

 発売当初は知名度がなく生産数が少なかったその映画のDVDは後年になってネット上で謎のブームを起こしたために現存数不明の幻の品として異常な値段で取引されるようになった。

 資金力に物を言わせてその映画を入手したこりすは千束の好感度稼ぎを目的に無償で貸してくれたのだが……ネットの住民達の特殊な感性を理解できなかった千束はそれを視聴しても微妙な映画という印象しか抱けず、すっかり興味を失って床に放り出したまま忘れてしまったのだ。

 

「これこりすから借りてたやつなんだわ。返しに行かなきゃだから片付けはまた今度ってことで……」

 

「駄目ですよ。私が代わりに行きますから、千束は片付けを続けてください。いいですね?」

 

「いやでも……」

 

「いいですね?」

 

「……はい」

 

 背後から撃たれた銃弾さえも回避する類稀なる危機察知能力を有する千束はここで余計なことを言うと大切な映画コレクションを全て捨てられかねないと予見して片付けに専念することにした。

 

「そういうわけなので、今から返しに行きます。今どこにいますか?」

 

『神社にいますわ。ですけど千束さんが来られないのであれば後日でも構いませんわよ?』

 

「いえ、残しておいても邪魔ですから引き取ってください」

 

 そしてこりすに連絡してから千束の代理として映画を返しに向かったたきなは、祭りの時に訪れたことがあったのでこりすが拠点としている神社の場所こそ知っていても、こりすが地上の古めかしい木造建築ではなく地下に増築した空間に住んでいることを知らなかったためにあてもなく境内を彷徨うことになった。

 この時、たきなはリコリス制服姿であった。

 

「ちょっと、そこのリコリス」

 

 学生服に似せたリコリス制服は、リコリスの存在を知らない者に対しては着用者の無害性を主張してくれるが、知っている者の目には剥き出しの凶器と遜色なく映ってしまう。

 知らない声に正体を呼ばれた瞬間は驚いたたきなであるが、想定外が起きても騒がず冷静に状況を把握せよというジンの教えを思い出し、落ち着いて声の主の姿を確認した。

 たきなに声をかけた青い髪の小女はいわゆる巫女の装いで、手には竹箒を持っている。

 おそらく青髪少女は通りすがりの参拝客ではなくこの神社の職員で、リコリコにおけるミズキやクルミのような補助人員的立場であるためにリコリスのことを把握しているのだろうとたきなは判断した。

 

「……何でしょうか?」

 

 だとすれば敵ではないはずなので、たきなは努めて穏便に青髪少女の用件を尋ねた。

 

「何だはこっちの台詞よ。リコリスがこんなとこに何しに来たわけ? 流血沙汰ならよそでやりなさいよ」

 

 たきなは青髪少女から強い警戒心を感じ取った。

 昔のたきなであれば理解できなかっただろうが、千束のおかげでリコリスとして生きていたら知ることのなかった一般的な感性を学んだ今のたきなには青髪少女が警戒する理由がわかる。

 

「大丈夫です。任務で来たわけではありませんから」

 

 この表面上の平和を取り繕った国において、普通の人間は身近で銃撃戦なんて起こしてほしくはないのだ。

 

「あっそ。ならお参り? 賽銭箱はあっちよ」

 

 たきながリコリスとしてではなく個人的な用事で来たと知った青髪少女は少しだけ警戒心を緩めたらしく、目的地を伝えれば広い境内を案内してくれそうなので、これ幸いとたきなは事情を明かすことにした。

 

「いえ、実はこりすさんに用事がありまして」

 

「……あいつに用事ぃ?」

 

 青髪少女が訝しむように目を細めた。

 

「はい。借りていた映画を返しに来ました」

 

 たきなの用件を知った青髪少女はますます目を細めた。

 

「……あいつが映画なんか貸すなんて、あんたあいつとどういう関係なわけ?」

 

 青髪少女がこりすにどんな印象を抱いているのかは不明だが、こりすがたきなに映画を貸したという勘違いは青髪少女を酷く混乱させているようだ。

 

「借りたのは私じゃなくて、私と一緒に暮らしている千束という人で……」

 

 リコリコ生活で多少は改善されても相変わらず融通が利かないたきなは律儀に正しい経緯を説明しようとして千束の名前を出してしまった。

 

「は? 一緒に暮らしてる? 千束さんと?」

 

 その瞬間、青髪少女から放たれたのは、たきなに反射的に拳銃を構えさせるほどの強者の圧だった。

 青髪少女……古長蘭子は元セカンド・リコリスで、かつてはたきなと同様にファースト・リコリスである春川フキと組んで活動していた。

 ファーストと組めるのはファーストの足を引っ張ることがないよう暗殺だけではなく直接戦闘もある程度こなせるセカンドだけで、蘭子もリコリスとしては珍しく非凡な格闘能力を有していたのだが、彼女の真の才能が花開いたのはリコリスを辞めてからだ。

 銃を所持できなくなった非力な女子が己の身一つでできる自衛手段を探し求めて、リコリス時代は射撃練習に費やしていた時間を全て注ぎ込んで磨き抜かれた格闘の技が、蘭子をかつて届かなかった高みに昇らせたのである。

 

「それ、出したからには殺すから」

 

