STALKER:Fox Hunt   作:abubu_nownanka

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11節:新種

ゾーンを歩むスタルカーにとっての鉄則。その筆頭は「空が赤くなったら全力で走れ」だ。

 

用を足している最中だろうと、宝が目と鼻の先に輝いていようと、敵対集団との銃撃戦の真っ只中であろうと関係ない。最新式の堅牢な探索用防護服も、放射線を無害化する希少なアーティファクトも、光熱放射の死の稲妻から人間を守ることはできないからだ。ゾーンの深淵から不定期に迸るそれは血のような赤で空を染め暴風となって荒れ狂い、地上の命を容赦なく焼き尽くす。

 

最も安全なのは拠点の強固なシェルターだ。バラノフカには工場の地下構造を転用した大がかりな避難所が備わっている。拠点に逃げ帰る余裕がないなら、廃墟内の密室や地下室、打ち捨てられた地下道の奥深くなど、四方を分厚い壁に囲まれた窓のない閉鎖空間ならどこでもいい。光の届かぬ暗闇に身を潜め、嵐が過ぎるのをじっと待つしかない。

 

グレブがゾーンに入って最初に滞在したルーキー村。半壊したあばら家を"宿舎"と称していたその拠点でさえシェルターはあった。煉瓦とモルタルで補強された古い防空壕。駆け出しのスタルカー達、村の職人、雑貨商の手下の傭兵が、薄暗い電灯の下の狭い空間で肩を寄せ合い、等しく無力な人間として地表を焦がす雷鳴が止むのを待った。あの閉塞感、土と汗と恐怖の匂い、地上から響く放射線の咆哮。グレブの記憶に刻まれたゾーンの洗礼だった。

 

各地域に存在する拠点は光熱放射の到来をあたかもハリケーン予報のように広域無線で警告してくれる。しかし彼らとて大気に禍々しい波が押し寄せるまでその兆候を捉えられない。だからこそゾーンを幾度なり渡り歩いた者は空に僅かな赤みを見た段階で避難を始めるのだ。まことしやかな噂話などは「荒野でミュータントの群れが岩陰の洞穴に逃げ込むのを見たら空が青くても拠点へ引き返せ」と語っていた。

 

そして、その予兆をまんまと見逃してしまったのがグレブたちだった。

 

彼らが身を寄せるのは兵員輸送車両の地下墓所。セルゲイとヴィクトルの命を奪った闇の中に、生き残るための避難場所を見出すしかなかった。

 

無限に続くかに思えた地下の闇も、実際に歩を進めてみればあっけないほどすぐに行き止まりへと突き当たった。

 

駐車場から連なる通路の先に地上の建物のいずれかへと繋がるらしい階段が見つかり、生き埋めの恐怖もひとまず遠のいた。上階から仄かに赤い光が漏れていたので、一先ずそれ以上の探索は諦めたが。

 

グレブたちは通路の脇に点在していた小部屋の一つ、かつて車両整備員が仮眠を取っていたと思しき当直室で夜を明かすことにした。鉄扉の蝶番は開閉の度に軋みを上げ、室内には錆びたベンチと工具棚、そして壁に埋もれるようにして折りたたみ式のベッドが打ち付けられていた。兵士たちの気配はすでに失われ、残っていたのは埃と酸化した油のにおいだけだ。

 

パブロが怒りを押し殺しきれずにいるのは当然だった。あの怪物との戦いで仲間を二人も失ったのだ。その引き金となった可能性が拭えない以上、小さな案内人は何かしらの釈明をする必要があった。

 

だが少女はパブロの怒気を込めた詰問にまるで応じなかった。澄んだ瞳で虚空を見つめ、まるで彼の存在そのものが認識に入っていないかのようだった。仕方なくグレブが代わりに尋ねる。それでも返って来るのは益体のない幼児のような説明だった。

 

「ゾーンがね、キラキラしたのをあげるから、いっぱい人が来たらきっと楽しいよって。グレブも、アーティファクト見つかって、うれしかったでしょ?」

 

まるでお気に入りの玩具を自慢する子どものように無邪気で軽やかな声。事の重大さなどまるで意に介していない。パブロに押されてグレブがつい語気を強めると、キツネは愛らしい仕草で困ったように三角の耳を伏せ、ふさふさの尻尾を小さく揺らした。

 

「ふざけんな!」パブロが拳を壁に叩きつけ、憤然と隣の小部屋へと去っていった。

 

揺らぐ塵がライトの光に浮かび上がる。グレブもこれ以上の質問は無意味だと悟った。もちろんキツネが自分たちを罠に嵌めたとまでは思っていない。それでも彼女が言う"ゾーンの声"とやらに悪意が潜んでいないとは断言できないのだ。

 

気がかりなのはもう一つ。オレグの視線だ。

 

キツネの話を聞くうちに彼の目が妙に真剣な光を帯び始めたのが気にかかる。あの寡黙で現実的な男が幼児めいた言葉の中に何か意味を見出そうとしている──。それがグレブにはひどく不穏に映った。

 

それから何時間が過ぎたのか。

 

地下の小部屋はランタンの白い光に淡く浮かんでいる。埃とカビの匂いが漂う中、時間は緩慢に流れていた。グレブは折り畳み式のベッドに腰を下ろしている。分厚いコンクリートの天井越しに光熱放射の乱流が唸り声を響かせている。雷鳴のようなその音は徐々に弱まりつつあるが、完全な静寂が訪れるのは日没後だろう。

 

