STALKER:Fox Hunt 作:abubu_nownanka
夜の帳がバラノフカを覆っていた。格子窓の向こうに広がるその闇は、まるで世界が音を失ったかのような静けさを湛えている。グレブは部屋に据えられた粗末な木の椅子に座り、黙ったまま窓を見つめていた。対面にはパブロが座っている。互いの沈黙が部屋を満たしているが気まずさではない。ただ、それぞれが何かを考えているだけだった。
あれから数日が経ったが、オレグは戻ってこなかった。
宿舎の四人部屋には今や二人のスタルカーしかいない。一人欠けただけで妙に部屋が広く冷たく感じられる。そして宿舎の管理人がこのまま二人で部屋を占有することを許す筈もなく、オレグが前払いしていた期間が過ぎれば、すぐに新たな入居者が押し込まれるだろう。
一度だけ、グレブは『狐の巣』に足を運んだ。酒場の喧騒の中で店主ミハイルと視線を交わした。キツネとの遠い因縁に縛られるその男の目に、グレブは自身の胸の奥を見透かされるような感覚を受けた。
それ以上に耐え難かったのは周囲のスタルカーたちの視線だった。重く沈んだ、憐れむようなまなざし。パブロが探索の顛末を話したのか、それともセルゲイとヴィクトル、そしてオレグの不在を照らし合わせて誰かが噂を創作したのか。中でもバラノフカの古参スタルカーたちの目には特別な重みがあった。彼らはきっと、キツネに連れられて狩りに出た者の末路を何度も見てきたのだろう。
グレブはその視線に耐えきれず、酒はもっぱらこの部屋で飲むようになった。痛んだ木の床に空の瓶が転がり、薄暗いランプの光がその表面で鈍く反射すしている。
パブロは相変わらず酒場に顔を出しているようだ。新たな仲間たちと笑い合うことで、喪失から立ち直ろうとしているのだろう。しかし、今夜は何か話があるらしく部屋に留まっていた。
「実は、ここで知り合った連中に誘われててな。他所の拠点へ行ってみようと思ってる。」パブロが口を開いた。浅黒い肌の男の声はいつもより静かで、代わりに何か決意めいたものが宿っていた。
彼の言う行き先とはゾーンでも指折りの拠点だった。バラノフカよりも多くのスタルカーが集い、金を掴むチャンスが転がっている。心機一転、一人前として道を歩むには良い機会なのだろう。この男の前向きな姿勢には見習うべきところが多いと、グレブは改めて思った。だが──。
「オレグのことは…どうする?」口をついて出たのはその問いだった。
何か事情があってあの場を離れたのだとしたら、あの男ならまた戻ってくる可能性がある。グレブにはそう信じる気持ちがあったし、それはパブロとて同じはずだ。
「オレグか…。」その反応はどこか引っかかるものだった。グレブが顔を向けるとパブロは手を振って顔を逸らす。「何でもねぇよ。ただ酒場に居たクソ野郎がデタラメほざいてただけだ。」
数日前からバラノフカに滞在しているその"クソ野郎"曰く、「ゾーンの声を聞いた」だけなら問題ないらしい。それなら単なる神秘主義者か、アルコールに脳をやられているかのどちらかだ。だがそこに「深淵で聞いた」「同胞と聞いた」が混ざると、途端に不穏な意味を帯びるのだという。
かつてゾーンに存在した勢力。バンディットとは異なる方向性での"最悪"。いつから居たのか、いつの間に勢力を築いたのかも不明な彼らは、他者との一切の交信を拒絶し、過剰なまでに強力な武装を携えゾーンの深部に籠城した。そしてただ、近づく者全てを殺し続けた。
それは一説には深淵に根ざす伝説──全てを叶える"願望機"を崇拝し、守護する狂信者集団であったという。彼らは長きに渡りゾーンの恐怖の象徴とされていたが、ある時突然の瓦解を見る。統率を失い散り散りになった彼らは、すかさず全スタルカーからの報復を受けた。
その後、僅かな残党がゾーンの中心から遥かに離れた僻地に"平和的"な拠点を築いたが、それすらも7年前に準軍事系の勢力との大規模な交戦の果てに壊滅したという。生き残りはことごとく粛清され、今や彼らの名を口にする者もなく、ただ噂の中にその影だけを残すのみとなった。