 たきなが両手で持った拳銃の引き金を引くよりも早く、蘭子が竹箒の柄でたきなの手を下から叩き上げた。

 正確な射撃が強みのお前が銃を失えば一気に不利になるので何があっても手放すなとジンに教え込まれていたたきなは激痛を感じながらも拳銃を吹き飛ばされることは避けた。

 それでも両腕は真上に跳ね上げられてしまい、がら空きとなったたきなの腹に蘭子が掌底を押し付けた。

 

「はっ!」

 

 そして放たれた蘭子の必殺の一撃は、少女の純粋な腕力だけでは決して実現できない衝撃を放つ、全体重を威力に転換した技術の極致……発勁だ。

 身体の表面ではなく体内に衝撃を浸透させる蘭子の発勁は標的の立ち位置を動かさずに内臓だけを揺らして破裂させる。

 だから本来であればその場で血を吐きながら崩れ落ちるはずだったのに、不可解なことにたきなはまるで自動車に衝突されたかのような勢いで遠くに吹き飛んでいった。

 

「このっ……小賢しい真似を!」

 

 蘭子はたきなが何をしたのか即座に理解した。

 先程の発勁が命中した瞬間、たきなは自ら地面を蹴って後ろに跳んだのだ。

 これにより内臓を揺らすはずだったエネルギーを後方への運動エネルギーに変換して蘭子と距離を離すことに成功したたきなは、腹部の痛みに耐えながら蘭子へと淀みなく正確に狙いをつけて、躊躇なく発砲した。

 面積が小さい上に可動域が広くて射線上から逃がしやすい頭部ではなく、面積が大きい上に無理に射線上から退避させようとすれば確実に体勢を崩す胴体の中央、臍の真上へと放たれた銃弾に対して、千束のような特別な回避能力を持たない蘭子はただ愚直に正面から突き進んだ。

 蘭子はかのチョモランマッチョやこりすの護衛たちのような銃弾を弾く鋼の筋肉など持ち合わせていない常人であり、通常であれば致命傷は避けられないはずだった。

 それを覆したのは、蘭子が世界で一番嫌いな人間から持たされていたお守り……開発者であるこりすも常用している飛来物停止結界展開装置だ。

 

「止まっ……!?」

 

「跳ね返らなくなってて良かったわね!」

 

 かつては銃弾を停止させるだけでは飽き足らず跳ね返してくる脅威の装置だったが、跳ね返した流れ弾で想定外の死人を出したら千束に嫌われるからとこりすが現在の仕様に変えたのだ。

 なおこの装置で深手を負った経験のある蘭子は自分が使う側になった後での弱体化が不愉快極まりなかった。

 

「どっちにしてもあんたは終わりだけどね!」

 

 誰かを殺そうとすれば返り討ちにあって自分が殺される可能性もある。

 そのことをあの忌々しいこりすによって今なお残る腹の傷と共に心に刻み込まれた蘭子は二度と自分から他者を殺傷しまいと誓った。

 しかし蘭子が何もしていないのに殺そうとしてくる輩については別だ。

 機密保持のために足抜けした元リコリスをリコリスの標的にしそうな楠木も、詳しくは知らないが国がリコリスを消す場合の実行役で実際に千束を襲撃したリリベルも……なんか急に銃口を向けてきた目の前のリコリスも、害することに何を躊躇する必要があろうものか。

 

「死いいぃぃぃ……………ねぇぇえええ!」

 

 格闘技の間合いまでたきなに接近した蘭子がとどめの一撃に選んだのは、先程と同じ方法で対処されかねない発勁ではなく、上下を逆に持った竹箒による刺突だ。

 実は鉄製ということはなく、先端が鋭利に削られているわけでもない竹の棒で突かれたところで防弾リコリス制服は貫通できないはずである。

 しかし不思議と自分の心臓を貫かれる光景が鮮明に思い浮かんだたきなは、咄嗟に銃を持っていない方の手で背負っていた鞄を引っ張り、蘭子の攻撃に鞄と腕の二重の盾を割り込ませた。

 それがたきなの命を救った。

 

「ゔっ!」

 

「ちっ!」

 

 防弾バルーンを膨らまさせる猶予はなく、完全に鞄の硬さのみで竹の棒と衝突した結果は、竹の棒の圧勝であった。

 鞄を中身ごとあっさり貫通してなおも竹の棒は止まらず、たきなの腕を強く打った。

 それによる衝撃と痛みは鞄が勢いを削いでいなければ防弾リコリス制服すらも貫通していたことをたきなに確信させた。

 

「あ゙あ゙っ!」

 

 酷く痛む腕を気力で強引に動かして、たきなは鞄ごと竹箒を遠くに投げ捨てた。

 これで蘭子は無手。

 対するたきなはまだ拳銃を持っていて、今しがた蘭子の胸の中心に銃口を密着させた。

 

「……撃ちなさいよ」

 

 敗北を認めて観念したかのような言葉を口にしながら、蘭子は不敵に笑った。

 

「……撃ったら、どうなりますか?」

 

 追い詰めているはずなのに追い詰められた者の声音でたきなが尋ねた。

 

「詳しい仕組みは知らないけど、拳銃の中で発射されてから着弾するまでの間にちゃんと止まるらしいわよ。それで散らされたエネルギーで拳銃ごと指が吹き飛ぶとか……試してみてよ」

 

 握り拳を振り上げながら言う蘭子に、たきなは力なく笑いながら「嫌です」と答えた。

 もはや逆転の可能性は残されていなかった。

 

          ◯

 

 千束さんに貸していた映画を返すためにたきなさんが私の拠点を訪ねてきました。

 拠点内には大量の防犯カメラを設置してあるので私はたきなさんの到着にすぐ気付きました。

 しかし私がどこにいるのか分からなくて右往左往するたきなさんがあまりにも滑稽で面白いものですから、あえて迎えに行くことなく防犯カメラ越しに眺めていました。

 私の行為は陰湿でしょうか?