パブロは「嵐が止んだら拠点に戻る」と主張していたが、弾薬を消耗した今、夜のゾーンを強行突破するのは得策ではない。最終的にはオレグの判断に従い、三人のスタルカーと一人の少女はこの地下で夜を明かすこととなった。パブロは隣の小部屋で苛立ちと喪失を紛らわすようにライフルを磨いているのだろう。

 

グレブの隣ではキツネが丸くなって寝息を立てていた。ついさっきまで戦闘糧食と缶詰を嬉しそうに頬張っていたが、口元にわずかに残ったトマトソースに気づかぬまま、まるで子狐のように静かに眠っている。三角耳をぴたりと伏せて夢の中で何かを追いかけているのか時折指先が小さく動いていた。

 

少女から漂う腐臭の源はブカブカの迷彩服に染み付いたミュータントの体液だ。肩口までべっとりと赤黒く染まっている。その小さな手だけはグレブが水筒の水を少し使って拭ってあげたが、服に染み付いたものまではどうしようもなかった。

 

グレブは「キツネが気に入りそうな菓子を雑貨屋で調達する」と決意していたことを思い出していた。紛い物のアーティファクトとミハイルの告白で、すっかり頭の奥に押しやられてしまっていた。そして、今はあの時ほど素直な気持ちになれそうにない。

 

オレグはグレブの正面。壁際に腰を下ろし黙々とライフルの整備をしている。先程の戦闘における強装弾の固め撃ちはAN-94の内部パーツに多大な負担をかけていたようだった。当然ながらそういった事態も想定済であるらしく、彼は背嚢から予備パーツを取り出し、消耗したスプリングとバッファーを丁寧に交換していった。確信を持った動きで金属を扱う熟練の手つき。すべてが正確で無駄がなかった。

 

ゾーンで七年生きてきた戦士の横顔、風と放射能に削られた岩のような相貌が明かりの中で仄かに揺れる。

 

「不思議な子だな、その子は。」整備の手を止めず視線をライフルに固定したまま声を発した。彼らしからぬ感傷的な言葉だと思った。男は続ける。「グレブ、お前はその子をどうするつもりだ?例の借金とやらを返し終えたら、外の世界へでも連れて帰るか?」

 

グレブは言葉に詰まった。「いや、そこまでのことは考えてない…。」

 

本心だった。キツネが何者なのか未だに図りかねている。ゾーンの神秘そのもののような少女が自分の手に負えるとも思えない。常に目の前のことで精一杯だった。あと数個のアーティファクトを手に入れて借金を返し終えてからなら、精神的な余裕が生まれるかもしれない。だがその時には外の世界で待つ家族の元へ一刻も早く帰りたいという想いを抑えられないだろう。

 

ゾーンからキツネを連れ出す?そんな大それた考えはグレブの現実から遠すぎた。

 

「…アンタはどうしてゾーンにいるんだ?」答えづらさを紛らわすように問い返した。

 

オレグのような熟練者は何故この地獄のような場所に留まるのか?金か、名声か、それとも何か別の理由か。ゾーンにまつわる与太話の数々はスタルカーたちの抱くさまざまな“浪漫”を語っている。そしてこの男の胸に宿っているものがそれらのどれに近い形をしているのか、グレブには未だにつかみかねていた。

 

オレグはライフル整備を終えたところだった。ストックを肩に当ててボルトを引く。その滑らかな動きを確認し、トリガーを空引きしてカチリと音を立てる。そしてまるで独り言のように呟いた。

 

「その子の話を聞いてたら思い出した。昔に見た光を。深淵の、そのまた底だ。人の理解を超えた神の領域。…そこで俺は同胞たちと共にゾーンの声を聞いたんだ。」

 

ランタンの光が彼の風化した顔に深い影を刻む。そこには祈るような、あるいは懐かしむような色が浮かんでいた。まるで置き忘れてきた何かを、もう一度だけ手に取りたいと願っているかのように。視線はわずかにキツネの寝顔に触れ、それからゆっくりと闇の奥へ戻っていった。

 

グレブの心に静かな衝撃が走った。オレグがそんなことを言うとは思わなかったからだ。

 

常に冷静で合理的な判断を下す信頼できる熟練のスタルカー。先の戦闘でも、死と破壊が吹き荒れる中にあって冷静に指示を発し続けた。その姿にグレブは心の底から敬意を抱いたほどだ。その男がこのゾーンに奇跡や神秘、ましてや"神"を求める輩のようなことを口走っている──。

 

ゾーンに信仰を見出す者は決して少なくない。

 

科学の常識を嘲笑うこの世界は既存の宗教家たちの眼を惹きつけた。彼らはゾーンの存在を自らの教義に無理やり当てはめ、神の福音と讃える者もいれば、愚かな人類への罰と断じる者もいた。そして外の世界で信徒に囲まれて言葉を紡ぐ彼ら以上に、ゾーンに最も近しい者たち──スタルカーの中にこそ、より真理に即した宗教が芽吹くのは当然だった。

 

アノマリーの輝きに神の意志を見出す者。アーティファクトに聖性を見いだす者。地の底で響く鼓動に死者の声を聞き取ろうとする者。彼らはゾーンの神秘をそのまま信仰に変え、惨禍の中心たるチェルノブイリ原子力発電所すら巡礼の聖地とした。

 

だが、グレブは違った。

 

グレブはそんな”オカルト”を信じなかった。ゾーンは単に現在の科学技術では解明できないと言う意味においての"未知"の領域にすぎない。その根源には必ず説明可能な原理が存在する。アノマリーも、ミュータントも、いずれ人間の叡智が解き明かす日が来る。ゾーンの謎が全て解明された後の世にはキツネすら説明可能な存在に還元されるのかもしれない──。

 

