STALKER:Fox Hunt   作:abubu_nownanka

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1節:地下道

地下道の風化したコンクリートは湿気を帯び、わずかな音をも吸い込むように沈黙している。足元に広がる水たまりは汚水や生活排水の類ではない。人が消え去って久しいこの土地で長い年月をかけて雨水が浸透した結果だった。

 

フラッシュライトの無機質な光が暗闇の中でただその存在を刻むように不規則に壁をなぞる。

 

その光源の主、男は急ぎ足だ。ガスマスク越しの呼吸は荒々しく、迷彩服の裾と軍用ブーツには泥がこびりついている。着古された防刃ベストは継ぎ接ぎにまみれ、胴回りにはマガジンパウチが不格好に並んでいる。持ちなれた筈のアサルトライフルが男にはやけに重く感じられた。

 

そして背嚢の脇にぶら下がる分厚い鉛製の格納容器の中には、彼が初めて自力で確保した"アーティファクト"が収められていた。

 

グレブはこの単独での遠出が無謀だったと今になって痛感していた。あの"光熱放射"の赤い稲妻が荒れ狂った後の空、驚くほど鮮やかな青さを見たとき、長年温めていた探索計画を実行する衝動に駆られたのだ。目論見は成功し、目的のものを手に入れることはできた。だが幸運はそこまでだった。

 

背後から響く引っ掻くような爪音。水をかき分ける不快なざわめき。グレブは可能な限り最速を維持しているつもりだったが、追いすがる“それ”との距離は確実に縮まっている。背後に迫る気配に反応して振り返る。フラッシュライトの光が複数の赤い皮膚を捉えた。牙の並んだ口、笑い声のような耳障りな鳴き声、どこか人間を思わせるひどく歪んだシルエット。

 

AKS74Uの照準を素早く定め、引き金を引いた。マズルフラッシュの閃光と轟音が地下道に反響する。5.45mmの弾丸が怪物の一体を貫き、赤黒い肉塊が痙攣するように水面に倒れ込んで動かなくなる。何発かは無駄に虚空を掠めた。

 

グレブは舌打ちした。弾丸は貴重だ。ライフルを構えたまま暗がりを睨むが、残りの影は散り散りになり闇に溶けていた。

 

──もう何度もこの繰り返しだった。

 

帰路の途上、地上に居た時から"ミュータント"の群れが遠巻きに自分を観察していたことには気づいていた。開けた荒野の中、視界の隅をかすめる影。地平線と焦げついた建造物のあいだに微動だにせず佇みながら、確実にこちらを見据えている黒い点。

 

平地ではあらゆる方向からの襲撃に晒される危険がある。だが地下通路のような閉鎖空間であれば接近方向は限定され、迎撃の余地も生まれる。地下には"アノマリー"以上の脅威が潜んでいる──それは何度も耳にしてきた警告だった。それでも奴らの追跡をかわし、なおかつアノマリーの密集地帯を避けるには他に選択肢はなかった。

 

そう判断したグレブは地表にぽっかりと口を開けるこの暗がりへと足を踏み入れたのだ。

 

その選択はあながち間違いでもない。しかし真実は違う。グレブの体力はすでに限界に近く、冷静な思考を維持できていなかったのだ。ただ奴らが自分を見失うことを安易に期待して地下へと逃れた。単独での探索は初めてではなかったが、アノマリー地帯を回避しつつ長距離を踏破し、アーティファクトを確保して拠点へと帰還する今回の行程は、これまでとは桁が違っていた。

 

そして愚かな獲物が狩場である暗闇に自ら足を踏み入れたと見るや、ミュータントたちは嬉々として襲撃を開始した。あるいは、おぼろげな陽光に守られながらアノマリーが密集する死の海を一歩一歩慎重に渡っていれば、この襲撃は起こらなかったかもしれない。

 

再び獣の笑い声が地下に響き渡る。グレブは反射的に引き金に指をかけたが、直前で踏みとどまった。

 

反射的に応じたくなるような音と動き──それが罠であることを嫌というほど思い知らされていた。この地下道に入ってから、その“誘い”に乗ってしまい銃弾を浪費していた。この粘着質な追跡も彼らが持つ賢さ故か。闇の中で微かに何かがうごめいたが、それらは距離を詰めようとはしていない。少なくともこちらが銃口を向けている間は。