 いいえ、本当に陰湿なのは千束さんのために苦労して調達した希少な映画をわざわざ自分が千束さんと同棲中であることを主張するために千束さんに代わって返しに来たたきなさんです。

 返しに来たのが千束さんであれば映画の感想を聞くという名目で拠点内に連れ込んで色々できたのに……井ノ上たきなぁ!

 あ〜もう本当に嫌いです不愉快です電波塔の頂に吊るしてあげたいです吊るしましょう、と監視映像を睨みながら泥棒猫抹殺計画を構想していた、その時です。

 

『それ、出したからには殺すから』

 

 たきなさんが悪癖で気安く銃を抜いたのを発端に蘭子さんと殺し合いが始まりました。

 もちろん私はこの場に限り蘭子さんを全力で応援しました。

 ジンさんに鍛えられたたきなさんは大量生産されるリコリスゆえの粗を矯正されてプロの暗殺者と呼べるだけの実力を身に着けました。

 しかし、それも所詮は暗殺者としての強さです。

 至近距離で正面から敵と相対して、逃げるのではなくそのまま殴り倒そうなどと無謀な試みをしたのなら、待っているのは敗北だけです。

 いえ……まあ、蘭子さんが飛来物停止装置を持っていなければ割と勝ち目は大きかったのかもしれませんけど、それは結果論です。

 たきなさんは蘭子さんに追い詰められ、このまま他者の介入がなければ一方的に殴り殺される窮地にあります。

 きっともうすぐたきなさんの頭が潰れたトマトのようになることでしょう。素敵ですね。

 さて、勝敗が確定してひと息ついたことで冷静になった私は、ここでふと思い至りました。

 私の監督下にある蘭子さんがたきなさんを殺したら、千束さんは私を責めるのでは?

 監督不行を責められるだけならまだしも、最悪の展開としては私の命令で殺したと疑われるかもしれません。

 ……たまったものではありませんね。

 

「タンドリー」

 

「はーい!」

 

 戦闘中に連絡を入れても止まるとは思えないので、たきなさんよりも強い蘭子さんよりも強いタンドリーを乱入させて強引に止めてしまいましょう。

 私は監視映像中の蘭子さんを指差します。

 

「外に出て蘭子さん……この白い服の人間を優しく蹴り飛ばしてください」

 

 ここで青い髪を目印にすると、タンドリーの物覚えの悪さでは髪と服を間違えて、青に見えなくもないセカンド・リコリス制服姿のたきなさんを蹴り殺す心配があります。

 蘭子さんが殺すよりも状況が悪化するので指示の内容には気を付けました。

 ちなみに蘭子さんを殺してしまってもロボットとすり替えれば済むので問題ありません。

 千束さんとの交流が深いたきなさんをすり替えると本物との些細な違いに気付かれる可能性が高いですが、千束さんとあまり会わないようにさせている蘭子さんであれば大丈夫です。

 

「わかりました! いってきまーす!」

 

 タンドリーが目にも留まらない速さで部屋から飛び出していきました。

 行き先はすぐそこなのに勢い余って通り過ぎないか心配です。

 

「カリス様!」

 

「なぜ俺ではなくタンドリーにやらせるんですか!?」

 

 護衛隊の誰か一人に任務を与えると他の二人が嫉妬します。

 いつものことなので特に不快に思うことなく対処します。

 

「アンドリュー。ポンジョルノ。ここに残って私を守ることに何か不満でもありますか?」

 

 二人が声を揃えて「ありません!」と叫び、音圧で部屋が揺れました。

 

「でしたらおとなしく私の護衛に集中しなさい」

 

 うるさいと率直に言うとまた面倒なことになるので、言葉を選んでそう言ってあげれば二人はそれ以上何も言いません。

 さて、これでこちらは落ち着きましたけど、タンドリーは……良かった、迷子にならずに到着していたようです。

 意外なことに蘭子さんはタンドリーの初撃を凌いだようで、今も五体満足で立っています。

 たきなさんも残念ながら無事です。

 ジンさんの教育の賜物でしょうか、たきなさんは蘭子さんが隙を見せても欲を出して戦闘を継続することなく迅速な撤退行動に移りました。

 

『蹴る! 蹴る!』

 

『うわっ、ちょっ、このっ!』

 

 蘭子さんを蹴り飛ばせという命令を達成するためでしょう。

 たきなさんが立ち去った後もタンドリーは執拗に蘭子さんを蹴ろうとして、その全てを受け流されています。

 柔道というやつでしょうか?

 それとも合気道?

