STALKER:Fox Hunt 作:abubu_nownanka
グレブは天井を見上げていた。剥がれた塗料がまだら模様を描く宿舎の四人部屋。格子の嵌められた窓から差し込む朝の光が床に淡く影を落とし、宙に舞う微細な埃を金色に染めている。
あれから数日が経つが、酒場でミハイルが語ったキツネとの壮絶な過去が頭から離れなかった。バンディットの生き残りである男の告白、『狐の巣』にまつわる赦されざる血と因縁。
ミハイルは何事もなかったように翌日から酒場を切り盛りしているらしい。客の愚痴を聞き、くだらない冗談を飛ばし、グラスに酒を注ぐ。彼は大した理由もなく、ただ"許された"だけだった。その無慈悲な慈悲が心の芯に消えぬ傷を刻み、今なお贖罪として彼を突き動かしているのかもしれない。キツネの為に拠点を維持するという執念。グレブはあれから『狐の巣』に足を踏み入れていない。
探索にも出ていない。何度か顔見知りのスタルカーたちと連れ立ち拠点のパトロールに参加はしたが、それだけだった。キツネとの狩りに一点集中するつもりなら無暗にバラノフカを離れるべきでないのは確かだ。運が良ければあと二回。それでこの地獄のようなゾーンから足を洗える可能性があるのだから。
だが、彼の思考は重い泥のように沈んでいた。
自分がしていることは、バンディットたちがキツネにしたことと何が違うのか。"案内"を口実に彼女をアーティファクト探しに駆り出し、危険な地へ連れ回す──その行為にどんな正当性があるのか?
いや、違う。自分はキツネを道具のように扱ってなどいないし、彼女も自らの意志で協力してくれている。そんな反論が脳裏に浮かんでは消える。
ふと想像してしまうのだ。キツネが“普通”の子供として保護され、然るべき施設で治療を受け、耳と尾も切除され、やがて本当の親元へと帰っていく。『ゾーンに取り残された少女、奇跡の生還』──そんな報道映像を。人々は一時の感動に胸を打たれ、憐れむべき生還者を讃え、そしてやがて忘れていくだろう。耳と尻尾は残した方が"人気"が出るかもしれない。
キツネを"子供"と呼ぶべきか曖昧ではある。全ての発端はミハイルがまだ青年だった頃にまで遡るのだ。彼女の実年齢はあの小さな身体を大きく超えているに違いなく、ゾーンで過ごしてきた時間は恐らくオレグよりもはるかに長い。あの澄んだ瞳の奥にどれだけの死を、どれだけの闇が宿っているのか、想像すらできない。
このゾーンの何かがあの子供を変えてしまったのだ。殺しても死なない。それどころか死ねば別の"キツネ"が現れるという。
グレブの中に恐ろしい考えが浮かぶ。アーティファクトの光で焼け爛れた小さな手。それが跡形もなく治っていたのを見て、不思議な力の持ち主なのだと安易に喜んでしまった。だがもしもグレブを庇ったあの子はすでに死んでいて、今存在するキツネは別の"個体"なのだとしたら──?