「オレグがそうだって言うのか?」
グレブは擦り切れたエンブレムを思い出す。あの狼の紋章の組織──ゾーンの解放を夢見た者達──は、確かに意見を違える対立組織との抗争が耐えなかったと聞くが、それでも言葉も通じない狂信者の集まりなどではなかった筈だ。
「だからデタラメな話だって言ってんだろ。大体、俺らがゾーンに入る何年も前の話だぞ?そんな"カルト連中の残党の生き残り"なんてもんがルーキーに混ざって酒場で飲んでるものかよ。くだらねぇ。」パブロは鼻で笑った。
確かに「深淵で全てを手に入れた伝説のスタルカーが知り合いに居る」と同レベルの突拍子無さだ。しかしそれをわざわざ話し聞かせるあたり、無意識にパブロの心を決めさせる一因にはなっていたのかもしれない。グレブとしては、別の与太話に伝えられてる"バンディットの生き残り"が酒場の店主をやっていることを思い出さずには居られなかったのだが。
「…で、問題はお前だよ、グレブ。」パブロが身を乗り出した。珍しく真摯な瞳がグレブを捉える。「俺らと一緒に来ねえか?」
グレブは黙り込んだ。彼と共に行く道もあるのかもしれない。仕切り直しの機会。大きな拠点で実入りの良い依頼を受け、パブロのような信頼できる仲間と共に稼ぐ。遠回りにはなってしまうが、それは確実性の高い選択に違いない。
だが、グレブの背嚢の底にはあの教授から受け取った金が沈んでいる。「キツネの住処へ行け」という悪魔の囁きのような言葉と共に。
キツネ。ゾーンに愛された、あるいは呪われた異形の少女。彼女の住処へ行き、そこに眠るであろう宝を持ち帰る。それで借金を清算し、この地を離れて外の世界に待つ家族の元へ帰れる。あと少しだ──。日に日に募る焦燥は放射線よりも鋭くスタルカーの心を苛んでいた。
「……すまない。俺はここに残る。」静かに首を振る。
考えた末、答えは変わらなかった。パブロはしばし目を伏せたまま黙っていたが、やがて肩をすくめ背を椅子に預けた。
「キツネ、か……お前な、あのガキに関わってたら今に死んじまうぞ。」一つ深い息をつく。「まぁ、あのガキはお前のことは気に入ってるみたいだしな。上手くやれよ。そんで例の借金返したら、こんなとこからはとっとと逃げちまえ。」
パブロは笑いかけ、肩を叩いてきた。激励を受けて少し気分が軽くなったのを感じ、グレブも笑い返した。
その夜、二人のスタルカーは遅くまで話し込んだ。グレブは初めてゾーンに足を踏み入れた日のことを語った。ゴーグルと防塵マスクで用心深く顔を覆っていた自分が、密入域を斡旋するブローカーのトラックの荷台で、恐らくパブロの姿を見かけていたことを。
陽気な南米男はけたたましく笑った。
◆ ◆ ◆
朝のバラノフカは珍しく晴れていた。薄い雲の切れ間から差し込む陽光が平原をほんのりと温め、空気に柔らかな輝きを添えている。工場跡の隙間を縫う風はわずかにぬるく、どこか春のような匂いを運んでいた。スタルカーたちは既に朝の出立を終え、正門に続く通りは閑散としている。
"門番からの短い通知"。キツネの来訪を継げるそれを受け取ったグレブは宿舎の外に立って辺りを見回していたが、三角の耳はどこにも見当たらない。もしかすると、ミハイルの酒場でシチューをかき込みながら笑っているのかもしれない。それとも──。グレブの足は自然と溜池の方へと向いていた。
すでに何度も通った道。割れたアスファルトを踏みながらゆっくりと歩いていくと、案の定、溜池の縁に小さな影がちょこんと座っていた。風に揺れる三角の耳、陽光を浴びて輝くフサフサの尻尾。見間違えようもなく彼女だ。少女は水面に向かって石を投げ、跳ねる音を楽しみながらどこか遠くを見つめているようだった。
キツネはすぐにこちらに気付き嬉しそうに手を振った。ぱっと花が咲くような笑顔は、無邪気で、無垢で、どこか懐かしい。グレブの胸に広がったのは素直な安堵感だった。科学者が並べ立てた異形の子供の底知れなさを聞かされてなおも、あの地下での急な失踪を遂げた少女の身が気がかりだったのは確かなのだ。
だが、すぐに別の感覚が胸を刺した。