ある意味、それこそがグレブの"信仰"だった。彼は科学者ではないし、学術的知見を持っているわけでもない。それでもある部分においては科学者と意見を一致させていたのだ。

 

そしてオレグが神秘を口にしたことを妙に納得している自分も居た。目の前の男は金やアーティファクトに執着しない。ゾーンの過酷な道に身を投じながら、欲を捨て、利益も求めず、ただひたすらに歩み続ける。

 

その姿は、まさしく"求道者"のそれに他ならなかった。

 

「…俺はその声を、また聞きたいのかもしれん。」

 

求道者は自嘲気味に笑うと、壁に背を預けたまま目を閉じた。その表情に浮かぶのは照れか、あるいは痛みか。心の奥に沈めていたものを、柄にもなく口にしてしまったことへの小さな後悔が滲んでいた。彼の迷彩服の肩で擦り切れている狼のエンブレム。"共に深淵で声を聞いた同胞"というのは、その紋章の元に集っていた者達の事なのだろうか──?

 

グレブはふっと息を吐いた。いずれにしても個人の価値観にまで干渉するつもりはなかった。それに例えオレグが宗教者だったとしても、あるいは何らかのオカルト組織に連なる者だったとしても、彼をスタルカーとして信頼する自分の心に揺らぎはないのだ。

 

そして眠る少女を起こさぬように気を配りながら、折り畳み式ベッドの隅に静かに横たわり、まぶたを閉じた。

 

次にパブロに揺り起こされた時、オレグとキツネは居なくなっていた。

 

◆ ◆ ◆

 

超常的な嗅覚を持つ少女や熟練のスタルカーの導きで忘れていたが、ゾーンの荒野を踏破するのはやはり骨の折れる作業だった。ルーキーを抜け出したばかりの二人の力でその工程を完了しバラノフカに帰還したのは日が傾きかけた翌日の夕方。夕靄が拠点の煙突を橙に染め、塀の影を長く引き伸ばす頃だった。

 

あの後、二人は朝もやの中で軍事拠点の廃墟をくまなく探し回った。忌まわしい地下駐車場、朽ちた建屋や兵舎、区画の外れで崩れかけた掘っ建て小屋の中まで虱潰しに覗いたが、そこにオレグやキツネの影はなかった。

 

「…あのガキがオレグに何かしやがったかもな。」その表情には怒りよりも困惑が濃くにじんでいた。

 

パブロ自身そんなことを信じていないのは明白だ。ゾーンを七年生き抜いた男がそう簡単に手玉に取られる筈がない。オレグが姿を消したのなら、それは彼が自らの意思でこの場を離れたに違いない。その点に関して二人のスタルカーは同じ確信を共有していた。

 

では何が起こったのか?グレブとパブロが眠りに落ちている間に、キツネがオレグを誘い出したのか?あるいはオレグはキツネを連れ出す隙を最初から窺っていたのか?

 

パブロの苛立ちは答えのない問いに火をつける。少しでも思い当たる節は無いか尋ねられたグレブは、眠りにつく前にオレグが仄めかした"信仰"らしきものについて話した。彼らが知る熟練の男らしからぬ言葉、らしからぬ行動。聞かされたパブロは眉をひそめ口をへの字に曲げたまま無言になった。

 

やがて廃墟の周辺に野犬の遠吠えが響き始めた。ミュータント化した獣の群れが朝の薄光に誘われて集まりつつある。おそらくは死肉の臭いを辿ってきたのだろう。あの巨体のミュータントの臭いに釣られたのであって欲しい。圧し潰され無惨に果てた二人の仲間のものではなく。

 

グレブとパブロは顔を見合わせ言葉なく頷いた。弾薬は乏しく戦闘は極力避けたい。二人はそっと背を向け帰路についたのだ。

 

夕刻のバラノフカは冷たい風にざわめいていた。赤く染まった空の下、丁度帰還して正門をくぐるスタルカーの一団に紛れてグレブとパブロは無言で足を進めた。その一団はどうやら首尾よく仕事を終えたらしく、門番に向けて軽口を叩き戦果を誇っている。

 

その輪の後方をグレブとパブロは足音も立てずに歩いていく。顔を上げる気にもなれず言葉も交わさず、ひたすらに前だけを見る重い足取り。キツネに連れられて五人で狩りに出たスタルカーがたった二人で戻ってきた──。その事実にまだバラノフカの誰も気付いていなかった。

 

「……とりあえずアントンのところへ行くか。」珍しくグレブから提案した。パブロも黙って頷く。

 

キツネがミュータントの死体から引き摺り出した物体。グレブの格納容器の中ではあのアーティファクトが脈動を続けている。これの為に二人の仲間が命を落としたのだ。キツネが言った通り、とびきりの宝であってくれなくてはならない。そうでなければ何のために地獄を潜り抜けたのかわからない。

 

スタルカー達は通りの最奥へ進み、鑑定士の店のシャッターを潜った。

 

二人が来店したと見るや、守衛の大男はあからさまに警戒した様子だった。揉め事を起こしかけたゴロツキとして顔を覚えられたのだろうか。幸い今回はぞろぞろと頭数を引き連れて居なかったので大男は守衛としての冷静さを崩さずにいた。グレブとパブロは銃器、ナイフ、背嚢をカウンターに預け、店の内部へ通される。

 

バラノフカへ滞在するようになってから何度目かになる鑑定士の店。鷲鼻の男は相変わらずカウンターの奥から客を出迎える。アントンは眼鏡越しに多少訝しげな目を向けてきたが、オレグの姿がないことについては何も聞かなかった。相手もいつまでもルーキーではないとでも思ったのだろう。

 

「それで、今日は何を持ってきたんだ?」

 