それはゾーンでもかなり悪趣味な部類の与太話だった。事実かどうか検証する気にもならない。ベッドに預けたままの背筋を悪寒が這い上がった。
果たしてキツネは今もなお"保護すべき子供"なのか。ゾーン以外に帰る場所など持たない"ミュータント"か。それともグレブや他の者達と同じく、自らの意思でゾーンに留まり続ける"スタルカー"か。──そう言った思考もまた、キツネを使う自分自身を無意識に正当化する体を成していた。
携帯端末の振動がグレブの堂々巡りの思考を中断させた。
『キツネが来たぞ。』
ディスプレイに浮かんでいるのは門番からの短い通知。キツネが現れたら直ぐに連絡をくれるよう、いくらか金を渡していたのだ。
グレブはしばらく指を止めたままその文字列を見つめていた。明確な答えは出ていない。恐らくこれからも出ることはないのだろう。だが動かねばならない。キツネが来た。ならば次の一歩を踏み出すだけだ。
バラノフカの路上に朝の光が斜めに差していた。
拠点の正門ではスタルカーたちが今日の探索へ向かうべくゾーンへと散っていく。幾重にも重なる軍用ブーツの足音、肩に下げた銃器と擦れ合う装備品、挨拶代わりの短い冗談。それらすべてが拠点の朝の変わらぬ風景を形づくってる。オレグやパブロたちは既に宿舎を出ていたが、まだ『狐の巣』で出発前の腹ごしらえをしているかもしれない。
グレブは宿舎前から辺りを見回し、すぐにその小さな姿を見つけることができた。
通りの向こう、人波に逆らうようにしてキツネは静かに歩いている。ゆっくりと楽しげに。スタルカーたちの姿を眺め、風の匂いを嗅ぎ、目に映るすべてを味わうような歩み。まるで今日という日そのものが遊び場だと言わんばかりだった。
やがて彼女もグレブを見つけた。表情が明るくはじけ、裸足のまま舗装の崩れた石畳を軽やかに駆けてくる。
「グレブ!」
何も変わらない筈だった。無邪気な笑顔、透き通る声。だがミハイルの話を聞いた今となっては、その愛らしさに対して言い知れぬ感覚がじわりと染み出してくるのをグレブは止められなかった。それでも不安を払いのけるようにライフルの位置を直す。
「キツネ、また案内してくれないか?今度は二人で。」穏やかな調子を保ち、少女を見下ろす。
「二人?他の人たちは連れていかないの?」キツネは小首をかしげた。
「いや、あいつらは抜きでだ。」
そう答えるとき、グレブは自分が何を期待しているかよく理解していた。キツネが喜ぶ顔だ。自分との"特別な"狩りにあの純粋な笑顔を向けてくれると確信していた。だが、返ってきたのは少し困ったような顔だった。
「うーん……あのね、今度はね、グレブと二人だけだと、きっと楽しくないと思うの。人がいっぱい居たら、もっと楽しくなるとこ、見つけたの。すっごく、すっごくキラキラしてるアーティファクトも見つけたから、またあの人たちを連れてきたら、きっと楽しいよ!」
──何かが違う。
「他の奴を連れて行ったらキツネはいい顔をしない」そう助言してくれたのはミハイルだ。自分もそれは正しいと思った。自分の友達が知らない子と仲良くしているのを見た子供のような、愛らしい嫉妬心がキツネにあったのだろうと思った。だが今、目の前の少女はむしろ逆のことを言っている。
あどけない表情も奥にある何かをグレブは掴みきれない。しかしアーティファクトへの誘惑はスタルカーにとって抗いがたいものだ。もし彼女の言葉が本当なら、この一度で自らが抱える全ての重圧から解放してくれる程の大金が手に入るかもしれない。そんな期待に思わず胸が湧き立つ。
「……そんなに良いアーティファクトなのか?」
「うん、一番いいよ!」
キツネの笑顔は飛び切り眩しかった。ならば、選択肢はない。
◆ ◆ ◆
バラノフカを出てからどれくらい歩いたか。ゾーンの平原は静まり返り曇天が空を覆っていた。視界はひらけているが音が吸い込まれるような静寂が続く。五人のスタルカーが等間隔に距離を取りながら、打ち捨てられた道路を進んでいた。