目の前の少女は紛れもなくキツネなのに、そのこと自体が何かおかしい。違和感はほんのささやかな形でグレブの意識に割り込んできた。
少女の服──いつも着ているブカブカの迷彩服。サイズが合わず肩が落ち、袖が長すぎるこの服。その右腕にはべったりとミュータントの体液が染みついていたはずだ。死骸からアーティファクトを引きずり出すために肩口まで突っ込んだときの痕跡。それがまるで最初から存在しなかったかのように消えていたのだ。
グレブの足がもつれるように止まった。
──死んだのだ。あの後、彼女に何かがあった。そしてキツネが死ぬとき、その事実を否定するかのようにまた新たな"キツネ"が生まれる。外見も声も笑顔も寸分違わないが、それでもこの目の前の少女はあのときの彼女とは"別の個体"なのだ。
何か言おうとしていた筈だった。しかし言葉は喉に詰まり、スタルカーはただ力なく彼女の隣にしゃがみ込んだ。キツネは満足そうに微笑むと、もう一つ石を拾って池へと投げた。枯葉を浮かべた水面に波紋が広がり、その脇を黒い皮膚のカエルが悠々と泳いでいく。波紋が静まるのを待つように、やがてキツネが口を開いた。
「グレブ、元気ない?」
「…そうだな。」自分でもよく分からなかった。ただ、心に広がるのは濁った湖のような沈黙だ。
少女はスタルカーの横顔をじっと覗き込むように見つめる。それからそっと視線を戻すと、また石をひとつ拾った。小さな指先に挟んで転がしている。
「キツネもね、そういう時、あったよ。ずっと昔のことを思い出すの、ずっとずっと昔、キツネがキツネになる前のこと。誰かが、暗くて冷たい檻に入ってるの。小さい子がいっぱい居て、スタルカーじゃない大きい人も居て、檻に居るのはたぶんキツネじゃないんだけど、そのことを思い出すと、キツネは耳とか尻尾とかが、ちょっとだけ、へにゃってなっちゃう。」
キツネはうんうん、と何度か小さく頷くと水面に石を投げた。波紋がゆるく広がる。
「でもね、そうなったらすぐにゾーンが慰めてくれるの。“大丈夫だよ、キツネ、こっち見てごらん”って。そしたら、風の音が変わって、良い匂いがして、きれいなものが見つかったりするの。だから、キツネは今はもう、ゾーンにはこわいことなんて何もないんだって、分かったから。今は昔のことを思い出したときは、なんだかおかしくて笑っちゃうんだ。だからキツネもゾーンみたいに、グレブのこと慰めてあげなきゃね。」
キツネは背伸びをし、まるで疲れた大人に人生を説く子供のような得意げな笑みを浮かべた。
「グレブ、今日もアーティファクト探しに行く?そうしたら楽しくなる?」
その気遣いは、確かに温かかった。だが紡ぎ出される言葉は壮絶な過去の闇を秘めた異質なものであり、グレブの心には一歩至らなかった。スタルカーの頭にはたどたどしい慰めの言葉に混ざり、別の囁きが響いている。
『キツネの住処へ行け』
借金を返すため、家族の元へ帰るため──そのために必要な返事をしなければならない。スタルカーは重い口を開いた。
「いや……今日はお前の住処へ連れて行ってくれないか?」
キツネの動きがぴたりと止まった。
そして目を丸くして何度か瞬きを繰り返すと、くるりと一回転して背中から地面に倒れ込んでクスクスと笑いながら転げ回り始めた。まるで不器用な男の子に不意打ちの告白でも受けたかのような、そんな愛らしい無防備な喜び。うっかり落ちれば全身被曝は免れない死の溜池の縁で少女は笑い転げていた。まるでこの世界にゾーンの残酷さなど存在しないかのように。その三角の耳の動き、その尻尾の仕草は、何よりも雄弁に少女の喜びを物語っていた。
ひとしきり笑い終えた後キツネはようやく身体を起こした。埃と草の葉を払いながら、くしゃくしゃになった髪を整える。そしてグレブを見上げて、にこりと笑った。
「うん、いいよ。行こう。行こうねぇ。」
スタルカーはキツネに手を引かれて立ち上がり、バラノフカの錆びた鉄の門へと向かった。