 

弾倉には数発が残っていたが銃撃中に弾切れを起こす恐怖の方が大きい。弾倉を交換して一方をマグパウチに押し込むとき、グレブはこれが最後の弾倉であることに気付いた。手が震える。背嚢にはまだ予備の弾薬が残されているが、30発の銃弾を空弾倉に装填し直すとなると、襲撃の最中にあっては気の遠くなるような作業時間を要する。

 

この地下道は以前通ったことがある。記憶が正しければあと少し耐えれば陽光の下へ脱出できる。それに既に何体ものミュータントを倒してきた。彼らは曲がりなりにも生き物であり、群れの頭数も無尽蔵ではない筈だ。

 

それなのに彼らが襲撃をやめる気配は微塵も無い。

 

通常の自然界において、人間の捕食者足り得るような肉食動物は仲間を失った段階で撤退する。無用な闘争は群れの、ひいては種全体の存続を脅かす。だが奴らは違う。この執拗さ、狩りに対する“歓び”とも言えるような狂気。絶望に近い状況も相俟って、この笑い声にも似た不気味な鳴き声が破滅的な悪意を含んでいるかのように感じられた。

 

そして力を振り絞り、グレブは今度こそ全力で走り出した。

 

地下道の闇が男を呑み込む。背後から響く水音も獲物を逃すまいと荒々しく迫っている。地下の閉所に長く沈殿していた空気が一気にかき乱され、フラッシュライトは混濁した闇の中にデタラメな影を踊らせる。宝を収めた格納容器の重みすら呪いであるかのように感じられた。

 

不意に通路が狭まる。地下道の交差部分へと接続されている窮屈な一本道は、追跡者を迎え撃つ絶好の機会だった。避けようのない狭い通路であれば銃弾をまとめて叩き込める。

 

グレブは全力で一本道を走り抜け、振り返ってライフルを構えた。フラッシュライトが闇の中に群れの姿を照らし出した。予想通り数は少なく、狭い道幅が群れの動きを縛っている。

 

マズルフラッシュが閃き、轟音がトンネルを震わせた。先頭の一体が正面からまともに銃弾を受けて倒れ込む。鮮血と破砕音を撒き散らして崩れた死体を乗り越えるように、二体目、三体目が続く。グレブは射撃姿勢を保ったまま照準と発砲を繰り返す。

 

それでも弾倉が空になるのが早すぎた。乾いたクリック音。銃声の代わりに響いたそれにグレブの心臓が止まりかけた。弾切れだ。通路を埋めるほどの体躯ではない獣たちは、倒れた仲間の死体を踏み越えながら狂ったように分岐路へとなだれ込んできた。

 

即座にライフルから手を放し腰のホルスターに手を伸ばす。そこにあるのは頼りない小型拳銃──PPK。装填されている弾丸は.22LR。戦場の標準弾に比べればまるで殺傷性に乏しい、半ばお守りとして下げていたような一丁だ。怪物の頭部に正確に命中させれば彼らを無力化できる可能性もゼロではない。だが闇に紛れて動き続ける標的に対してそのような芸当ができるとは到底思えなかった。

 

別の考えも目まぐるしく頭をよぎる。弾切れを悟られぬようライフルを構えて威嚇した方が奴らの躊躇を誘えたかもしれない。獣たちに知性の存在を見出したからこその発想だが、今更作戦を切り替える暇はない。

 

最悪の瞬間に最悪の現実が襲いかかる。眼前に迫った一体がPPKを弾き飛ばしたのだ。唯一の希望は無様な音を立て、湿ったコンクリートの上を滑っていく。

 

そしてグレブ自身も突き飛ばされ壁に頭を強打した。光。眩暈。視界がぐにゃりと歪み、耳鳴りが世界を支配する。ガスマスクのレンズにひびが入り、濡れたコンクリートの匂いが鼻をついた。

 