グレブは無言で格納容器を開く。そして脈打つ歪んだ黒い球体をカウンターに置いた。まるで生きた臓器のような質感。視界に不可解な残像を刻む性質は、キツネに差し出されたあの時と変わりなかった。

 

途端、アントンの目の色が変わった。「おいおい、ちょっと待て…。」彼の声には抑えきれない興奮が滲む。この鑑定士がこんな反応を見せるのは初めてだった。

 

「値打ちもんか?」パブロも期待が蘇ったのか身を乗り出す。

 

「ええい、ちょっと黙っとけ!」アントンは手を振ってパブロを制し、モニターと睨み合いを始めた。

 

画面にはアーティファクトの目録やデータが次々と表示されているのが見える。更に鑑定士は作業台に移り、検知器をいくつも並べ始める。放射線や未知のスペクトラムを計測する針が忙しく揺れる。球体を慎重に回転させ、光を当て、時には小さなプローブで表面を軽く叩いた。静かに時が流れる中、パブロは何度も壁際の椅子に腰を下ろしかけ、その度に立ち上がった。グレブは沈黙のまま作業の様子を見つめていた。

 

10分以上も待たされた。まるで店にある検査機器を総動員したかのように、鑑定士は慎重かつ徹底的な作業を続けていた。やがて彼は深く椅子に腰を落ち着け、額に滲んだ汗を袖で拭った。

 

「終わったのか?で、どうなんだよ。こりゃいくらで売れるんだ?」業を煮やしたパブロが問い詰めた。

 

「…こりゃ新種だ。」アントンは眼鏡を外し、疲れたように息をつく。

 

"新種"。それはアーティファクトに関する与太話の中でも定番の一角を占めている。アーティファクト、アノマリー、ミュータント──いかなる異形も最初に発見した人間がいる以上、その出現の瞬間には必ず“新種”の称号が与えられる。それはゾーンの超常性すらも人間の観念で捉え、分類し名を与えるという、人智の営みを反映していた。いずれにせよ、この場に居る彼らが実物としての“新種”に出くわすのはこれが初めてだった。

 

そして、その次に放たれた言葉が二人のスタルカーの期待を見事に裏切る。

 

「つまり値がつけられん。」

 

「あ?新種なら、なおさら大金じゃねえのか?」パブロは困惑し声を強めるが、アントンは首を振った。

 

「いいか?アーティファクトってのは効果があるから値がつく。病気を治すもんは外の金持ちが大金払うし、軍は戦車の砲弾を逸らす実験の為に防弾効果のあるもんを大量に買い漁ってる。だが、新種となると…。」彼は言葉を切る。

 

「効果が分からないってことか。」グレブには鑑定士の言わんとしていることが分かった。

 

「そうだ。金払ってガラクタの可能性もある。そしたらただの置物だ。」アントンは眼鏡をかけ直す。「買うとしたら科学者だ。だがな、金が入るのはかなり先になるぞ。国の予算で動いてる連中は特にな。下手すりゃ1年待ちだ。だいたい新種と偽ってガラクタを売りつけようとするスタルカーの相手なんて連中は日常茶飯事だからな。よほどのツテがなけりゃ信用されん。」

 

何やら個人的に身に覚えがある話らしく、鑑定士は口の端を歪めて皮肉げに笑った。

 

「アンタが紹介してくれるんじゃないのか?」グレブが問いかけると、アントンはわずかに肩をすくめた。

 

「もちろん、できる。だが言った通り時間がかかるし、最終的に価値に見合った金が入るとも限らん。俺が今ここでお前らに金を渡してやることもできん。つまりそういうことだ。それでも良いなら契約書を作ってやる。」

 

その言葉にパブロが舌打ち混じりに悪態をつく。確かにキツネの言っていた通り、これが“とびきりの宝”である可能性はまだ捨てきれない。それでも現実に金へと結びつかないのならばスタルカーにとっては同じことだった。

 

目の前にぶら下げられた希望の断片が、まるで泥の海の中に沈んでいくようだった。手を伸ばせば届きそうでありながら、指先で触れれば足元からぬかるみへと嵌ってしまうような不快な感覚。

 

だが──"科学者のツテ"という言葉に、グレブの頭にひとつの顔が浮かんでいた。

 

◆ ◆ ◆

 

結局、契約書は交わさぬまま二人は鑑定士の店を後にした。

 

科学者の心当たりについて話した時、パブロはうなだれたまま短く「お前に任せる」と言い残して宿舎──あるいは酒場──の方向へふらふらと姿を消した。

 

セルゲイとヴィクトルの死、オレグの失踪、そして彼の期待を裏切ったアーティファクト──それらが一度に襲いかかればいかに陽気な南米男でも疲弊してしまう。彼が今回の狩りの顛末を酒場でどのように語るのか想像もつかない。

 

一方のグレブはというと仲間の死に対して奇妙なほど実感が湧かなかった。喪失感も今や冷め始めている。死の直前、またしてもセルゲイとヴィクトルの名を混同した自分を思い出す。血の通った人間でありながら"遠からず顔を合わせなくなる人間"として見ていたのかもしれない。その薄情さにグレブは滲むような自己嫌悪を覚える。覚えたが、それでも歩みを止めることはなかった。

 

その足でバラノフカの一角、科学者たちが滞在する白いプレハブ群へと向かった。

 

区画の入り口となる開けた白い通り、似通った外観の建物ばかりなので目指す場所に迷わず辿り着ける定かでないが、ここバラノフカで知り合うこととなった例の"キツネにご執心の科学者"──アイザック教授の棟を目指そうとした。だが数歩と進まぬ内に鋭い声が飛んできた。