少女の足取りは誇らしげだ。まるで世界に春が訪れたかのような浮き立つような歩き方。グレブは無言でその後に続く。握る手は最初に触れた時と変わらない、血の通った生き物の鼓動を伝えている。この子は嬉しいのだとよくよく分かった。心から無垢に疑いなく。
歩く最中、通りすがりのスタルカーたちの視線が背中に突き刺さった。門番は煙草を口の端に咥えたままじっとこちらを見送っている。少女に手を引かれているのがここ最近のバラノフカの噂の中心──キツネと狩りに出て仲間をすべて失った男だと知っているのだろう。そこには哀れみと諦観、あるいは欲に溺れて自ら泥沼に嵌り行く愚か者への侮蔑が滲む。まるで墓場へと向かう死人を見送るかのような冷たいまなざしだった。
グレブはそれらを無視した。むしろ彼らの視線を受け、スタルカーとしての冷えた判断力が徐々に戻ってくるのを感じていた。曲がりなりにもゾーンに足を踏み入れ"キツネの住処"という未知の領域に挑むのだ。彼らに構う余裕などない。
開いている手で検知器を握り、腰に備えた鉄の箱に視線を落とす。アイザック教授はそれなりに本気であったらしく提案を飲んだグレブに"装備品"を渡してきた。「放射線を無害化するアーティファクト」を収めた携帯用コンテナ。グレブが持っている格納容器とは違ってかなり小型で、アーティファクトの力を駆使してゾーンを歩むタイプのスタルカーが防護服に直接取り付けるためのものだ。
渡されたコンテナは頑丈に封印されており簡単には開けられない。無論、力ずくで抉じ開けて中身を売り飛ばすことも不可能ではないだろう。だが教授の曰く「間違っても持ち逃げするな」とのことだった。返却時、もし教授が既にバラノフカから撤退していた場合は鑑定士の店に預けろとも付け加えられていた。
放射線を無害化するアーティファクトには複数の種類があり、いずれも貴重であることには変わりないが、更に効力によって価格が天と地ほども違ってくる。このコンテナに収められたものがどれほどの品かは分からないが、少なくともグレブの検知器は周囲の空間放射線量が完全にゼロであることを示していた。
風は心地よく草原を撫で、なだらかな丘の斜面では草花がそよいでいた。遠くに見える古びた給水塔が朝の日差しを受けて地面にやわらかな影を落としている。ゾーンの乾いたあぜ道は歩きやすい。キツネは鼻歌まじりに草を踏みしめている。目の前ではふさふさの尻尾が揺れ、三角の耳がぴょこぴょこと小さく跳ねていた。
行く先で何が待ち受けているのか分からない。であれば今のうちに確かめておきたいことがあった。
「キツネ。」歩きながら前を行く少女に声をかける。「この前は地下で急にいなくなったな。あれはどうしてだ?オレグがどこへ行ったか知っているか?」
少女は足を止めず少しだけ首を傾げて考え込む素振りを見せた。
「ごめんね、分かんないと思う。」軽やかな声で楽し気に続ける。「でも楽しかったねぇ、大きいのが急にワーッ!って出てきて、みんなグシャーッてなって、銃をいっぱい撃って……グレブもアーティファクト見つけられて、嬉しかったよね。でもきっとキツネはその後で死んじゃったんだね。」
セルゲイとヴィクトルの死をまるで子供の遊びか何かのように語る。グレブは眉を顰めずにはいられなかった。あの惨劇の後、地下の小部屋で問いただした時も今のようにキツネの反応は薄かった。死んでも生き返る存在──生き返る訳ではないが──にとって、"死"とは取るに足らないことなのかもしれない。
「お前は……どうして、生き返ることができるんだ?」今更ではあるが、あまりにも根本的な疑問を投げかける。
キツネは目を丸くして問い返した。「グレブは、“川”を見たことある?」
「川?」
「あのね、ゾーンの地面の深く、ずっとずっと深いところに、光る川が流れてるの。ゾーン全部、ううん、きっともっと遠くまで流れてるんだよ。ゾーンいっぱいに広がってて、それが生き物全部を繋いでるの。スタルカーも、ミュータントも、死んじゃった人たちも。」
少女は両手を広げて宙をなぞるように動かした。