──終わりか。そんな言葉がまるで他人事のように浮かぶ。それでも身体はまだ動いていた。生物としての本能か、彼の身体に染みついた習慣か。彼の右手は腰のナイフを抜いていた。予備の予備だ。荒野で枝を切り払うためにしか使ったことがなく切先も甘い。

 

尻を床に預けたまま這うように身を起こそうとするが体勢も定まらない。構えた手は震え、冷や汗がガスマスクの内側を伝う。呼吸は荒れて目の前の影は今にも飛びかかるところだった。

 

だが、最後の瞬間は訪れなかった。胸のフラッシュライトは暗闇に五体のミュータントを克明に浮かび上がらせている。生きている彼らをこれほど近くで見たのは初めてかもしれない。

 

赤黒い皮膚は濡れたような光沢を帯びていた。返り血ではない、何かぬめるような粘液が肌を覆っているのか光を受けてわずかに煌めいている。人間的にも見える肋骨と、その起伏も克明に見えた。赤い胸郭がゆっくりと不規則に膨張と収縮を繰り返している。

 

顎は異様に発達しており、嘴のように前へ突き出していた。一列に並んだ無数の牙が唇もなく剥き出しになり、絶え間なく粘液を垂らしている。眼球も確認できた。少なくともそれとわかる器官が頭部の奥に光を受けて沈んでいたが、ただそこにあるだけの器官とでも言うように、焦点が合っておらず何処を見ているのかも分からない。

 

グレブを取り囲む獣たちは不気味な静けさに佇んでいた。奇妙なことに奴らは目の前の無力な獲物を見ていない。頭は一様に、分岐路の暗がりの一点に向けられていた。

 

──やがて、ズルリ、ズルリと、何かを引きずる音が遠くから近づいてきていた。鈍い湿音が静まり返った地下道に、不気味なほどはっきりと響く。それに続くようにヒタ、ヒタ、と軽い、濡れた足音。通路に新たな存在が入ってきたのだと理解できた。

 

グレブは息を殺したまま、ゆっくりとフラッシュライトをそちらへ向ける。

 

光が捉えたのは迷彩服の裾。同業者が偶然にもこの窮地を救いに現れたのかと思った。だが、その姿はあまりに奇妙だ。ブカブカの迷彩は身体に合っておらず裾が地を擦っている。よく見ればその足は裸足で白く細い。グレブは息を呑み、その存在を凝視した。

 

それは、紛れもなく"子供"だった。裸足でコンクリートの床を踏み、ところどころ破れた白い袋を引きずりながら冷たい水たまりを無視して歩いている。小さな影は分岐路の半ばで屈み込み、地面に落ちた何かを拾いあげた。右手に構える動作を見て、グレブはそれが自分が落としたPPKだと分かった。

 

ミュータントたちが動いた。襲い掛かるのではない。怪物たちはその場に膝を折り、まるで跪くように地面に頭を下げたのだ。

 

子供は静かにこちらへと歩み寄る。ミュータントに触れるほどの距離まで近づき、一体の頭に拳銃を当てた。銃声。乾いた音が地下道を切り裂き、至近距離で頭蓋を撃ち抜かれたミュータントがコンクリートに倒れる。

 

怪物たちが鳴き声を上げ始めた。虚ろな笑い声にも似た、悪意を孕んだ音色。子供はヒタヒタと裸足の足音を響かせ、次の一体へと歩み寄る。銃声。また肉塊が崩れ落ちる。銃声、笑い声、沈黙。

 

やがて全てのミュータントが動かなくなった。赤黒い死骸は床に伏し、再び静寂が地下道を支配する。

 

現実感のない異様な光景に、僅かに残った男の思考力はこれを「幻覚だ」と説明付けようとしていた。酸欠、脳震盪、恐怖の極致で見た幻。あるいは、この"土地"を歩む者なら誰もが一度は経験するのであろう"外的な精神作用"の産物なのだと。

 

必死に解釈をひねり出そうとする中、子供は彼の目の前まで来て止まった。グレブは顔を上げ、初めてその顔を視界に捉える。

 

金色の瞳がフラッシュライトの光を妖しく反射していた。地下道の湿気を帯びた髪を頬に張りつかせ、顔に浮かべているのは無垢な微笑み。

 