あの後、すぐにオレグとパブロを見つけることができた。丁度『狐の巣』から出てきた二人に加え、居合わせたセルゲイとヴィクトルも誘いに乗った。また肩透かしを食らうのではないかという懸念が無いではなかっただろうが、「一番いいもの」という触れ込みは彼らの心を動かすことができた。セルゲイなどは鼻息荒く「今度こそ一山当てる」と息巻いている。
相変わらずキツネの先導は的確だった。アノマリー地帯を回避しながら隊列は軽快な進軍速度を保っている。キツネは偶に立ち止まり、ひとしきり空気の匂いを嗅ぎ、進路を調整して再び進む。まるで見えない罠を知覚しているかのような動き。そして二度目ともなれば誰もがこの小さな案内人の歩みに従っていた。
グレブが予想した通り、オレグは一行の最後尾。キツネから最も遠い位置に陣取っている。熟練の男は無口に周囲を監視しながらも、たまにキツネも注視しているようだった。彼が異形の少女に対し見せる警戒の根拠は何なのか?グレブは尋ねていないが、今となっては彼の警戒心は正しいように思えていた。
「今度は良い物って本当か、嬢ちゃん?また紛い物は嫌だぜ。」パブロが冗談めかしてキツネに話しかける。返事はない。自ら仲間の同行を促したにもかかわらず、やはり彼女はグレブ以外を無視していた。
「良いものなんだよな?」グレブが改めて問うと、キツネは笑顔で頷いた。
深部への探索を覚悟していたが、辿り着いたその場所は比較的浅い領域だった。軍事関連の廃墟が点在する一角。破れた有刺鉄線、崩れたコンクリート塀、放置された軍用車両が雑草に埋もれている。朽ちたアンテナ塔が傾き、建物の壁には風雨の染みが黒ずんで広がっていた。看板には風化しかけた文字が読み取れる。『第十一戦略拠点』──。
ここも改装すればバラノフカのような拠点になり得るかもしれないが、物資の輸送ルートを伸ばすのは容易ではない。果たしてこの廃墟が人の手によって開拓される日は来るのだろうか。
広場の向こうで動く影が見えた。グレブはライフルを構え、備え付けられた4倍率固定式スコープを覗く。ミュータント化した野犬が一頭。毛並みは乱れ片目が潰れている。何かの──もしかすると仲間の──死骸を漁っているようだった。
「撃つか?」肩越しにオレグに目をやると、熟練の男は首を振った。野犬もこちらに気づいたのか、視線を戻す頃には建物の影に去っていくところだった。
しばらく歩いて後廃墟群の中心でキツネが足を止めた。
「ここだよ。」
少女が指差す先、廃墟群の中心にはひどく荒れた舗装路が広がっていた。地面に穿たれた巨大な亀裂。アノマリーの影響によるものか、コンクリートが引き剥がされて捻じれた下水管や施設の一部と思しき地下構造が、小魚が口に入り込むのを淡々と待ち構える深海の捕食者のようにぽっかりと黒い口を開けていた。
「地下かよ…。」パブロが忌々しそうに眉をひそめる。地面の亀裂を見下ろしながら足が自然と後ずさっていた。
グレブも以前のキツネとの狩りと、そして単独探索の帰りに通った暗い地下道を思い出していた。影に蠢く異形の姿。静寂の中に響く奴らの爪音と咆哮。あの不気味な感覚が胸の奥でざわつき始め、思わず身震いする。グレブにとって地下は恐怖のイメージと結びつきつつあった。
またミュータントとの遭遇があるのだろうか?だがキツネがいる。彼女が導くなら命の危険はないはずだ。グレブは自分にそう言い聞かせた。
オレグは裂け目の縁に屈み込み、マッチ棒をそのまま数倍に太らせたような棒──木製、あるいは紙製──を取り出す。地面で擦ると赤い炎が激しく燃え上がった。亀裂に向かって投げ込まれたそれは瓦礫の斜面を転がり落ち、やがて深さ七、八メートルの暗がりに辿り着く。火は消えず、地の底で微かに周囲を照らし続けている。
有毒ガスの有無を確認する手順だとグレブには分かった。普通の発煙筒なら自ら酸素を発して燃焼を続けるが、オレグの投じたそれは恐らく空気が異常なら消えてしまう仕組みなのだろう。確認を終える前にキツネはもう瓦礫の斜面を伝って降り始めていたが。