 武術についてはあまり詳しくないのですが、とにかく腕力ではなく技術によって蘭子さんはタンドリーの圧倒的な暴力に対抗できています。

 

『朱雁こりすぅ! なんで鳥女が襲ってくんのよ!? どうせどっかで見てんでしょ! 早く止めなさいよ!』

 

 私への文句を叫ぶ余裕すらあるなんて大したものですね。

 それだけに惜しいです……蘭子さんをぶつければたきなさんを確実に抹殺できるのに、蘭子さんと私との関係が千束さんに把握されているせいでそれができないなんて。

 

『蹴蹴蹴……キィィィィィアァァァァァ!』

 

 興奮して人の言葉を忘れつつあるタンドリーの攻撃が苛烈になっていきます。

 まあそれはいいとして……どうにか千束さんにばれることなく蘭子さんにたきなさんを殺害させることはできないでしょうか。

 

『こんのぉ! 闇雲に暴れるしか能がない動物風情が人間様に勝てると思うなぁ!』

 

 蘭子さんはそう叫んで己を鼓舞していますが、今の時代になっても人間にとって野生動物は十分な脅威です。

 例えばこの国でよく出現する熊は銃を持つ猟師すらも返り討ちにすることがあります。

 銃でそれなら刃物ではもっと厳しく、素手なんてもはや勝ち目が皆無と断言してもいいほどです。

 たきなさんを動物園の猛獣がいる檻に閉じ込めてしまえば……熊……いえゴリラで……。

 

『あああああ! 朱雁こりすぅぅぅぅう! 絶対……絶対化けて出てやる!』

 

 あ、そろそろ蘭子さん限界ですね。

 体力が尽きて動きが鈍れば受け流しは不可能になるのでしょう。

 

「タンドリー、おやつにしましょう」

 

 殺しても問題はないですが殺す理由もないので助けてあげることにしました。

 

『おやつ!?』

 

 おやつのことで頭が満杯になったタンドリーは蘭子さんへの興味を完全に失って動きを止めました。

 

「今から作るので、走らずゆっくり戻ってきなさい」

 

『わかりました! すぐ戻ります!』

 

 タンドリーが走り出しました。

 あの様子では猶予は皆無です。

 

「蘭子さんは責任を持って後始末をしてくださいね。特に銃弾の回収は怠らないように」

 

 私は早急におやつの用意をしなければなりませんから、息も絶え絶えになって座り込んだ蘭子さんに戦場の片付けを命じておきます。

 祭りでもなければ人の出入りが少ない神社といっても、まったく参拝客がいないわけでもないので、戦いの痕跡は消しておく必要があります。

 

『はっ? 暴れたの鳥女とリコリ』

 

 私は通信を打ち切りました。

 

          ◯

 

 死地から逃走したたきなは千束のセーフハウスに逃げ込んだ。

 

「……はぁ……はぁ……」

 

「たきなおかえりー。どったのそんなに息切らせて。まさか千束さんに会いたくて全力疾走しちゃった?」

 

 茶化しながら千束が冷蔵庫からミネラルウオーターのペットボトルを渡してくれたので、たきなはありがたくそれに口をつけ、中身の半分ほどを勢いよく飲み干した。

 

「はぁ……ありがとうございます」

 

「どういたしまして。あっ、それしまっとくからパース」

 

 たきなからペットボトルを受け取った千束は自然な動きで自分も水をひと口飲み、それから冷蔵庫に戻した。

 

「でぇ? こりすんとこでなんかあった?」

 

「それが……あの神社でこりすさんを探していたら、巫女の格好をした青い髪の女性に声をかけられて……その人に銃を向けたら襲われて」

 

「おいまてなぜ向けた」

 

 千束に言われてたきな自身もなぜ自分はあの場面で銃を抜いてしまったのかと疑問に思う。

 

「それは、その…………………………なんか強そうだったので、つい」

 

 反射的に銃を抜いてしまった理由をうまく言語化できず、たきなは妙なことを口走ってしまった。

 

「えぇ……なにそのバトルジャンキーみたいな理由」

 

「反省してます」

 

 喫茶リコリコ暮らしのおかげでどんな理由があっても任務の標的以外に銃を向けるのはよくないことだと理解できるだけの社会常識を学んだたきなには言い訳のしようがなかった。

 

「それで、ぼこっちゃってから怖くなって逃げ帰ってきたって感じ? なら私が付き添ってあげるから今すぐ謝りに行こ?」

 

「轢き逃げ犯じゃないんですから……だいたい向こうは傷ひとつついてませんよ。私が一方的にやられましたから」

 

「えっ!? たきな大丈夫!? どこか怪我とか……」

 

 そういえば腕に痛打を受けていたなと今になって思い出したたきなが袖をめくって確認すると、そこは赤く腫れ上がっていた。

 

「ちょっ、手当て手当て! とりあえず冷やすよ!」

 

「手伝います」

 

「怪我人はおとなしく座ってろ!」

 

 言われた通りに座って千束が慌てて氷嚢を用意する様子を眺めながら、手持ち無沙汰なたきなは先程の戦いを思い返す。

 格闘能力においてたきなは青髪巫女に劣っていたが、それでも銃が通用すれば勝てていた。

 だから今回は相手が悪かっただけ……と言い訳をするわけにはいかない。

 青髪巫女やこりすが扱う銃弾停止装置ほどの特殊な装備はなくても、かつて千束が倒したブルドッグのように強固な防弾装甲で身を守る敵は決して珍しくないのだ。

 

「千束」

 

「どした?」

 

 銃に頼らず敵を倒すために必要なのはやはり格闘技術だ。

 それは銃による暗殺が本分のリコリスとしての訓練ではあまり力を入れない分野であり、暗殺に失敗して格闘戦にもつれ込むのはファースト・リコリスとしてありえないという考えからジンも指導しようとはしなかった。

 身体を鍛えて筋肉質になればリコリスとして擬態すべき無力な少女からかけ離れるという不都合もあり、目指す先がファーストであれば不要なはずなのだが、それでも求めずにいられない。