そして、柔らかな毛並みの三角の耳と、影の中でしなやかに揺れる尻尾とが、その子供を"異形"たらしめていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「キラキラしてて、きれいだね。」異形の子供がぽつりと呟いた。声は細く澄んでいた。音としての存在感は乏しいはずなのに、脳髄の奥にまで届くような静かな響きだった。

 

「一緒に遊ぶ?ゾーン、もっと面白いよ?」異形は続けた。

 

グレブの喉がひくりと動いた。返事をしようとするが舌が言葉を結ばず喉に詰まる。この"幻覚"に言葉を返すことを理性が頑なに拒否していた。黙ったままのグレブを見て彼女はくすりと笑う。その笑い声には悪意も敵意もない。口にした言葉の通りの純粋な愉しさを湛えているようだった。

 

少女は小さな手に握っていた拳銃をグレブの足元にそっと置くと背を向けた。一瞬、視界を尻尾がふわりと覆う。ヒタ、ヒタと裸足の足音。ズル、ズルと袋を引きずる音。ブカブカの迷彩服を着た後ろ姿がフラッシュライトの光の届かない闇の向こう側へ、地下通路の闇の奥へと溶けていく。微かな音が遠ざかっていくのがしばらく聞こえていたが、やがてそれすらも消え、完璧な静寂がグレブを包み込んだ。

 

その場で、どれほどの時間が過ぎたのか。

 

グレブは壁に背を預け、徐々に落ち着きを取り戻していった。心臓の音が静まるにつれて硬直していた身体も少しずつ弛緩していく。手の震えは、いつの間にか収まっていた。

 

やがてよろめきながら立ち上がる。足元に置かれたPPKを拾い上げホルスターに収める。地を踏む足は重く、足裏から疲労が這い上がるようだったが、それでも彼は歩き出した。彼の他に地下道に動くものは無い。分岐路を離れるにつれミュータントの死体が放つ悪臭も薄れていき、地下道の澱んだ空気だけが漂っている。

 

あれは一体、何だったのか。朦朧とした意識は答えを拒み、ただ男の足を前に進める。心の奥底に沈殿したままの恐怖と困惑だけが確かなものとして残っていた。

 

通路をいくつか曲がると前方にぼんやりとした光が滲み始めた。外から吹き込む風音を感じ、身体の内に安堵を呼び起こす。暗闇から再び陽光の世界へ帰還できる喜び。しかし疲労も限界に近い。ここからまた拠点へ辿り着くことは果てしない試練のように感じられる。

 

短時間でも身体を休めるべきだが、開けた場所で眠るのは無防備すぎる。グレブは出口の近く、通路の脇に人一人がどうにか身を隠せる程度のくぼみを見つけ、ゆっくりとその中へと身体を滑り込ませた。背嚢の重みを地面に預けて背中を丸める。ガスマスクを外すと澄んだ空気が数時間ぶりに肺を満たした。

 

全身に軋むような痛みを感じたが、それでも静かに目を閉じる。

 

グレブは意識を手放した。

 

◆ ◆ ◆

 

グレブは歩いている。ひび割れた舗道、錆びた看板、打ち捨てられた自転車。子供の頃を過ごした町だ。空は重たく灰色に沈み、太陽の気配はない。開きかけたアパートの扉の奥、ブランコが揺れる公園の隅に、ぼんやりと誰かが立っていたような気がする。さびれた通りを大人になった自分が進む。やがて壊れた建物やひしゃげた車が目立つようになる。廃墟の町が瓦礫に変わっていく。

 

いつの間にか彼は小銃を握っている。湿った迷彩服に身体は凍え、兵士たちの足音が周囲で響く。軍隊で過ごした二年。死地をくぐり抜けた記憶がごちゃ混ぜになり、土と硝煙の匂いが鼻をつく。戦場の遥か遠くから低く轟く砲撃音。隊列の中に戦友の顔を幾人か見かけたが、誰もグレブに視線を返さない。彼らの目は避けられない結末を見据え、行進を続けている。その運命から逃れるようにグレブは一人で隊列を離れ、脇の路地へ進んでいく。

 

