STALKER:Fox Hunt 作:abubu_nownanka
グレブの意識は重い霧の中からゆっくりと浮上した。目を開けると、剥がれた塗料がまだら模様を描く宿舎の天井がぼんやりと視界に映る。
ベッドのスプリングが軋む音が耳に響き、身体を起こすと全身の筋肉が鈍く悲鳴を上げた。ゾーンでの丸三日の単独行動は流石に堪えたらしい。拠点に帰り着いた際の記憶は霧のように曖昧だ。地下道で気絶していた時間は案外短かったらしく、未だ睡眠を欲していたグレブの身体は宿舎のベッドに辿り着くなり機能停止していた。
窓から差し込む陽光は既にオレンジに傾き、ゾーンの黄昏を告げている。グレブはしばし呆然とそれを眺めていたが、すぐに我に返ると荷物を探し、慌てて辺りを見回した。ライフルと背嚢はベッド脇に乱雑に積まれ、乾ききっていない泥の匂いが漂う。靴も履いたままだった。急いで背囊から格納容器を引き寄せ蓋をずらす。青く輝くアーティファクト──『月光』──の明かりが漏れ、グレブの顔を幽かに照らした。
無事だ。初めて手に入れた宝は変わらずそこにあった。グレブは息をつくとベッドに座り直した。
「やっとお目覚めか。」向かいのベッドからの気だるい声。パブロは仰向けに寝転がり、擦り切れた雑誌をめくっている。
「俺はどのくらい…?」グレブは喉の渇きを飲み込みながら尋ねた。
「帰るなりばったり寝ちまってよ。いくらなんでも不用心だぜ、二度もよ。」男は雑誌から目を離さず軽い調子で続ける。「お前、ゾーンでそんな寝方してたらとても生きてられねえよ。」
この男に不用心を指摘されるのは不服だったが、反論の余地もない。
パブロは南米──おそらくコロンビアかベネズエラ──の出身だ。グレブは彼の訛りと陽気な身振りからそう推測していた。グレブがゾーン入りして間もない頃からの付き合い、というよりゾーンへ潜り込む際、密入域ブローカーのトラックの薄暗い荷台に乗せられていた面子の中にパブロの顔があった気がする。グレブは用心深くゴーグルと防塵マスクを着けていたから向こうはそのことを覚えていないだろうが。
正直言ってグレブはこの楽観的な男が苦手だった。浅黒い肌と無精ひげ、いつも少し酒臭い息。得た金を酒代や博打にちびちび使うタイプだ。酒場のカードゲームで弾薬を賭け、負けても「ゾーンで取り返すさ」と笑う。借金の重みを骨の髄まで知るグレブには理解しがたい存在だ。
だが、ゾーンの殺伐とした空気の中でパブロの軽薄な笑い声や間の抜けた冗談で妙に和む瞬間もあった。それに少なくとも、こいつが自分の荷物を盗んで逃げる姿は想像しにくい。
もう少し信用するべきかもしれない。グレブはそう思い、途端に自分が猛烈に空腹であることに気づいた。酒場に寄ってシチューか干し肉を腹に詰めるのもいいが、どうせ後でパブロとオレグに奢ることになる。格納容器を背嚢に収めると、ライフルと共に肩に担ぎ直した。
「コイツを金に換えてくる。」グレブは立ち上がり、ドアへ向かいながら言った。「…戻ったら、一杯おごるよ。」
「なんだ、本気にしたのかよ?」パブロが目を丸くし、けたたましく笑った。
グレブも僅かに口角を上げ、部屋のドアを押し開けた。
夕日の差し込まない東側の廊下では蛍光灯の人工的な明かりが夜の薄暗がりを打ち消さんとしていた。古びたタイルの床が軍用ブーツの足音を鈍く反響する。
宿舎は工場の旧事務棟を改装したものだ。天井を走る剥き出しの配管とひび割れた壁が、この建物の歴史を物語っている。スタルカー達に割り当てられるのは基本的に四人部屋で、マットレスの敷かれたパイプベッド、ライフルの類も収納できる大きめの荷物ラック、そして簡素な机と椅子、卓上ランプが備えられている。備品は古いが壊れたまま放置されている様子はない。誰かが定期的に手入れしているのだろう。滞在費も駆け出しのスタルカーの懐を圧迫しない程度の額に抑えられている。更に金を追加すれば個室も借りられるが、グレブにはそこまでの余裕はなかった。