 

「何の用だ?」サブマシンガンを抱えた数人の男たちが詰め寄ってくる。

 

背嚢も格納容器も背負わない市街地警備用の必要最小限の防御装備。彼らはスタルカーではなく科学者が専属の護衛として雇っている者達だ。訝しむような視線にはバラノフカをうろつく得体の知れない食い詰め者に対する不信が露骨に滲んでいた。グレブとしてはアイザック教授に門前払いされる可能性をこそ考えていたのだが、そもそもプレハブ周辺にこんな検問があること自体知らなかった。

 

「アイザックって科学者に会いたい。」落ち着いて答えた。

 

「誰だって?」語尾に刺すような警戒が混じる。グレブは予想外の詰問に気を取られ、暗緑色のハイブリッド防護服を着た二人組が近づいて来ることを認識していなかった。しかし向こうはグレブを認識していたらしい。その一人が足を止め、声をかけてきた。

 

「お前か。ここで何してる?」頭部を覆う遮光バイザー越しの若い声には聞き覚えがある。アイザック教授の護衛の一人だ。身内に顔見知りが現れたことで詰問者たちの警戒心と包囲網が解かれていく。グレブは顔の見えない若者の有能さに内心で感謝した。

 

「アイザック教授に会いたい。……キツネの件で。」

 

すぐに暗緑色の護衛が無線でやり取りを始めた。数秒後、ヘルメット内のインカムから何かが聞こえたらしく、彼は小さく頷いた。

 

「会うそうだ。ついて来い。」

 

グレブは若者に続いて白い路地へと歩き出す。もう一人の暗緑色はその後ろからついてくる。今回はこちらからの訪問なので多少は警戒度が上がっているのかもしれない。二人共、身体の正面に吊ったサブマシンガンにそれとなく手をかけているのが分かった。

 

やがて記憶にある、あのプレハブ棟が現れた。護衛が分厚い気密ドアをノックすると、すぐに中年を過ぎた年頃の男が顔を出した。丁寧に髭を剃ったあの科学者。だが以前の柔和な態度は無く、硬い表情がスタルカーを迎えた。

 

「入りたまえ。」そっけなく告げ、扉を開いたまま身を引いた。違和感はあったが、この科学者を信用しないことに決めていたグレブにとってそれは大した疑問ではなかった。

 

アイザック教授の部屋は相変わらず作業感と生活感の同居した空間だ。壁に貼られたゾーン全域の地図。散乱したペンと走り書きのメモ、壁際のコーヒーメーカー、タオルケットのかかったソファ、ミュータントの生体写真に混じるキツネのポートレート。そして不用心にも壁に吊るされたままのホルスターと最軽量モデルのグロック。ただし前回訪れた時に稼働していた計測機器のモニターは全て電源が落とされていた。部屋の一角には段ボールが積まれ、その中に書類や機材が詰め込まれているのが見える。まるで引っ越しの準備をしているかのようだった。

 

今回はコーヒーのサービスも無いらしい。そして暗緑色の護衛も1名、壁際に控えている。教授は椅子に腰を下ろすと、こちらの問いかけを待つまでもなく口を開いた。

 

「完全に、という訳ではないが撤退も視野に入っている。これ以上ここであの子供を調べても無駄な気がしてきたからね。」前回の口調から柔和さを半分削って、代わりに水を足したようなそっけなさだった。

 

「例の政府の調査とやらは済んだのか?」政府の公式な学術調査団のための事前調査──この男は自分がゾーン入りしている理由をそう説明していた。それなのに今のはまるでキツネが目的だったかのような口ぶりだ。

 

スタルカーに問われた科学者は、うっすらとした含みのある笑みを浮かべた。どんな事情かは知らないが、撤退が視野に入ったことで最早バラノフカのスタルカーに対して”建前”を取り繕う気が無くなった。そんな印象が感じられた。さっさと本題を済ませた方が良さそうだ。

 

グレブは格納容器に手を伸ばす。視界の端で護衛がわずかに身じろぎするのが見えたが構わず容器を開き、脈動するそれを取り出してデスクの上に置いた。

 

「今日、キツネに案内されて手に入れたアーティファクトだ。鑑定士の話じゃ"新種"らしい。」

 

科学者は机の上で脈動する異形の物体をしばし注視していた。その視線には些か興味深げな色も混ざっていたが、鑑定士が見せたあの熱に比べれば遥かに希薄なものだった。グレブは間を置かず切り込む。

 

「だが新種は調べてもらうにも金に換えるにも時間がかかるそうだ。アンタは興味ないか?あの子によれば"ものすごく良いもの"だそうだ。」

 

「なるほどなるほど…キツネの件と言っておきながら本題はそれか。」科学者の口元がわずかに歪んだ。「随分と"スタルカー"らしいじゃないか。取りあえず、それは仕舞ってくれるかな。机が被曝しちゃ敵わん。」

 

スタルカーは科学者に従いアーティファクトを容器に戻す。物体が齎す不可思議な残像が消え、再び彼らの視界はクリアになった。

 

「勘違いしてもらっては困るが私が興味あるのはキツネであって、アレが見つけてくるアーティファクトではないよ。」男の冷たい態度にグレブは落胆を覚えた。こちらが半ば騙す形で面会を取り付けたのだから文句を言える立場でもないのだが。

 

しかしまだ期待は持てるようだった。「…とは言え、興味を持ちそうな友人に心当たりがないではない。それにまあ、"狩り"の話を聞くのも良いか。キツネと何があったのか聞かせてくれ。アーティファクトの扱いについてはそれを考慮して決める。」

 