「俺から行こう。」グレブは仲間たちを振り返って短く言うと、迷いなく少女の後に続いて不安定な傾斜を下りた。瓦礫が砕ける音が靴底に伝わる。
続いてオレグが無言で身を屈め、滑るように降下してくる。その背後から残りの三人が間隔を空けて続いた。
やがて全員が地下に降り立つ。五つのフラッシュライトが重なり合って眼前の闇を切り払った。
そこは地下駐車場のような広い空間だった。コンクリートの支柱が均等に並び、その間には朽ち果てた軍用トラックが何台も静止していた。タイヤの空気は抜け落ち、車体には錆がこびりついている。埃とカビの匂いが鼻をつき、光の届かない奥へ闇の空間が続いている。まるで兵員輸送車両の地下墓所とでも形容すべき場所だ。
オレグは鼻を動かしていた。キツネがアノマリーを嗅ぎ分ける仕草に似ているようで少し滑稽に映る。グレブの視線に気づいのか熟練の男は前を向いたまま言った。
「ミュータントが根城にしてる場所は空気に独特の臭いが混じる。…妙な生臭さがな。」
グレブもそのことには覚えがあった。キツネとの狩りで地下へ潜ったとき、長い階段の底から湿った空気が立ち上るのを感じた、あのねばついた臭い。彼も真似して鼻を動かしてみたが埃っぽい空気に思わず咽せてしまった。
背後でセルゲイも咳き込んでいる。「マスクつけたほうがいいかもしれねえな。」ヴィクトルがそう言いながら背嚢に手を伸ばす。
スタルカー達の前方ではキツネが奥の暗がりに向かって歩き始めていた。既に二十メートルばかり距離を離している。
「おい、キツネ。」グレブが声をかけると少女は足を止め振り返って笑顔を浮かべた。
「なぁに?」
その瞬間、彼女の頭上へトラックが跳ね上がった。
轟音。鉄が軋み、天井を擦りながら横滑りした車体が隣のトラックに激突した。質量のある構造物がぶつかり合う破砕音、弾け飛ぶガラス。グレブは反射的に身をすくめ、動けずに硬直した。
咆哮が響いた。
ただの音ではない。空気を振動させ肺の奥まで震わせるような獣の叫び。トラックの影からそれは姿を現した。
岩石のような巨体。ざらついた灰褐色の表皮。筋肉の束を鎧のように纏った異形。腕の存在は確認できない。頭部は胴体に埋まり、異様に太い両脚によって直立している。
グレブはライフルに手を伸ばしかける。だが、それは既に眼前に迫っていた。突風のような圧力。動物的な恐怖心が足を縺れさせ、床に倒れ込んでしまったのは逆に幸運か。一瞬遅れて二度目の破砕音が地下に響き渡る。トラックが転がり、支柱が崩れ、鼓膜が痺れる。
「散開しろ!!」
誰かの怒声。混乱する思考の中でその声を聞き分けるのは難しい。だがその的確な指示はオレグ以外にありえない。グレブは這いながら立ち上がった。
振り返ると破壊された支柱とひしゃげたトラックが見えた。そして巨体の後ろ姿が闇に揺れる。そいつが突進をかまして来たのは明らかだ。しかし地面に広がる赤く細長い絨毯のようなものは何か?それはフラッシュライトの光を受け、滑ったような不気味な光沢を放っている。
「散開しろ!!」
再び響く声。今度こそオレグだ。彼は一本の支柱を背に、動揺するスタルカーたちへ指示を飛ばしていた。その姿は次第に舞い上がる埃にかき消されていく。グレブは口元を覆いながら駆け出し、コンクリートの柱の陰へ滑り込んだ。
同時に背嚢に括りつけられていたガスマスクを手に取り、素早く装着する。密着するゴムと自分の荒い呼吸音。その中で彼は理解し始めていた。あの突進で誰かがやられたのだ。ミュータントの質量が人間の体を砕き、床に擦りつけた。その結果があの赤い絨毯だった。人体は原型を留めず平たく押しつぶされたのだ。
グレブの脳は外の世界のニュース報道で見たリーク映像も思い出した。危機的状況への対応手段を過去の記憶から掘り起こさんとする人間の本能か。完全武装した軍の精鋭部隊が装甲車のような巨体のミュータントに蹴散らされる──。そして今まさに目の前でそれが再現されようとしている。