 なぜならたきなは、千束の相棒なのだから。

 

「私に寝技を教えてください」

 

 鍛錬に費やせる時間には限りがあるのだから地道な筋力向上をしなくても威力を出せる関節技を学ぶべきだとたきなは考えた。

 

「えっ、寝技…………………………えっ?」

 

 そして言い回しが悪かったために千束はその場で氷嚢を落とした。

 袋から飛び出た氷は床に散らばった。

 

「ごめん聞き間違えたみたいだからもっかい言って」

 

 慌てて氷を拾い集めながら、自分の耳を疑った千束は冷静に確認の質問をした。

 

「寝技を教えてください」

 

 聞き間違えではないと理解して、氷を拾う手が止まった。

 

「…………………………本気?」

 

「必要ですから」

 

 さて、話は変わるがこの錦木千束という女、実は以前に同性を対象とした夜の寝技について学んでおきながら、それを長らく実践できずに本番への興味ばかりを膨らませてきた。

 それはもう、寝技と聞いて真っ先に夜の寝技を思い浮かべる程度には欲求不満だった。

 

「いいんだな!? 今からたきなに寝技かけちゃうけど、ほんとにいんだな!?」

 

「身体で覚えろということですか? ぜひお願いします」

 

 何より錦木千束は井ノ上たきなが大好きだ。

 きっかけを与えられたのなら、もう止まれない。

 

「たっ……たきなぁっひゃあ!?」

 

 たきなに駆け寄って押し倒そうとした千束は床に落ちていた氷を踏んで足を滑らせた。

 

「わっ、ちょっ……うっ!?」

 

 たきなは飛び込んできた千束を受け止めようとしたが、腕の痛みのせいで力が入らず、そのまま床に押し倒された。

 仰向けのたきなとうつ伏せの千束が重なる。

 互いの鼻先が触れ合い、瞳に映るのはそれぞれが一番大切に思っている女性の潤んだ瞳だけ。

 

「たきな……いくよ」

 

 そして関節技の指導をしてくれるのだと思っておとなしくしているたきなの唇に、千束の唇がゆっくりと触れる……よりも先に電話の着信音がけたたましく鳴り響いた。

 

「誰じゃこの大事な時に電話かけてくる奴はぁ!」

 

 無視して続行できなくもなかったが、せっかくの初体験に雑音が入っては台無しなので、千束は泣く泣く行為を中断して電話に出る。

 

「もしもしぃ!?」

 

『もしもし千束さん? こりすですわ』

 

「はいはいそんで用件は!? くだんないことなら許さないからな!」

 

 千束の理不尽な怒りを電話越しにぶつけられたこりすは困惑しながらも電話を切ることなく話を進める。

 

『たきなさんが蘭子さんと揉めたことはご存知でして?』

 

「たきなに聞いたよ。それで?」

 

『その際にワタクシが千束さんに貸していた例の映画が粉砕されましたの』

 

「……って言ってるけど」

 

 至近距離で行われていたおかげで会話内容を聞き取れていたたきなの顔が青褪める。

 

「鞄に入れてたので……すみません」

 

 つまり映画は鞄ごと竹箒で貫かれて粉々になったのである。

 

「あ〜……ごめんそれは私からも謝る」

 

『千束さんの謝罪は不要でしてよ。罪を償うべきはたきなさんか、手を下した蘭子さんですわ』

 

「いえ、あれは先に銃を出した私が悪かったので」

 

 たきなは全面的に自分の非を認めるつもりだったが、なぜかこりすは話をそこで終わらせようとしなかった。

 

『いいえ、リコリスであるたきなさんが危険人物と判断した相手に銃を向けることには正当性がありましてよ。その一方でリコリスではない蘭子さんがたきなさんを殺傷しかけたのは大きな問題ですわ。ですからワタクシとしては蘭子さんに責任をとっていただきたいと思ったのですが……本人がどうしても納得できないと言うので、ここはひとつ決闘で白黒つけるというのはいかがでして?』

 

「いやだからこっちが悪いってことでいいって」

 

『たきなさん! まさかお逃げになりませんわよね!? ファーストを目指す者が引退したセカンド・リコリスから逃げるだなんて、ありえませんわよね!?』

 

「やります」

 

「たきなぁ!?」

 

 わざとらしく大声で話すこりすの挑発にたきなは即決で乗った。

 青髪巫女……蘭子が元セカンド・リコリスだったと知ったからではない。

 今になって映画粉砕の責任から逃れたくなったわけでもない。

 たきなが決闘に同意した理由、それは格闘能力において自分よりも格上の蘭子ともう一度戦うことで今の自分に足りないものが掴めそうな予感がしたからだ。

 

『それでこそですわ。場所はワタクシの神社、リコリスの任務とは無関係の私闘につき互いに武器の使用は禁止としますわ。よろしくて?』

 

「かまいません。ですが数日の猶予をください。千束に寝技を教えてもらうので」

 

「あっ、ちょっ、たきな!」

 

 それを明かしたらこりすは確実に妨害してくるだろうと懸念して慌てる千束であったが、意外にもこりすが騒ぎ立てることはなかった。

 

『寝技? ……ああ、関節技のことをそう言いますのね』

 

 こりすは寝技が何を意味しているのか知らず、ネットか何かを使ってその場で調べたらしい。

 そしてそのやり方では夜の寝技に辿り着けず、正しくたきなの意図する寝技を理解したのだ。

 