「キツネもね、アノマリーに触って身体がバラバラになっちゃうと、風に混ざってゾーンから居なくなっちゃうの。そうするとキツネはその川に沈んでいくの。それで、ああ、このまま溶けてみんなと一つになるんだ、って思うの。でもね、ゾーンがそこからキツネを掬い上げるの。“キツネにはまだやることがあるよ”って。」まるで童話を諳んじるような調子だったが、その瞳には確信めいた光が宿っている。「それでバラバラになったものが一つになって、そんな風に、またキツネはゾーンに戻ってくるんだよ。」
小さな異形は紛れもなく「死後の世界」について語っていた。
数多の宗教がそうであるように、この地に生まれた数々の信仰も死の先を見据えている。曰く、「現実のゾーンとは裏返しの"輝かしい楽園"としてのゾーンへ迎えられる」、「死んだスタルカーの魂が結晶化したものがアーティファクトだ」、もしくは「ゾーンで命を落とした者は亡霊となって永遠に荒野を彷徨う」──。それらは酒場で語られる与太話というよりは、あくまで神秘主義者の妄想に近い話題である。
一方で、科学的知見からは人間の精神に影響を及ぼすアノマリーの一種、"PSIフィールド"を拡大解釈した仮説としてゾーンにおける"集合的無意識"の存在も示唆していた。
しかし、実際に死を超越した存在が紡ぐ幼児的な言葉の断片は、そのどれよりも遥かに実体を帯びていると感じざるを得なかった。
「……キツネは、ゾーンから離れられないと思う。ゾーンが優しくしてくれるから、キツネも“ありがとう”って返さないといけないの。キラキラしたものとか、楽しいものとか……ゾーンの代わりに見てあげるの。でもね、全部が終わったら、キツネも“川”に行って、みんなと一緒になるんだよ。」キツネの尻尾の揺れは穏やかになっていた。どこか寂しげにも見える。
そして振り返り、グレブに向けて柔らかく微笑んだ。「……あ、そうだ、グレブのお友達もそこにいたよ。グレブももし死んじゃっても"川"に行くだけだから、怖いことなんて何もないんだよ。安心した?」
その無垢な笑みは、人間にとっては残酷ですらあった。セルゲイとヴィクトル、彼らのことを言っているのだろうか?確かに、キツネがこういった死生観を持っているのであればスタルカー達の生き死にへの反応が希薄なのも理解できた。
「キツネ……。俺は、まだ死ぬわけにはいかない。」グレブは低く、静かに首を振った。
人間の言葉に異形はきょとんとした顔を見せ、それからこくりと小さく頷いた。
「そっか、わかった。じゃあ気をつけようねぇ。」
それだけだった。あまりにも簡単な答え。事前にそう伝えてさえいればキツネは彼女は自分たちをあんな場所へは連れて行かなかったのだろうか?
死を前提としない命の在り方。命は失われれば戻らないと信じる人間と、死後の世界をすら生の一部としている異形。その深く暗い川を前にして、スタルカーはただ黙って歩を進めるしかない。
やがて道の脇に古びたバスの停車場が現れた。雲間から指す陽光は頭上に高く、風に吹かれて乾いた落ち葉が舞う。屋根は錆に覆われ、掲示板のガラスは割れて久しく、内部には古い新聞紙が散らばっていた。少女の足取りは依然軽やかだったが、スタルカーはしばしの休憩を申し出た。
グレブはベンチに腰を下ろすと、足を静かに伸ばす。そして背嚢から戦闘糧食と缶詰を取り出し、水筒の水と共に小さな案内人と分け合った。キツネは嬉しそうに缶詰を受け取り、足をぶらぶらと揺らしながら味気ない魚の切り身を頬張った。喉を鳴らすような音を立てて咀嚼し、満ち足りた表情で次の一口へと手を伸ばす。
その無垢な仕草にはやはりグレブの心を和ませるものがあったが、ふと自分があることを忘れていたのに気づいた。
またしてもキツネの気に入りそうなものを持ってきていない。
雑貨屋にも寄ったのにチョコレートバーを手に取るという単純な行為を忘れている。目の前の少女に対して以前ほど素直な感情を持てなくなっているのは事実だが、だとしてもあの科学者がそうしていたように、スタルカーらしい打算に基づいた行動として彼女の機嫌を取る意味はある筈だ。
グレブは自分の内に何か小さな“ズレ”が生じていることを意識し始めていた。なぜ、自分はそんな簡単なことを忘れてしまうのか──。