廃墟の建物に入ると、そこでは温かい光が窓から差し込んでいた。揺れる亜麻色の髪、幼子の笑い声。ナディアとリナがそこにいる。グレブが見つけた幸福そのものだ。小銃を床に立てかけ、朝食の並んだテーブルに腰を下ろす。焼きたてのパンの香り、ナディアが柔らかに微笑み、リナの小さな手が彼の指を握る。心が満ちていくのを感じた。

 

再び顔を上げると光は消えていた。部屋は暗く沈み、テーブルには支払い明細書がうず高く積まれている。グレブは狼狽して立ち上がり、家族を探して暗い家を彷徨う。すがる思いで寝室のドアを開けると、テレビの青白い光だけが室内の闇を照らしていた。画面には荒れ果てた大地と赤い稲妻が空を走る映像が流れている。現実のニュース報道で何度も見た、まるで世界の終わりを告げるような光景。

 

だが、その景色にこそグレブの胸は燃えたのだ。あの壊れた世界こそ、すべてを取り戻す起死回生のチャンスだと。夢の中のグレブは奮い立ち、ベッドに置かれた背嚢を背負う。ライフルと鉛製の容器の重みが肩に食い込んだ。

 

ゾーンへ向かうのだ。失った幸福を取り戻す希望。あの輝きが、俺を呼んでいる。

 

◆ ◆ ◆

 

「おう、起きろい!」

 

頭の奥がまだ靄に包まれている。強引な覚醒と同時にフラッシュライトの光が瞼を貫く。眩しさに顔をしかめ、二、三度まばたきを繰り返す。焼きつくような光の残像が視界にちらつく中、声が耳に届いた。

 

「俺らを出し抜こうたぁ、いい度胸じゃねえか。」口は悪いが、どこかに親しみが滲む声色。パブロだ。焦点が合いはじめると、ひげ面に笑みを浮かべた浅黒い顔が見えた。

 

その隣には寡黙なオレグが立っている。粗削りの岩のような相貌、使い込まれた防護服もいつも通りだった。

 

反論しかけるが喉が乾いて言葉がうまく出ない。光熱放射の後はアーティファクトの出現を狙えると聞き、居ても立ってもいられなかったのは事実だ。大地を揺さぶる光と放射線の嵐が、その深淵から謎めいた奇跡を運ぶ──そう信じて単独で飛び出したのだ。

 

「初めてでアーティファクトを仕留めたか。大したものだな。」オレグが鉛製の格納容器を傾け、蓋の隙間から漏れる青い燐光に目を細めている。いつの間にかグレブの容器は彼の手元にあった。

 

パブロの荒々しい手に引き起こされる。数歩よろめくが、なんとか自分の足で立つことができた。

 

「様子を見に来てくれたのか?」グレブの問いをパブロが鼻で笑った。

 

「馬鹿言え。俺らは別の仕事だ。帰りにここを通ったらよ、お前が壁に挟まってのびてるじゃねえか。運が悪きゃそのまま死んでるぞ。」

 

オレグが格納容器を差し出す。「途中でミュータントの死骸をいくつか見たが、あれはお前か?」

 

その言葉にグレブの背中に冷たい汗が滲んだ。少女の姿が脳裏に焼き戻される。あの金色の瞳、無垢な笑顔、獣の耳、PPKを握る小さな手、そして跪くミュータントたち──。

 

極限状態の幻覚に違いない。恐怖と疲労が見せた虚構であり、恐らくミュータントは自力で撃退したのだ。そう納得してしまいたいが、あの異様な光景は鮮烈なまでにグレブの記憶に深く刻み付けられていた。

 

「お前、助けてやったんだから今夜は一杯奢れよ。」パブロが笑いながら肩を叩く。

 

確かに自力で帰れると断言できるほどの自信や体力は残されていない。それに起こされなければ冷たいコンクリートの隙間で何時間も眠っていたかもしれないと思うと、ゾッとする。

 

「すまない、助かった。」グレブは素直に礼を言った。

 

地下道の出口から外へ抜け出た三人は空を見上げる。正午を少し回ったところだろうか。空は晴れていた。

 