「……関節技?」

 

 ここでようやく、千束も自分の寝技の解釈が間違いだったかもしれないと思い始めた。

 

「はい。あの人に正面から力で対抗するのは無理そうなので」

 

 続くたきなの返答で、千束は自分の勘違いを確信して、恥ずかしさのあまり全身が沸騰した。

 

『そういうものをこの国では付け焼き刃と言うのではありませんの?』

 

「かもしれません。ですが、今すぐに再戦しても私の敗北は確実ですから」

 

『潔いですわね。その潔さに免じて、お望み通りの猶予を差し上げますわ。細かい日程調整はまたリコリコで会った際にいたしましょう。では、失礼しますわ』

 

 こりすが通話を切った。

 

「では、寝技をお願いします」

 

「……よく考えたら腕怪我してんのにできるわけないだろ! 明日からね!」

 

 そして千束も、たきなにかける寸前だった寝技を打ち切った。

 

          ◯

 

 私と蘭子さんの仲はよくありません。

 それでも共通の敵を前にすれば利害の一致から協力できるのです。

 蘭子さんがごねたことを理由に提案した今回の決闘は、実際には私の発案です。

 その目的は蘭子さんにたきなさんを痛めつけさせるため……というのもありますけど、本命は別にあります。

 

「では、手はず通りにお願いしますわ」

 

 工事のためと偽って一般人の立ち入りを禁じた神社の、多少暴れても問題のない広い空間に立ってたきなさんの到着を待つ蘭子さんに、私は声をかけました。

 

「あんたの言うこと聞くのは癪だけど、これもあのリコリスを千束さんの近くから排除するため。やってやるわよ」

 

 一緒にリコリスをやめて介護職に転職した他のファレノプシスの少女たちが異性との恋愛にうつつを抜かす中、唯一千束さんへの憧憬を捨てられなかったのが蘭子さんです。

 私が千束さんと同棲するたきなさんを嫌っているように、蘭子さんもたきなさんのことが気に入らないのです。

 作戦を説明したところ蘭子さんは快く従ってくれました。

 

「気合い十分ですわね。そんな蘭子さんにさらなるやる気を出していただけるよう、こちらの皆さんを呼んでおきましたわ」

 

「蘭子さーん!」

 

「応援にきました!」

 

 たきなさんの到着に先んじて現れたのは蘭子さんの元同僚である訪問介護業者ファレノプシスの少女たちです。

 蘭子さんのために、というよりもたきなさんに対してスポーツにおけるアウェーの状況を作り出すために呼び出しておきました。

 ちなみにファレノプシスは百人以上いるのに、呼べたのは十人程度です。

 前職の経験から死臭と暴力に慣れているために普通の介護職が嫌がる現場でも平然と職務を遂行できる若い女性の訪問介護は高い料金設定でありながら大変好評で、ファレノプシスには休暇中の者を除いて来られる人がいませんでした。

 もちろん休暇中の者を動員するにあたって特別手当も出しています。

 

「あんたたち! 久しぶりね!」

 

 蘭子さんとしても親しい元同僚の声援は頼もしいでしょう。

 これでこちらの迎撃準備は万全です。

 さらには私の用意した必殺の罠まであるのですから、計画の成就はもはや確定したも同然でしょう。

 そういうわけなので大勢の他人が内輪で盛り上がっているこの居づらい空間に居座る理由がなくなった私はそそくさと地下の監視室に逃げ込みました。

 そこで監視カメラを眺めてしばらくすると、予定通りたきなさんが単独で姿を現しました。

 千束さんは付き添いを希望しましたが、千束さんがたきなさんを応援すると蘭子さんのやる気が削がれるという理屈で断りました。

 その代わりに私が余計な横槍を入れていないと証明するために生配信で監視カメラの映像を送り届けることになっていますので、たきなさんの様子は喫茶リコリコにいる千束さんの目に今もしっかり入っています。

 そして、それは私にとっても好都合です。

 

『あんた、誰彼構わず撃ち殺そうとするからってDAをクビになったんですって? 今回も嬉々として決闘の話に乗っちゃって、とんだ狂犬ね! どこぞの殺人鬼もここまで血に飢えちゃいないわよ!』

 

 観客たちの輪の中心で決闘に挑む二人が向き合い、まずは蘭子さんが軽く挑発しました。

 

『この前いきなり銃を向けたことは謝ります。ごめんなさい』

 

 たきなさんは挑発には乗らず、静かに深々と頭を下げました。

 

『……ふん、リコリスにしては常識的な方みたいね。それなのになんで決闘は拒まなかったわけ? 元リコリスなんかに現役のリコリスが負けてちゃDAの面子が立たないからって楠木に強要されたの?』

 

『いいえ。この戦いは私の意思……私が千束の相棒であるために、私はあなたを超えます!』

 

『……やってみなさいよ! やれるもんならね!』

 

 かくして私の宣言もなく決闘が開始されました。

 先に動いたのは蘭子さんで、たきなさんはその場から動かずに迎撃する構えです。

 きっとたきなさんは前に言っていた通り千束さんから関節技を習っていて、それを用いたカウンターを試みているのでしょう。

 なんとも愚かなことです。

 

『舐めんな!』

 

『あっ!?』

 

 たきなさんの付け焼き刃の小細工は、蘭子さんの洗練された正拳突きによって正面突破されました。

 そこから仰向けに倒れたたきなさんに蘭子さんがまたがって、いわゆるマウントポジションとなります。

 