地下の闇が視界に重たく圧し掛かっていた。舞い上がった埃はスタルカー達を霧のように包み、フラッシュライトの光線も弱々しく散っている。それぞれが散開したことで光量は分散し、地下空間の奥行きが一層深く冷たく感じられた。気がかりなのは地上へ通じる亀裂から差し込む光が細まっていることだ。突進が招いた瓦礫の崩落が脱出路を塞いだのかもしれない。
それでもミュータントの巨体だけは粉塵の向こうでぼんやりと浮かび上がって見えた。その威圧感はまるでこの地下世界を支配する王者のようだ。
スタルカー達はまだ怯んでいなかった。支柱の影からマズルフラッシュが走り始め、銃声が地下全体に反響し耳をつんざく。雄叫びを上げているのはパブロだ。生きていた。
グレブもTAR-21の照準を巨体に合わせ引き金を引いた。銃身が跳ね、反動が肩に食い込む。5.56mm弾は間違いなく怪物の胴体に叩き込まれている筈だが、硬い外殻にどれだけ有効打を与えているのか分からない。
「効いてねえぞ!」離れた支柱の影でセルゲイかヴィクトルが叫ぶ。半ば混乱の覚めぬ極限の状況下、グレブの中では再び二人の区別が曖昧になっていた。心臓が早鐘のように鳴り、汗がガスマスクの内側を濡らす。
四方から浴びせられる銃弾を"生きた歩行戦車"は雨粒のように受け流していた。悠然と、緩やかに、重機のような筋肉が膨張し、皮膚の下で何かが蠢くのが見えた。
巨体が屈んだ。次の瞬間、轟音。そいつは視界から消え、凄まじい勢いで突進していた。耳を引き裂く破壊音、金属がねじ切られるような悲鳴。支柱が倒れ、トラックが跳ね飛び、粉塵が再び爆発するように舞い上がる。
衝撃波はグレブの元にまで届いた。反対側の壁に激突した怪物は瓦礫を撒き散らしながら立ち上がる。信じられない加速。まるで物理法則を嘲笑うような力。闇と粉塵に紛れてハッキリとは見えなかったが、グレブの目には加速の直前に巨体の周辺の空間が僅かにさざ波を立てたようにも見えた。生物の筋力のみであれほどの加速を行うことなど到底不可能であろうからには、その裏にはゾーンが生み出した超常的な何かが潜んでいるということか。
瓦礫の隙間から這い出てくる影があった。運良く突進を免れたらしい迷彩服がよろめきながらもしっかりと立ち上がり、支柱の影へ駆けていく。
「徹甲弾を使え!」
オレグの指示が飛ぶ。彼のライフルが作り出すマズルフラッシュはいつもの倍ほどの大きさになっていた。異様な発砲音が耳を突くのは徹甲弾どころか強装弾でも使っているためか。
支柱の影でパブロが急いで弾倉を交換するのも見えた。グレブは舌打ちする。自分は徹甲弾はおろか通常弾しか持っていない。ルーキーらしい驕りと準備不足がこんな局面で牙を剥いて来たのだ。これでは奴の皮膚すら貫けない。
粉塵の帳の中、不意に視界に小さな影が視界に映り込む。
三角の耳、揺れる尻尾。キツネだった。戦場の混乱の中で彼女の存在をすっかり忘れていた。そしてその姿を認識した彼は現実感を失った。
少女は死と破壊の地獄を何事もないかのように歩いてくる。ひとり、ゆったりと、まるで気ままな散歩の途中とでも言いたげな軽やかな足取りでこちらに向かって来ている。怪物の咆哮、銃声、瓦礫の崩落──全てを無視したその姿は、まるで戦場に後付けされた下手な合成映像のように場違いで不気味だった。
その少女の背後でミュータントは次なる突撃目標を探していた。胴体部に埋まった頭部、そこに更に埋没したいくつかの眼球が闇の中でギラリと光る。そしてその無慈悲な暴君は、目の前を悠々と歩く小さな少女のことだけは完全に無視していたのだ。
リロードのタイミングが重なり銃声が途絶えた。地下空間に束の間の静寂が落ちる。度重なる猛攻と絶え間ない恐怖がスタルカーたちの身体を縛り始めたのかもしれない。グレブは血と臓物の臭いがガスマスクのフィルターをすり抜けて肺を締め上げているような感覚に陥っていた。
「キツネ!」