雲間から陽が差し込み、広い大地をやわらかく照らしている。なだらかな丘が幾重にも折り重なるその中腹。地下道が口を開くその先に広がる景色は、風が草木を静かに揺らし、乾いた地面を這うように駆け抜けていた。遠方は薄く霞んでいて、見慣れたコンクリートの廃墟が点在している。かつて誰かが生き、働き、愛し、死んだ場所。けれど今やそれらは誰の記憶からも手放された骨のように静かに野に横たわっていた。

 

ぱっと見る限りでは何の変哲もない風景。だが、注意深く目を凝らせば風景の一部に奇妙な歪みが浮かんでいるのが分かる。まるで陽炎が逆立つように空間の密度がわずかに揺れていた。あるいは、遠くの木々の間、ありえない角度で光が屈折し形容しがたい違和感を生んでいる。

 

アノマリーは"ゾーン"が生み出す物理法則の破れ目であり、空間を歪めるものは代表的なものの一つだ。景色に偏在する異常は、否応なくここが人知の及ばぬ領域だと彼らに突きつけていた。

 

『ゾーン』

 

その発端はチェルノブイリ原子力発電所の事故──あるいはその後人知れず発生した謎の爆発──とされている。メルトダウンによる悲劇的な大惨事。放射性物質が広大な土地を汚し、人々を恐れと悲しみに陥れた。だが、何かが変わった。一帯が封鎖され避難民が新たな生活を始め、世界が事故の記憶にかまけるのをやめ、日常へと戻った頃、奇妙な噂が流れ始めた。

 

曰く、ゾーンは単なる放射能汚染ではない。何かがある。

 

噂の域を超えた衝撃的な情報がもたらされるまで時間はかからなかった。果たしてゾーンは人間の常識を揺るがす異常事態の温床だったのだ。空間を歪める重力井戸、物体をバラバラに引き裂く風、地面より噴き上がる炎の柱。ゾーンの中心より不定期に迸る光熱放射の稲妻が、致死の放射線を撒き散らしながら暴れ狂って空を焼く。

 

異常な生物の目撃情報も後を絶たなかった。這う者、歩く者、形態はさまざまだが、攻撃性と残忍性を目的に設計されたかのようなその身体構造。嫌悪感を想起させるそのシルエットは、さながら悪趣味な神が人間や動物を思いつくままに歪め再構成したかのようだった。かつては野犬やイノシシだったと思われる痕跡を残すものも確認された。そのこと自体が、この変異が既存の生物に作用し得るという恐怖を強調した。より適切な俗称を与えるならまさしく”ミュータント”と呼ぶべき生物たち。

 

そして、リスクばかりではなくリターンもあった。”アーティファクト”。熱を発するもの、無尽蔵の電力を生み出すもの、自在に空間を歪めるもの、放射線を無害化し、果ては病を癒すもの。まるでファンタジー世界の魔法のようにゾーンの深部で輝くそれらは、人類の欲望を掻き立てた。

 

政府は渋々事実を公表せざるを得なかった。ゾーンは既知の科学の枠を超えた領域であると。

 

軍や多国籍の調査団がゾーンに押し寄せた。白衣の科学者たちはアノマリーを解明し、アーティファクトを独占しようと試みた。許可を得ない民間人もゾーンに足を踏み入れた。真実を求めて立ち入るのはジャーナリストだけではない。未知の冒険に憧れる者、人生の一発逆転を狙う食い詰め者、非合法な集団、犯罪者に至るまで。宝の存在を知って手をこまねいているのが人間ではない。

 

彼らは軍の検問を掻い潜りゾーンへの密入域を続ける。希望を求め、人知の及ばぬ異常が蔓延る大地を歩む者たち。人はいつしか彼らを『スタルカー』と呼んだ。

 

かくしてゾーンは混沌の坩堝と化した。欲望と恐怖が交錯し、命と狂気が賭けられる戦場だ。

 

グレブもまた、その一人だ。失った家族との平穏を取り戻すためゾーンへと潜り込んだのだ。風が緩やかに頬を撫でる丘、彼は背嚢を背負い直すと先を行く二人の仲間を追った。

 

ゾーンを、三人のスタルカーが歩いていた。

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