『さぁて……正直こうなったらすぐにでも終わらせられるんだけど、せっかくだから加減して痛めつけてあげるわ!』

 

『うっ! ぐっ!?』

 

 私の計画上、ここですぐにたきなさんを気絶させるわけにいかない蘭子さんは、おそらく骨が折れない程度に力を抜いてたきなさんの腕による防御姿勢の上から顔面を繰り返し殴っています。

 

『蘭子さーん!』

 

『さすが元ファースト候補!』

 

 どうでもいいですけど観客も盛り上がっていますね。

 なんだか悪党の取り巻きみたいな野次を飛ばしています。

 ……正直、こちらが悪者みたいになるのでやめて欲しいです。

 

『ほらさっきの威勢はどこいったの!? 脱出してみなさいよ!』

 

『うっ、ううっ…………………………ん?』

 

 さて、そろそろ効いてくる頃合いだと思うのですけど……あっ、上手くいったようですね。

 

『あはっ、どうしたの? もしかしてトイレにでも行きたくなっちゃった?』

 

 高感度の機器で辛うじて拾える小さな声で蘭子さんがたきなさんに語りかけました。

 

『これは……まさかあなたが!?』

 

『さぁ、どうかしら? もしかしたら私もあんたと同じ状態になってるかもね?』

 

 本人が示唆した通り、たきなさんと同様に蘭子さんも強烈な尿意を感じているはずです。

 なぜなら、彼女たちの真上に滞空しているステルスドローンから無味無臭で無色透明の吸入利尿薬が散布されているのですから。

 極めて即効性の高いこの吸入利尿薬は千束さんが私のことを「色々垂れ流しで汚い」と思っていると知った時から開発を進めていました。

 地下秘密治験施設で健康な者への安全性の確認を済ませたこの薬品、千束さんを巻き込まずに千束さんの目の前でたきなさんだけを失禁させられる場面が長らく巡って来ず、ずっと日の目を見ることがありませんでしたが、ついにお披露目です。

 さあたきなさん、垂れ流しになってしまいなさい。

 大丈夫、条件は蘭子さんも同じです。

 ただし蘭子さんはおむつを着用していますから……千束さんに失禁を認識されるのはたきなさんだけですけどね!

 

          ◯

 

 このままでは乙女の尊厳が失われてしまう。

 自分の身体の状態を正しく認識したたきなは、可及的速やかにマウントポジションから脱出する手段を模索した。

 寝技の特訓で千束はなぜか執拗にたきなを押し倒しては何度もマウントポジションをとってきたので、こうなった場合の対処法はしっかり考えてある。

 

「ちょっ、どこ触ってんのよ!?」

 

 たきなは防御を捨てて手を蘭子へと伸ばし、全力で胸を握り潰した。

 その代償に蘭子の拳が顔面に直撃して鼻血が垂れるが、それよりも千束がそうであったように蘭子に大きな隙を作れたのが大きい。

 

「ふっ……ぐぅっ!」

 

「きゃっ!?」

 

 拘束が緩んだ瞬間、たきなは全身に力を入れて蘭子を振り落とした。

 お腹に力を入れたせいで少し出たが、まだ下着で吸収される範囲なので問題はない。

 

「ちっ……一回逃れたぐらいで逆転できるわけないでしょ!」

 

「うあっ!」

 

 たきなが攻めに転じるよりも蘭子の前蹴りの方が遥かに早かった。

 しかし下腹部を狙ったそれを予測していたたきなは後ろに跳んで衝撃を分散させ、さらに予測していた再度のマウントポジションへの移行に抗って、仰向けに倒れながらも蘭子の腰を両足で挟み込んだガードポジションをとることに成功した。

 

「……私の勝ちです」

 

 傷だらけになって脂汗をかきながら不敵に笑うたきなが、未だに無傷の蘭子に勝利を宣言した。

 

「はぁ? ちょっと有利な組み方したくらいでもう勝ったつもり? こんなのいつでもひっくり返して……」

 

「いいんですか? 今、私を刺激して」

 

「は?」

 

「きっとそちらの仕込みのせいでしょうから、私が今どんな状態か分かってますよね? 本当に、この体勢でいいんですか?」

 

 たきなの忠告を真剣に受け止めて自分の体勢を確認した蘭子は、たきなの目論見に気付いた。

 今、たきなの股間は蘭子の股間近くに密着している。

 もしもこの体勢でたきなが失禁すれば、出された液体は当然蘭子の衣服に吸収される。

 そうなれば……傍目には蘭子が漏らしたのかたきなが漏らしたのか判別できなくなるのだ。

 もちろん、下着を検分すればどちらが犯人であるかなどすぐに分かる。

 だが、それをすれば蘭子がおむつを穿いていることも、既に少し漏らしていることもばれてしまう。

 そうなれば結果は同じだ。

 たきなのみならず蘭子までもが千束にお漏らし女として認識されてしまう。

 

「〜〜〜〜〜!」

 

「どうやらご理解いただけたようで……それで、どうしますか?」

 

「う……あ……」

 

 もはやこの場を支配しているのはたきなだ。

 単純な殴り合いであれば絶対に負けるはずのなかった蘭子は今、格下であるはずのたきなに心理戦で圧倒されている。

 

「早く決めてください! こっちはもういつでも出せるんですからね!」

 