グレブは声を潜め少女を呼ぶ。彼女はすぐ傍のトラックのボンネットに腰を下ろして地下駐車場を見回しながら、小さな足をプラプラと揺らしている。戦場の只中にありながら公園にでも居るかのような──いや、これでは戦いを"観戦"しているかのようだ。
「なぁに?」少女はグレブの方へ顔を向けた。
「なんとかならないか?」グレブの声には切実な願いが滲む。キツネならあの怪物をも操り無力化できるのではないか。かつて地下道で見せた超常的な光景、それは探索における死の恐怖をグレブから遠ざけていた防護壁だった。「お前ならやれるだろ?」
キツネは少し首をかしげ、思案するように目を閉じた。
「ごめんね、今日はだめかも。グレブ、頑張ってね!」その言葉は軽やかで、まるで遊びの誘いを断る子供のようだった。何が駄目なのか?いつなら良いのか?混乱と疑念がグレブの頭を掻き乱す。
彼女の笑顔は変わらないが、その奥に潜む何か――底知れぬゾーンの深淵――がグレブの魂を凍らせた。
通路を挟んだ向かいのトラックの影に迷彩服が滑り込んできた。「グレブ、やべぇぞ。早くここから──」
ヴィクトルの言葉は破壊音に掻き消され、地下空間が震えた。津波のようなトラック群のなだれが彼の身体を飲み込んだのだ。血飛沫が天井にまで飛び散りフラッシュライトの光に赤く輝く。怪物の突進に巻き込まれた彼は今度こそ助からなかった。グレブの喉から悲鳴が漏れそうになるが、恐怖はそれすらも押し殺した。
そして怪物は勢い余って捻じれたトラックの残骸に嵌り込んでしまったのか、その場でもがいていた。その動きは未だ力強く車体の金属を軋ませているが、しかし上手く立ち上がることができないでいる。
「グレブ!手榴弾だ!」オレグの怒号が響く。支柱の影でライフルを構えているこの男だけが冷静さを保ち続けている。
グレブは我に返り、腰に下げた二発の破片手榴弾の存在を思い出した。ピンを引き抜き怪物の足元へ滑らせ、すぐさま自らは柱の影に身を隠す。隣にキツネの小さな身体が潜り込んでくる気配があった。
爆発音が地下に轟いた。空気が震え、金属片と破砕されたコンクリートが雨のように降り注ぐ。
一呼吸の後、グレブは顔を出して闇と粉塵の向こうを確認した。
怪物はまだ動いていた。だが太い脚の一本が不自然な角度で折れ曲がっている。骨か関節か。度重なる銃撃と至近距離の爆発が蓄積し、ようやく巨体を蝕み始めていた。
生き残ったスタルカーたちは一斉に猛追を始めた。オレグとパブロのライフルが連続して火を噴き、弾丸が怪物の外殻を削る。グレブもTAR-21の銃身が熱を持つのを感じながら5.56mm弾を撃ち込んだ。弾丸が肉に食い込む感触が照準越しに伝わる。怪物が傷口から体液を吹き出し始め、床にねばついた染みを広げていく。
仲間二人がリロードで銃撃を止めた瞬間、オレグが素早く前に出た。熟練のスタルカーはAN-94を構え、もがく怪物に至近距離から強装弾のフルオート射撃を叩き込む。マズルフラッシュが闇を切り裂き、重なった鋭い銃声が地下に反響する。ついにその強固な外殻が砕け大量の血液が噴き出し、巨体が痙攣と共にコンクリートに崩れ落ちていった。
そしてグレブがリロードを終える頃には生きた歩行戦車はようやく動きを止めていた。
静寂が戻る。グレブの耳には自身の心臓の鼓動とガスマスク越しの荒い呼吸だけが響いている。パブロも支柱の影から姿を現し、慎重に近づいてくるのが見えた。グレブもライフルを構えたまま彼らに歩み寄った。
三人のフラッシュライトが倒れた怪物を照らした。力なく垂れ下がった二本の脚、いくつかあったらしい眼球は十字砲火を浴びて潰れ、オレグが穿った大穴からはまだ血液が漏れ出している。
勝利の高揚はない。無意識に拳を握っていた。何のためにここにいるのか。わからなくなる。セルゲイとヴィクトル、仲間の二人が失われのだ。その事実がグレブの身体の奥底を重く苛んだ。死体は原型を留めてすらない。バラノフカの共同墓地に身体を持ち帰ることもできない。ゾーンにおける恐らく最大級のミュータント、その一体を倒したことなどあまりに空虚だった。
「このガキ!」背後でパブロが吠えた。