グレブは足元に容器を下ろし、探索のあらましを語り始めた。キツネに誘われたときの違和感、彼女に従い仲間四人を引き連れてゾーンへ踏み出したこと、打ち捨てられた軍事施設、兵員輸送車両の地下墓所で彼らに襲い掛かった死と破壊、仲間二人の命を犠牲にして手に入れた宝──。そしてオレグとキツネの謎めいた失踪。言葉を紡ぐたび、仲間の最期が目の前に蘇るようだった。

 

語る間もアイザック教授の表情は一貫して冷ややかだった。以前のように冒険譚を気分良く語らせる気配りはなく、グレブは時折言葉に詰まりながら説明を続けた。

 

その一方で度々奇妙な質問が挟まれた。誰が何を喋ったか、どのような言い方をしたか。こちらに一字一句を再現させようとするのだ。その記憶の追跡は前々回の探索にまで及んだ。何がそこまで彼の関心を引いているのかグレブには不可解ではあったが、それでもできる限り思い出して答えた。

 

話は思いのほか長引き、途中で教授は護衛にコーヒーを淹れさせた。有能なる若者が訪問者の分まで丁寧に用意してくれたので、グレブは再びタダでコーヒーにありつくことができた。教授はその気配りに忌々しげだったが。

 

「…なるほど、キツネはギリギリの"難度調整"が好みのようだね。だがまあ、あまり真新しい話もなかったな。」

 

話は終わり、アイザック教授は幕引きを告げるような言葉を吐いて椅子の背にもたれた。まるで誰かの映画脚本を聞いたかのような態度。そこには命を賭けて仲間を喪った男たちへの哀惜も、敬意も、微塵も感じられなかった。スタルカーたちの苦闘は彼の脳内で記号化され無感動な分析の糧として消化されていく。そんな冷たい目を向けながら教授は素知らぬ顔で問いを放った。

 

「というより、君はキツネそのものには感心が無いと見える。道案内をしてもらうだけで満足なのか?」その言葉には嘲りが滲んでいた。

 

「アンタこそ、あの子にご執心の割には会って話すだけなようだが?」グレブはすぐさま言い返した。思っていた以上に皮肉が口を突いて出ていた。

 

「私が?私があの異形児を詳しく調べようとしなかったと思うのか?もちろんしたさ。」科学者の方も少し声を荒げた。

 

グレブの心に冷たい不安が走る。あの溜池での様子ではこの男はあくまでキツネに優しげな言葉をかけていただけのように見えた。その裏で何をしていた?科学者が“観察対象”に対して何をし得るか、しかも相手は半分ミュータント化した異形なのだ。司法の目の届かないこの僻地においては、人間的な倫理観など簡単に踏みにじられてしまうに違いない。

 

「…何をしたんだ?」次の言葉を待ったが、科学者は腕を組んでこちらを見据えたままなかなか口を開かなかった。

 

だが目の前の男の表情は深刻な秘密を洩らしかけた後悔というより、とっておきの与太話を聞かせてやろうかどうしようか迷っているパブロのような、そんな様子だ。護衛がこちらの会話に耳を傾けていることを意識しているようでもある。グレブはふとあることを思いつき、身を乗り出してわざとらしく口角を上げた。

 

「勿体ぶらず聞かせてくれよ。どうせ俺には大したことは分からないんだから。」

 

いつか見せた態度への意趣返し。あの時、教授はグレブに内容が理解できないことを承知の上で独りよがりの与太話を捲し立てていた。それは相手を必要としないただ"壁に話すような態度"だったが、しかしこの男とて"壁に話す機会"自体は欲しているのかもしれない。

 

スタルカーの意図を理解したのかニヤリと笑う。そして"壁"を得た男は熱っぽい調子で話し始めた。

 

「いや、実際には詳しく調べようと"してすらいない"。何がアレの反感を買うか知れたものではないからな。正確にはキツネに興味を持って捕まえてでも調べようとする知り合いの科学者に匿名でキツネの情報をリークしただけだ。案の定、一週間後には胡散臭い風体のスタルカーが5人、バラノフカへやってきてキツネについて嗅ぎ回り出した。奴らときたら、溜池を散歩していた私にまでキツネの事を根掘り葉掘り聞いて来た。もちろん善良なる"事前調査員"は警戒して何も話さなかったがね。いずれにせよ、そいつらはキツネを付け狙い何回か捕獲にも成功した。どうなったと思う?」

 

既に済んでしまった事実を聞かされている、という理解があるとはいえ、この告白は少なからずグレブを動揺させた。そしてやはりこの中年過ぎの自称教授は"ろくでもない科学者"だったという確信を得た。目の前の顔は狂気じみた笑みを浮かべた。

 

「殺しても生き返るどころではない!捕獲麻酔の使用の有無、覚醒時、非覚醒時問わず、捕獲されたキツネは輸送中に"突然死"した。そして何ごともなかったようにゾーンに新たなキツネが"再発現"したんだ。捕獲された方の死体は解剖され今もSIRCAAのラボに保管されているというのに!」

 

捕獲、突然死、解剖──。悍ましい単語が踊る。しかし感覚の何かが麻痺してしまったのか、今、スタルカーは科学者に対する道義的な嫌悪よりもキツネを巡る謎への答えを欲していた。

 

「…それで、何が分かったんだ?」

 

科学者は机の引き出しから分厚い報告書を取り出した。原本ではなくコピーであるらしい。表紙には何かの研究機関を示す刻印と無機質なコード番号。彼はページをめくり、まるで古い詩を朗読するように読み上げ始めた。

 