半開きのドア越しに部屋の断片が覗く。一つの部屋ではベッドに腰かけたスタルカーたちが今日の戦利品を山分けしていた。テーブルに広げられた札束、弾薬、鈍い燐光を放つアーティファクトの欠片。低く響く笑い声と値踏みするような鋭い目。
別の部屋では泥にまみれた迷彩服姿の男が壁にもたれ、憔悴した顔でタバコを吸っている。部屋のベッドの一つには、べっとりと血が付いていた。持ち主は今、医務室で手当てされているのか。それとも拠点の北に広がる共同墓地──名前の刻まれた鉄板が並ぶ無言の墓標──に運ばれたのか。
彼らの装備はグレブが持つ粗末なAKS74Uや在り合わせの防刃ベストとは比べ物にならないほどマトモだ。中堅どころなのだろうが、ルーキーとしては彼らがどれくらいゾーンで生き延びた猛者なのかはっきりとは判断がつかない。グレブは通路に視線を戻し、歩みを進めた。
「中堅はここまで違うものか」この宿舎に初めて足を踏み入れた時の感想が頭に蘇る。
ゾーンに来て最初に滞在した"ルーキー村"。あの場所の「宿舎」と称する場所では、腐り落ちた天井越しに星空を眺めながら寝る羽目になった。床とも地面ともつかぬ場所に湿った寝袋を敷く。夜にはミュータントの遠吠えが響くが、拠点を護るバリケードは低く薄い。そして、肥え太った雑貨商の男がグレブのような新入り相手に暴利を貪っていた。食料一缶に外の世界の数倍の金を要求し、従わなければ雇われの傭兵からの拳が飛んでくる。その暴君は笑いながら言った。「慣れろ新入り。ゾーンは甘くねえ。」物資は乏しく寝袋すら盗まれる始末で、グレブも二週間目からはライフルと僅かな金を握り潰すように抱えて眠った。
だがここは違う。壁は厚く、窓には鉄格子があり、扉には錠がかかる。
とは言え、完全に肩の力を抜ける訳でもない。正直なところ部屋に荷物を置いて出るのは不安だった。パブロのことは信用するにしても、あの南米男が鍵もかけずにふらりと部屋を空けるところなどは容易に想像できる。スタルカーにとって荷物は命そのもの。金、弾薬、携帯食料、ゾーンを生き抜く上での必需品。そして胸ポケットに収めた家族の写真──擦り切れた一枚。盗まれてはたまったものではない。
グレブは宿舎の扉を押し開き、外気へと足を踏み出した。傾きかけた夕日をまともに顔に受けて目を細めながら、その焼けつくようなオレンジの光が拠点の埃っぽい通りを染めるのを見た。
ゾーンの北東部。かつての工業地帯の亡魂とも呼べる廃墟に『バラノフカ』と呼ばれるこの拠点は存在していた。本来の役割を果たせなくなった工場群を改装して作られたらしいその姿は、実用性を追求した無骨で野生的なものだ。鉄条網を施されたコンクリートの壁がぐるりと拠点を囲み、ミュータントから身を守っている。壁の上には監視塔が二つ立ち、夕陽を背に黒いシルエットを刻む。風が吹き抜けると鉄条網はガタガタと震え、工場が遠吠えのような音を立てた。
拠点の中央、一際高い煙突をデコレートしているのは強力な野戦用通信アンテナだ。それらは頭上の遥か高みを周回する衛星とリンクすることで、この人知の及ばぬ魔境の一角にインターネットの恩恵を給わしている。主に拠点の運営に関わる各施設の主たちが独占しているようだが、スタルカー達もそう安くない利用料金を払うことで、か細い通信帯域を通じた必要最低限のデジタル情報の送受信を行うことができた。
唯一の出入り口である正門の近くでは、AKを下げた数名の門番が暇そうに談笑している。煙草の煙が夕陽に溶け、粗野な笑い声が響く。その脇を今日の狩りを終えたスタルカーたちがぞろぞろと戻ってくる。疲れ切った顔の者、背嚢に詰めた戦利品の重さに息を切らす者、包帯の巻かれた片腕を抑える者。ある者は無言で門をくぐり、別の者は門番に軽口を浴びせる。