振り返ると彼の持つバトルライフルの銃口がキツネの頭に向けられていた。陽気な南米男の顔は今や怒りに歪んでいる。
「俺たちをハメやがった!ここに誘い込んでミュータントに襲わせたんだ!」
グレブは自らの足元が揺らぐのを感じた。彼の言い分は状況からして的外れとは言えなかった。
"人が多い方が楽しい"。それが少女の誘い文句だった。彼女に導かれるまま踏み入れたこの地下空間。その先に待ち構えていたのは複数人でなければ討伐することは到底不可能な怪物。何も知らずに足を踏み入れたスタルカー達は、まさに標的だったかのように襲撃されたのだ。
だがそれでも、グレブの心の奥で何かが激しく抵抗していた。子供に銃が向けられている──。その構図そのものに対する身体の奥から湧き上がる説明できない反発だった。
そして当の少女は銃口を頭に突きつけられても平然としていた。澄んだ瞳がこちらを見上げ、微かな笑みを浮かべている。その様子はあまりに異様だった。あまりに無垢で、あまりに空虚だった。
「よせ。」グレブは少女を庇うように前へ出た。銃口と少女のあいだに自らの身体を差し入れる。
「オメェも見ただろ!ミュータントはこいつを無視して俺らだけ襲ってきたんだぞ!」パブロが吠える。怒りに震える声は恐怖の裏返しでもあった。「こいつが仕組んだんだ!」
「とにかく、やめてくれ。」グレブは右手を上げ懇願した。パブロの目は血走っていたが、しばらく睨み合った後、渋々銃口を下げて怒りの籠った荒々しい息を吐き出した。
「…アーティファクトはどこにある?」オレグが低い声で尋ねた。熟練のスタルカーは怪物の絶命を確信したのか、ようやくこちらを向いていた。
そもそもの探索の目的はそれだった。"キラキラ光るアーティファクト"。怪物退治などではなく、それこそがこの地獄に足を踏み入れた理由だ。
グレブは振り返り、少女を見た。「キツネ…。」
彼女は答えず倒れた怪物の死体に歩み寄る。ぬかるむ血の海の中に屈み込むと、ヌルリと、オレグの強装弾が穿った穴に細い腕を肩まで突っ込んだ。粘性の体液が押し出され地面に波紋を広げていく。
「イカレてんのか?」パブロが嫌悪感で上ずった笑い声を上げる。
グチャグチャと内臓をかき回すような不快な音が地下に響く。グレブの胃が締め付けられ、手が震えるの感じた。
やがてキツネが腕を引き抜いた。血に染まった彼女の手には歪んだ黒い球体が握られている。結晶でも金属質でもない。心臓のようにドクドクと脈打ち、僅かな燐光も発さない。一見すると怪物の臓物であるかに思われた。
しかしそのシルエットはグレブの視界に不可解な残像を焼き付ける。視線を逸らしても、そこに存在するという妙な気配が消えなかった。まさしく現実の理を捻じ曲げる尋常ならざる物体、アーティファクトであることを物語っていた。
「おいおいおい……待て待て、嘘だろ……。」パブロの声が震えている。
彼はキツネの手にあるアーティファクトを見ていなかった。視線はグレブたちがこの地下に潜り込んだ亀裂──地上へ通じる脱出路──に注がれている。差し込む光は妙な赤みを帯びていたが夕方にはまだ数時間あるはずだ。グレブの背筋にも悪寒が走る。それこそはゾーンの中心から迸り空を焼く死の雷光、『光熱放射』の予兆だった。
「同じ縄張りに二体以上はいない。奥へ行くぞ。」オレグはあくまで落ち着いていた。ライフルを肩に担ぎ直し、仲間の返事を待たずに歩を進める。
「何モタモタしてんだ!そんなガキ置いて早く来い!」パブロが焦りを隠さず叫ぶ。徐々に赤い光が強まる中、その目には恐怖が滲んでいた。
グレブは半ば呆然としながら仲間を追おうと足を踏み出した。だが小さな手に袖を掴まれた。
変わらぬ無邪気な笑顔。三角の耳がピクリと動き、ふさふさの尻尾が揺れる。ブカブカの迷彩服の右腕は肩までミュータントの血と臓物にまみれている。
「グレブ、アーティファクトだよ。嬉しい?」闇と悪臭に沈む地下に響く透き通った高い声。
大きな怪物の脈打つ心臓を、小さな怪物が差し出していた。