「検体解剖結果。記録番号F-3。検体の推定年齢、10歳から12歳。体組織の14.2%にミュータント起源と推定される組織異常を確認。主に頭部皮膚組織、末梢神経、内耳平衡器、および視床下部周辺に偏在。異常細胞群には高密度のグリオーマ様増殖が見られるが、腫瘍性ではなく神経伝達機能を拡張する機能的変異である可能性。この変異パターンはゾーンの野生動物に確認される“全身変異”症例の初期過程と類似──。」

 

彼はそこでいったん言葉を切って目を細める。

 

「ふん、過程なものか、キツネは何年も前からあの姿のままなのだからな。次だ。両眼において虹彩構造が著しく変異。虹彩上皮に光干渉構造を持つ層が形成されており、これが暗所における視認能力の異常な高さに寄与していると推定される──。いわば、生体由来の『暗視装置』だな。だが嗅上皮および嗅球における受容細胞の密度は、一般的な人間のそれとほぼ同等。特殊受容体の発現やシグナル伝達機構に大きな異常は確認されず──。」

 

教授はついには椅子を離れ、報告書を片手に部屋の中を歩き始めた。

 

「キツネの鼻が君らの検知器のようにアノマリー由来のイオン化分子を嗅ぎ分けている可能性を私は考えていたが、これは科学的には完全に否定されてしまった。実際にはキツネはアノマリーの匂いなど嗅いでいない。更に脳組織分析。海馬および前頭前野の一部に軽度の萎縮を確認。病理的にはアルツハイマー型初期認知症に近似──。これもないな、私もテストしたがアレの認知能力はどう見ても正常だ。」

 

まるで講義でも始めるかのような口調だったが、その声には熱がこもりすぎていた。恍惚、あるいは錯乱と紙一重の領域だ。壁際の護衛はうつむいたまま微動だにしない。まるで男の奇行を黙認する彫像のようだ。

 

グレブは言葉の断片を追いながら科学者の動きを注視する。男はゆっくりと室内を旋回し、時に壁に手をつきながら、時に虚空に視線を這わせながら、独り芝居のように読み上げ続ける。内容のほとんどはグレブにとって暗号のようだったが、この科学者の抱いていた予想をことごとく裏切る調査結果だったということだけは理解できた。

 

「──つまり、特殊なミュータント個体であるには違いないが、そのデタラメさを裏付けるものは何もなかった。私があの異形児を直接調べても無駄な気分になっている理由が分かっただろう。ご希望とあらば、"偶然"に入手した生体サンプルをお見せするが?タンパク質の翻訳後修飾と酵素活性部位の特異性に関して、君の専門の分子生物学的視点からの見解を聞きたい。おっと、君はただのスタルカーだったな、これは失敬。」

 

検体保存用の冷蔵庫だったらしい壁のパネルの内部をまさぐって何かを見せようとしたが、幸いグレブはそれを視界に入れずに済んだ。

 

そうして、ようやくアイザック教授は独演会を終えて椅子に戻って来た。天井の蛍光灯を見つめる教授の目は、その無機質な白い明かりよりぎらついている。

 

「まるで"ゾーンの意思"とやらが物理世界に干渉する為に用意した器ではないか。希望をチラつかせて、スタルカーたちを深淵に誘い込み、最前席でその死を見物する。観測機の身動きが取れなくなったらリセットして再スタートという訳だ。」

 

グレブはその形容を頭の中で否定しながらも、心の奥では納得しかけているようにも感じられた。そして、この唾棄すべき男でさえ何も分からなかったという、その事実こそが自分を深く落胆させていることに気付いた。

 

再び顔を上げた時、中年を過ぎた髭の無い顔がこちらに向けられていた。

 

「だが正直言うと私は"君"の方に興味が出てきている。ついでだし聞いておこう。君は何故ゾーンに来たんだ?事情を聞かせろ。」

 

グレブは既に十分不快だったが、この問いかけは意外だった。彼が自分を見下しているのは明らかだが、であれば"壁"の細かい身の上になど興味を持たないだろうからだ。あるいは単に愉悦を深めたいだけか。そしてもちろん、グレブには答える義理も無い。

 

「アンタには関係ない。」科学者の好奇心を冷たく切り捨てた。だが次の言葉でグレブは僅かに眉を動かした。

 

「当てよう。"子供"の為だろう。娘か?」その推測は正しかった。「恐らく父親である君がわざわざゾーンに来た理由。目的は明白。治療費か何か、借金の返済だな。」

 

グレブの猜疑心はこの程度の指摘で目の前の男をどこぞの名探偵かと錯覚するような軟弱者ではない。"一攫千金"、もしくは借金絡みの事情は民間人がゾーンに密入域する動機のトップに君臨している。加えて、自分の年齢であれば家族や子供が居てもおかしくない。あてずっぽうで言っても半分は当たるし、外れたら外れたで相手の反応を見て徐々に問いを変えれば良い。自称"霊能者"が駆使するタイプの有り触れた話術だ。

 

「キツネが気に入る人間には一定の傾向がある、過去にアレに気に入られたスタルカーも大体そのパターンだった。酒場の店主についてはパターンに一致しないようだが、まぁ、酒場には"前任者"が居たそうだからな。その前任者とやらがそういう人物だったのかもしれん。」

 

この一点に関しては明確に間違っている。キツネは"ミハイル本人"を気に入っているし、そのミハイルは子煩悩な父親でも何でもない。バンディットの生き残りの青年が歳を重ね、贖罪の念に突き動かされているだけだ。教授の推理力の信用度はグレブの中で大幅に下落した。

 