この拠点にあるのは宿舎だけではない。通りを進むと酒場兼食堂からシチューの匂いと喧騒、男たちの笑い声とグラスのぶつかる音が漏れ聞こえる。武器や装備品を扱う店は窓の無い半地下の建物だ。もちろん店頭に品物を並べるような悠長な商売ではない。頑丈な鉄格子越しに金を差し出し、銃や弾薬を受け取る。その隣の雑貨屋も似たようなもので、飲料水、携帯食料、医薬品、石鹸、剃刀、歯ブラシ、電池、トイレットペーパー──それら必需品が闇市のようなせせこましさで取引される。雑貨屋に看板はなく、ただ『生きるための物』と書かれた板が風に揺れていた。
グレブは酒場の方に目をやったが、すぐに視線を戻した。差し当たりグレブが用があるのはアーティファクトを金に換えてくれる場所。『鑑定士』の店だった。
◆ ◆ ◆
拠点の最奥、通りの突き当りにひっそりと居を構える建物。グレブは半分閉じたシャッター脇の呼び鈴を押した。鈍いブザー音が響き、すぐにシャッターが軋みを上げる。開きかけのシャッターをくぐって狭い通路に足を踏み入れると、脇で待機していた守衛──不愛想な目をした大柄な男──が、傍らのカウンターに向けて無言で顎をしゃくる。店内に続く鉄扉を押し開く前に武器や装備を預けるのがルールだ。ここでトラブルがあれば店内への鉄扉は遠隔でロックされ、永久に開かない。
グレブが武装解除する間、守衛はこれ見よがしにAKに手をかけていた。大げさな気もするが"宝"を扱う店としては必要な措置なのだろう。背嚢とライフルと腰のPPK、そしてナイフを置く。つかの間、グレブの装備重量が十数キロ分軽くなった。
守衛が頷くのを待ってからグレブは格納容器一つを抱えて改めて店内に入った。鑑定士の店の雰囲気は拠点のどことも異なっている。まるで古びた骨董店のような間取りだ。木製の棚が壁に並び、照明が霞む光を投げかけている。もちろん陳列されているのは骨董品ではない。ゾーンが生み出した奇怪な産物──アーティファクトだ。
赤い光を放つ球体、無色の透き通った結晶体、まるで脈打つ心臓のように蠢く塊、空中に浮かんでいること以外は何の変哲もないように見える泥の塊。それぞれがガラスケースや小窓のついた鉛の容器に収められ、微かなうなり声を上げている。グレブの目にはこの地の異常性が凝縮された彫刻であるかのように映った。
当然ながら、こうして堂々と陳列されているものは価値の低いものばかりだ。むしろ"インテリア"に近い。店主の趣味か、客を惹きつける演出か。本当に価値のあるアーティファクトは店の奥にある金庫の中、放射線を遮断する分厚い鉛の扉の向こうに隠されている。あるいはこの骨董店そのものも、ゾーンという更に大きな舞台装置の一部と言えるかもしれない。
「ルーキーか、こっちへ来な。」
カウンターの奥から低く嗄れた声が響く。アントン、鑑定士だ。鷲鼻の瘦せた男は積まれた書物の山から顔を上げ、丸い眼鏡の奥から値踏みするような視線をグレブに向けた。カウンターには専門的な測定器機器や拡大鏡、細かい工具が綺麗に整列している。モニターとキーボードは情報の照会と会計処理用だ。店の空気は油と紙、そして何か得体の知れない甘い匂いに満ちている。彼はアーティファクトを扱う者としてバラノフカで一目置かれていた。
「オレグたちは?」アントンの声にはわずかな嘲りが混じっているように聞こえた。グレブは格納容器をカウンターに置いた。
「俺一人だ。」
アントンは鼻を鳴らし書物を脇に押しやると、格納容器に手を伸ばした。「なるほど、一人で狩った初めての獲物って訳だな。」
彼は眼鏡をかけ直し、『月光』を取り出して検分し始めた。青白い輝きがカウンターの木目に揺らめく影を落とす。アントンの指は炭化タングステンの混ざった保護手袋越しに、まるで外科医のように慎重にアーティファクトを転がす。時折、小さなハンマーで軽く叩いては測定器が刻む波形を見た。