朝から続いた行軍はすでに何時間かに及んでいた。霧が次第に濃さを増し、ゾーンの荒野を白く覆い隠していく。足元の湿地は柔らかく、踏みしめるたびに水音がくぐもった音を立てた。先を歩くキツネの後ろ姿は小さく、楽し気な鼻歌だけが濁った霧の中で奇妙に澄んで聞こえている。
グレブとしては深淵へ向かう覚悟をしていたのだが、実際にはゾーンの中心ではなく掠めるようにして別の方向へ逸れた軌跡を辿っていた。もし今からバラノフカに引き返すならば夕闇の中を歩く羽目になるだろう。陽が落ちれば霧はさらに深く冷たくなる。それ以上に“引き返す”という選択肢自体が、彼にはもはや許されない裏切りのように思えていた。
そしてついに、霧の先に“それ”が見えた。
崖に囲まれた窪地の中心、ドーム状に空間が歪む異様な光景。揺らめく陽炎のような障壁が視界を捻じ曲げており、歪みに閉ざされた内部を伺い知ることはできない。線量計は依然としてゼロを示しているが、それが放射線を無害化するアーティファクトの効果なのか、窪地そのものに放射線が不在なのか判断がつかなかった。むしろ、実際の線量が分からないというのは不気味な盲点としてスタルカーの神経を逆なでした。
アノマリーの直径は三十メートルほどか。重力井戸の罠を桁違いにスケールアップしたような代物に見える。ゾーンには通常のアノマリーとは規格が異なる怪物的な現象が確認されている。止まることなく回遊し続ける竜巻、地面から天を突くように噴き上がる炎の柱、立ち入る者を永遠の眠りに誘う深紅の花畑、あるいは湖上に静かに佇む水銀のような巨球──。
見た目こそ超越的ではあるが、それらはスタルカーにとってゾーンの神秘を映す“観光スポット”でしかない。アーティファクト生み出すでもなく、単なる巨大なアノマリーとして人々の畏怖を掻き立てるだけの存在。
この巨大な空間湾曲も「何かを得られる場所ではない」と判断されるのが普通だろう。誰かが過去に遠巻きに眺めて何かしらの記録に残したかもしれないが、自殺志願者でもない限り近づいて触れようなどとは思わなかった筈だ。ここがキツネの住処であるのなら、確かにそう簡単に足を踏み入れられるものではない。
今、二人はその縁に立っていた。微かに空気が唸っている。湾曲が発する振動が、風のない世界に静かに響いていた。
「ここだよ。」
グレブの隣、キツネは両手を胸の前で合わせるようにして祈るような仕草で立っている。三角の耳がピンと立ち、フサフサの尻尾が静かに揺れる。そして一歩、また一歩と、空間の歪みに向かって進み出す。ひずみの境界面がまるで彼女を受け入れるかのようにふっと波立った。空気の層が柔らかく解けて、入り口のように口を開いたのだ。
ぞっとするような感覚がグレブの肌を撫でた。少女に呼応してゾーンそのものが意思を示したかのような超常的な光景。彼女の本質、延いてはゾーンの核心のひとかけらがこの中にある。まさしくここがキツネの“巣”なのだ。
空間の裂け目に半身を差し入れた異形の少女が、振り返って笑った。
「グレブ、入ってきて。」
スタルカーは大きく息を吸うと、アノマリーの接近を警告する検知器の甲高い音を無視し、裂け目に片足を踏み入れた。
◆ ◆ ◆
瞬間、世界が反転した。
まるで脳を一閃するような眩暈。視界がぐらりと揺れ、思わずよろめいた。強烈な光に包まれ思わず目を覆う。だが光はすぐに引く。顔を上げたグレブは息をのんだ。
風にそよぐ草原。どこまでも広がる碧空にはいくつもの白い雲がのんびりと浮かんでいる。木々の枝がやわらかく揺れ、小鳥の声が聞こえてくる。足元の草は生き生きと茂り、空気にはかすかに甘い香りが混じっていた。春先の森のような若葉と花の匂いは、心の奥に眠っていた懐かしく何かを呼び覚ますようだった。
小さな背中が草原の小径を進んでいた。グレブは半ば呆然としながら周囲を見回し、その後を追った。
丘の中心には白い家が佇んでいた。ゾーンの建物のように朽ち果てはおらず、陽光を浴びて柔らかく輝いている。近づくと中からは香ばしい匂いが漂っているように感じた。パンでも焼いているような暖かく優しい香り。