 たきなの怒声を引き金に蘭子の中で色々なものが決壊した。

 明確な格上の蘭子を相手に意地でも引き分け以上で食らいつくという覚悟を持って決闘に挑んだたきなと、絶対に勝てる格下が相手だからと余計な策略を持ち込んだ蘭子。

 

「わっ、わかったわよ! 私の負けよ!」

 

 その勝負に対する向き合い方の違いが、今回の大番狂わせに繋がったのだ。

 

          ◯

 

『蘭子さん、なんで降参なんか……』

 

『あいつはあの春川フキと組んでたリコリスで、しかも千束さんの指導を受けてるのよ? ブラフだった可能性もあるけど、もし本当だったら大怪我させられるかもだし、首女なんかのためにそこまでのリスクを負えるかってのよ』

 

 失禁計画のことを知らず状況が理解できていなかった取り巻きの子たちに言い訳している蘭子さんを横目に見ながら私は項垂れます。

 どうして……途中まで上手くいっていたのに……なぜこんな結果に……。

 これでは今頃、喫茶リコリコの千束さんはたきなさんの勝利に大喜びして、お祝いの準備でもしているに違いありません。

 

『ほら、このままここにいたら首女に嫌味とか言われるかもだし、あんたたちはもう帰りなさい』

 

『了解です』

 

『お疲れ様でした!』

 

 蘭子さんが勝手にファレノプシスの子たちを帰宅させています。

 それはまあいいとして……蘭子さんにはどう責任を取ってもらいましょうか。

 蘭子さんに失禁疑惑がかかったとしてもたきなさんが野外で失禁したという事実さえ撮影できれば計画は成功でしたのに、肝心なところで蘭子さんが自己保身に走るだなんて想定外です。

 

『お待たせしました』

 

『……間に合ったの?』

 

『おかげさまで』

 

 トイレから戻ってきたたきなさんが蘭子さんに話しかけて、握手を求めるように手を差し伸べました。

 

『何よ?』

 

『今日はありがとうございました。いい経験になりました』

 

 たきなさんは本心から言っているのでしょうけど、こちらからは皮肉にしか聞こえません。

 蘭子さんも皮肉と受け取ったようで、たきなさんの手を払い除けて怒り出します。

 

『ふざけんな! 千束さんの一番近くにいるからって上から目線で……なんであんたなのよ!?』

 

 話についていけずに困惑するたきなさんを置き去りにして、蘭子さんが際限なく熱くなっていきます。

 

『チサ友の会の会員番号一番は私なのよ! スパチャの累計額だってランキングの公開はされてないけど一番は私だって確信してる!』

 

『……何の話ですか?』

 

『千束さんの話に決まってんでしょ!』

 

『……?』

 

 滑稽なことに配信者チサと千束さんが同一人物だと思い込んでいる蘭子さんの話はたきなさんに伝わりません。

 

『まさかあんた……チサちゃんねるを知らないってことはないわよね!? これよ!』

 

『全国のチサ友のみんな〜! こ〜んに〜ちさ〜!』

 

『これは……誰です? 千束に似てますけど』

 

『似てるもなにも御本人でしょうが! 髪のことならウィッグ使ってんのよ!』

 

 現在のチサは千束さんよりも髪を長くしています。

 長い髪があればそれで私の首を絞めたりできるので、チサの髪を伸ばした際に本物の千束さんにも伸ばしてほしいとお願いしたのですが、避けた銃弾がなびく髪を掠めてしまうので無理だと断られました。

 

『いや人違いですって。千束の胸はもっと大きいですよ』

 

『そんなはず……』

 

 私もそんなはずないと思いました。

 しかし考えてみるとチサの身体はそう頻繁に本物の千束さんに合わせて調整しているわけでもなく、毎日近くで千束さんの生の肉体を見ているたきなさんだけが見分けられる違いが生じていても不思議ではありません。

 

『本人に聞いてみます。それではっきりするはずです』

 

 止めようにも止めること自体が何か疚しいことがあると証明してしまいますから、私は成り行きを見守ることしかできません。

 

『もしもし、千束?』

 

『お〜! 見てたよたきな! 大金星おめでとう!』

 

『ありがとうございます。ところでちょっと確認したいんですけど、千束はチサという名前で動画を配信してますか?』

 

『チ〜サ〜? そいつこりすが私に似せて作ったAIだよ』

 

『…………………………ぇ』

 

 聞き耳を立てていた蘭子さんが息を呑みました。

 

『ああ、やっぱり千束ではないんですね』

 

『やっぱりってことは見分けついてたな? さっすがたきな! 私のことよく見ててくれて嬉しい! いや実は初めて店に来た人がチサ知ってるとよく勘違いされるんだけどさ、私の方があんなロボットより絶対美人だよね! でさでさ、あんまり間違えられると外歩くだけで大変になるからチサの方に髪伸ばさせたってのに、それでも間違える奴が結構いて、お前の目は節穴かー! って』

 

 千束さんの長話に紛れて、ドタドタバタバタと廊下を走る音が聞こえてきます。

 

「朱雁こりすぅ! どーいうことか説明しなさい!」

 

 当初の計画は頓挫して、想定外の面倒事が発生して……踏んだり蹴ったりとはこのことですね。

 扉を蹴破って飛び込んできた蘭子さんを前に、私は溜め息を吐くことしかできませんでした。




次の話は一文字も書いてないので、いつになるか分かりません。
なるべく早く出せるように頑張ります。
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