グレブは黙って見つめていたが心の奥では猜疑心が渦巻いていた。アーティファクトに関する知識と言えばゾーンに入ってから目にしたいくつかと、外の世界で読み漁ったゴシップ誌を通じたものが精々だ。店内に陳列されている"インテリア"もグレブには何という名前か分からない物がいくつかある。専門知識のない自分を相手に安く買い叩くのではないか。オレグはこの鑑定士を"良心的"と評していたが、良心とやらは外の世界においてすら希少に思える。
とは言え他にアーティファクトを売るツテもない以上、この男に頼るしかないのだが。せめて偶然手にした値打ち物を二束三文で奪われない程度の知識は身につけたいところだった。
新入りの訝しむような視線に気づいてか、鑑定士はしばし手を止めた。「昔はな、ルーキー、アーティファクトを大まかに分類して一律価格で買い取ってた時期があった。『火花』ならこれ、『石の血』ならこれ、ってな。」彼は鼻で笑い、検分を再開する。
「でも似たようなアーティファクトと間違えるトラブルが絶えなくてな。スタルカーどもにしたって少しでも高く売りたいから雑に買い取ろうとするディーラーにはケチをつけて騒ぐ。結局、そういうやり方は廃れた。」その口調は生徒に言い聞かせる老教師のようだ。恐らくは新入りが訪れる度に繰り返したであろう講釈。
グレブは頷きつつ、アントンの言葉を頭に刻んだ。見た目が似ていても効果や価値が大きく異なるアーティファクトもある。悪意の無い勘違いを発端に、時には血が流れたという話をオレグから聞いたことがある。
もちろん個人間での取引も不可能ではない。もし伝説的なアーティファクト──たとえば『液状石』や『極限立方体』を手に入れたなら、ゾーンの古株や大物クライアントと直接交渉できるかもしれない。しかしそんなことはグレブのようなルーキーには絵空事だ。外の世界の金持ちはもちろんのこと、伝説的な代物を欲しがる伝説的なスタルカーとどう連絡を取ればいいのか?ゾーンの奥深くで生き延びる彼らは影のように掴みどころがないものだ。
「だから俺みたいな鑑定士がいる。」アントンが口の端を歪めて続けた。「それぞれのアーティファクトの価値を測って、欲しがる顧客に仲介する。科学者ならエネルギー反応を求めるし、武器商人なら戦いに使えるかを重視する。スタルカーならアノマリーから身を護ってくれるものをな。『月光』みたいのは安定した需要がある。電力生成の原理を解明できれば新しい発電システムを開発できるかもしれんし、なんだったらバッテリーにそのまま詰め込む研究もされてるからな。」彼は測定器の数値を確認し終えると、電卓を叩いた。「お前のこれは純度が高い。初めてにしては上出来だ。」
鑑定士が提示した額を見た瞬間、グレブは思わず頬が緩むのを抑えきれなかった。ゾーンに来てからの稼ぎ──ルーキー村での雑務や護衛の報酬──をすべて足した額に近い。これなら2、3カ月は探索に専念できる。その間の滞在費や弾薬の購入、装備のメンテナンスに困らないだろう。酒場でパブロとオレグに一杯おごるくらいどうということはない。
だが、すぐさま借金の重さが胸を締め付けた。家族を残して故郷を離れた痛み。差し当たり利息分を払った上で元金の一部を削ることはできる。しかし全てを清算するにはこんな『月光』を何個も。いや、もっと価値あるアーティファクトを見つけなければならない。恐らくはゾーンの深部、真の宝が眠る場所で。そして、そこには数え切れぬアノマリーとミュータントも待ち構えているに違いないのだ。
カウンターの向こうで既に紙幣の束を数え始めていたアントンが顔を上げた。「支払いはどうする?」
「半分を口座に送金、半分を現金で。」グレブは無難に答えた。
アントンは頷き、カウンター脇のモニターを睨みながらキーボードを叩く。以前オレグ達と訪れた際に分け前を自身の口座へ送金してもらっている。「送ったぞ。」僅かなタイムラグを置いてグレブの携帯端末が小さく振動した。画面を確認すると口座に金が振り込まれているのが分かる。外の世界の銀行に繋がる細い命綱。借金の支払いもここから行われている。