庭先には木の長椅子が二脚、寄り添うように置かれていた。キツネがひょいと一つに飛び乗り、フサフサの尻尾を揺らして笑う。
「座って座って!」
歩き詰めで疲れを感じていたグレブは背嚢を下ろし、ライフルを椅子の側に立てかける。"激しい警告音を発している検知器"の電源を切り、そして自らもゆっくりと椅子に腰を下ろした。
今まで張りつめていたグレブの神経がようやく緩み始めていた。
胸に広がるのは思いがけない穏やかさだ。"キツネの住処"と言われ、いつか彼女が引きずっていたボロボロの白い袋──中から零れ落ちたガラクタ、残骸、ミュータントの身体の一部──そんなものが堆く積まれた恐ろし気な穴倉を勝手に想像していたのだ。自分が馬鹿みたいに思え、苦笑が漏れる。
「良い住処だな。」それは素直な感想だった。
「キツネのお家に来れる人はね、あんまり居ないんだよ。ゾーンが大事に守ってるからね。グレブは特別だよ。」少女は隣でくすっと笑う。
グレブは返す言葉を探せず、ただ目を閉じて空気を吸い込んだ。まさかゾーンにこんな心落ち着く場所があるとは想像もしなかった。温かくあたたかい風、パンの匂い、草のそよぐ音、キツネの小さな鼻歌。"足元に積み上げられたガラクタが軋む音"。すべてが夢のように、柔らかく時間を溶かすようだ。
少女は何も言わずにグレブの言葉を待っている様子だった。だからなのだろうか。男の中に押し込まれていたものがゆっくりと、抗えないほど自然にこぼれ落ちた。
「……ずっと、探して来たんだ。」グレブは"暗い洞窟の天井"を仰ぎ見る。高く広がる青はどこか非現実的なほど澄んでいた。
「ゾーンに来てから……いや、多分、それよりもずっと前からだ。軍にいた頃も、除隊した後も、ずっと……何かを探して、何かから逃げてた。理由なんか途中で分からなくなった。でも、とにかく歩き続けてたんだ。止まったら何かに呑まれる気がしてな……。」
「グレブは頑張ったんだねぇ、偉いねぇ。」少女の言葉は子守歌のように優し気だ。
グレブは目を伏せ薄く笑った。「でもな……こんな場所があるなんて、思ってなかったよ。ゾーンの中にこんな静かで穏やかで夢の中みたいな場所があるなんてさ。……ナディアとリナと、三人で暮らしてた頃の朝の空気に似てる。」
「ナディア?リナ?」キツネは膝を揺らし尻尾を弾ませながらこちらの話に楽しげに耳を傾けている。
"岩肌に半ば埋め込まれたいくつものアーティファクト"がグレブの目に留まり、パブロの言葉を思い起こさせた。「丁寧にお願いしてアーティファクトを分けてもらう」。今なら素直な気持ちでできそうだ。
「……その暮らしを取り戻すためには金が要る。金が必要なんだ。ゾーンなら、それが手に入ると思った。俺は全てを取り戻したくてここまで来たんだ。ほら──」グレブは迷彩服のポケットをまさぐると一枚の写真を取り出した。「その人がナディアで、その子がリナ。丁度お前くらいの歳の子だよ。」
キツネは差し出された写真を両手で受け取りしばらく黙って見つめていたが、やがて少し困ったような顔をして言った。「グレブ、これ、よくわかんない。」
眉をひそめたグレブは少女に返された写真をあらためて見直した。
──酷く汚れていた。ゾーンに泥にまみれ、ミュータントの血に染まり、果てはポケットに入れたまま気付かず洗濯してしまったせいか、湿気と熱でふやけたその紙は顔の輪郭すら曖昧にしていた。半分ぼやけたナディアとリナの顔がかろうじて判別できる。
思わず悪態が漏れた。大切な一枚のはずだった。それなのに、ゾーンを歩むのに必死だったとはいえ──なぜ、こんな大事な筈の写真を一度も確認せず、こんな状態になるまで放置したのか?
心の奥が、ぐらりと揺れる。強烈な違和感感が頭を包み込む。現実と記憶がどこかで食い違っている感触。グレブは無意識に立ち上がる。その時、キツネの耳がピクリと動いた。その視線がグレブの背後に向けられる。
銃声。
衝撃が背中を突き、スタルカーは前のめりに崩れる。写真が洞窟の地面に落ちた。