「だがそこで妙なのは、君が人の親として子供に親しみを示し、条件付けられたかのように銃口から守る、その割にはゾーンから連れ出したり保護しようとする素振りは見せないことだ。随分と他所の子に冷たいじゃないか。」教授はいやらしい笑みを浮かべる。そのことはグレブも自己矛盾に戸惑いを感じている部分だった。

 

「保護しないのはアンタも同じだろう。"政府の人間"なら真っ先にそうする義務があるんじゃないのか?」矛盾を突かれて苛立ちを覚え、反論する。

 

途端に教授はしょぼくれた弱々しい態度になった。「ああ、すまない…。融通の効く"事前調査員"の身の上とは言え、できる事に限界もあるのでね。上司に要請はしているんだが、紛争国の戦災孤児の有様と同じでなかなか受け入れてもらえない。でも今度の入域調査団が来たら、そのままあの子も外の世界に連れて帰れる筈なんだ。自分の無力さに恥じ入るばかりだよ…。」

 

そして即座に表情も口調も元に戻る。「…とまあ、私はこのように言い訳することにしている。だが君はどうだ?自分の娘を優先しているというのは合理的に聞こえるのだろうが、だからと言って地獄の穴底への道案内を子供にやらせるか?然るに私が言いたいのは、だ。どうも君からはキツネに接近し何らかの"目的"を遂げる為に、彼女の好みのパターンに適合しそうな人格を継ぎ接ぎしたような印象を受ける、ということだ。」

 

「何を言っているんだ?」思わず困惑し聞き返す。また例のオカルトめいた調子が始まった、とも思った。しかし教授は憤慨を見せ始めた。まるでグレブの方が異常者だと言わんばかりに。

 

「君は子供との接し方が分からんのか?私が何故あんな猫撫で声でミュータント相手にチョコレートをチラつかせてると思う?君に同行したベネズエラ人ですらお菓子で機嫌を取ろうとしたと聞くが、君と来たらまるで現実の子供と会話したことが無いような有様ではないか。娘とやらは本当に実在するのか?駆け出しのルーキーが何故バラノフカまで渡って来た?やはり君はコモン・コンシャスネスに記憶を改竄されたエージェントか?今こうしている間にも誰かが君の視聴覚を傍受しているのか?それとも私の回りくどいやり口が思いもよらぬ形で巡り巡ってしまったか?」仕舞には目の前で指を鳴らし始める。グレブの耳は途中からその狂気を拒絶していた。

 

「…そろそろアーティファクトをどうするか決めてくれないか?」溜息が漏れる。

 

ここまで来ると不快を通り越して薄気味悪い。毎日これに付き合わされているかもしれないと思うと、壁際で微動だにしない暗緑色の護衛が気の毒になってきた。グレブ自身、さっさとこの狂人の部屋から出て行きたい気分だったが、しかしアーティファクトの話がどう転ぶか見極めるまではそうも行かないのだ。

 

「ふん、エージェントに直接聞いても無駄か…。」教授は指を鳴らすことに飽きたのか椅子に座り直した。「それに私が興味あるのはキツネを探ろうとしているどこぞの勢力ではなく、キツネそのものだからな。とは言え、埒が明かないのも事実。もう少し状況を引っ掻き回すのも良いかもしれん…。」

 

彼はしばし黙り込み、思案するように顎を撫でた。狂気は落ち着いたのか、ただ冷たいだけの科学者の態度を取り戻していた。

 

「アーティファクトだったな。あの異形児がそこまで言ったのなら、私は信用する。"非常に興味深い新種"として知り合いの科学者に紹介してやる。私とそいつの名前を出した上で、もう一度バラノフカの鑑定士に仲介をさせろ。最終的な値が付くのはやはり時間がかかるが、優先的に検査されるだろう。まあ、そもそも君が話をでっち上げている可能性も否めないんだが──。」

 

アイザック教授は壁際に立てかけられていたトランクへ手を伸ばす。中に詰まった札束──金の流れを追跡できない現金──は前に見た時より大幅に目減りしているようだ。一体何に支払われたのか。男は無造作に三束手に取ってデスクに置いた。

 

「それよりも紹介の件と合わせて即金でいくらか渡してやるから、私の提案を聞け。」

 

スタルカーの視線は否応なく札束に引き寄せられた。そして大金に対する一般的な生理的反射作用として、ごくりと唾を飲み込む。

 

「キツネの住処へ行け。」その言葉は無造作な現金の投下よりも遥かに重たかった。

 

「…住処を特定してこいってことか?」スタルカーの推測を科学者は嘲笑った。

 

「まさか。私はそんなことは微塵も言っとらん。」まるでそれ自体が無知の証であるかのように鼻を鳴らす。「何がアレの反感を買うか分からんと言ったろうが。アレのねぐらを特定したければ私が直接指示を下さない形で然るべく調査する。ただ、あの子の家に遊びに行けば、そこにはそりゃもう大量のアーティファクトがあるだろう、とそう言っているんだ。」

 

冗談のような口ぶりだがその目は一片の冗談も含んでいない。パブロがいつか語った他愛もない与太話が脳裏に蘇る。「キツネの住処に眠る宝の山」。それが今、科学者の口から現実の誘いとして突きつけられていた。グレブは自分の胸中で仄かな欲望が燻り出すのを感じた。

 

今のままキツネの案内に身を任せておいて本当に目的を遂げられるのか?それとも自分から行動を起こすべきか?もちろん、奪うつもりなどない。パブロが言ったように「丁寧にお願いして分けてもらう」のだ。キツネの無垢な笑顔と自分に向けられた信頼。あの少女なら、そんな"お願い"を聞き入れてくれるかもしれない──。

 

重苦しい沈黙の中で、スタルカーの腕がゆっくりと札束の方へと動いた。

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