ゾーンでの金のやり取りは拠点ごとに微妙に異なるルールで動くらしい。明確な犯罪行為が絡むような取引が多い場所では、当然、足がつきにくい現金が好まれるだろう。現金でない方のやりとり──すなわち電子的な決済も可能だ。
今や外の世界では電子決済が主流である。紙幣や硬貨は時代遅れとされ、スマートな取引を好む者が老若男女問わず多い。それはバラノフカの雑貨屋や武器工房においても同じらしく、鉄格子越しのカウンターに電子決済用のICリーダーが置かれている。武器や弾薬を買い、端末に指を滑らせて支払うスタルカーたちの姿はグレブの目にはどこか奇妙に見えた。
無論、電子決済には特有の問題も多い。まず通信インフラの利用可能圏内である必要があるし、なにより宙を飛び交う放射線や電磁波は携帯端末の天敵だ。アノマリーの気まぐれな潮流は繊細な電子回路を真っ先に焼き切る。壊れた携帯端末はもはや置物でしかなく、現金を持っていないのなら文字通りの無一文。ゾーンの荒野でライフルを失うことに次いで丸裸に近い状態だ。
軍用の高耐久端末もあるが、それですらある程度は壊れることを前提にせざるを得ない。だから几帳面なスタルカーはいつでも新規の端末に乗り換えられるよう、個人情報と紐づけされた長ったらしいアカウントパスを紙に書き、襟の裏に縫い付ける。もっと几帳面な者はそれを暗記する。
グレブもゾーンの外から持ち込んだ端末をいつも胸ポケットに忍ばせている。品質に定評のある海外メーカーのアウトドア向けモデルなお陰か、幸いまだ壊れていない。だがこの手の平サイズの相棒もいつゾーンの気まぐれを食らうか分からない。
そして残りの半額を現金で受け取る。アントンが差し出した束は多くの人の手を渡った紙幣特有の手触りを帯びていた。当然ながら、大金をゾーンで持ち歩くことはアーティファクトを背負うのと同じくらい用心が必要だ。グレブは常に手持ちの数枚だけを財布に入れ、残りは背嚢の底に隠している。そうすれば少なくとも何処かで金を払うとき、財布を盗み見た誰かに大金の存在を嗅ぎつけられるようなことはなくなる。
「次はもっと良いのを期待してるぞ、ルーキー。」鑑定士は指先を曖昧に振ると、再び書物に視線を落とした。
グレブは頷き、鉄扉を押し開けた。置いた時と同じ状態で通路脇の台に鎮座していた背嚢と銃器たちを回収すると、守衛の大男と視線を交わすことなく、緩慢に開いていくシャッターをさっさとくぐり抜けた。
バラノフカの外気が再びスタルカーを浴した。稜線に沈みかけた夕日が高い煙突の先端をわずかに染めている。男の歩みはゆるやかで、しかもどこか重たかった。初めての戦利品──それは確かな成功だった。だが、それを幾度も繰り返して果たしてこの先どこまで持ち堪えられるのか。頭のどこかでそうした思考がにじむ。
スタルカーなら誰もが通る道なのだろう。最初の一歩を踏み出した後、そのまま踏みしめ続けられるかどうかが問題になる。稼げば稼ぐほど、危険もまた増す。
グレブは自嘲気味に息を吐き、わずかに首を振った。とりあえず今は約束通りの場所に向かうべきだ。オレグとパブロ、彼らに一杯奢れば今夜はゾーンの重みを忘れられるかもしれない。少なくとも次の一歩がそれであることは疑いない。
ふと、視線が別の方向へと引き寄せられた。来た時の道とは反対方向、通りの端には白いプレハブ施設が立ち並ぶ。科学者たちの滞在する区域だ。無機質な壁、鉄のアンテナ、かすかに響く移動式発動機のうなり声。不自然に整然と建つその建物は近寄りがたいというより、どこか場違いな印象を与える。
まるでゾーンの混沌に無理やり秩序を押し込んだ異物だ。科学者たちはこのゾーンが誕生して以来、人知の及ばぬ魔境が秘めたる法則を解明しようと日夜研究に没頭している。スタルカーの中には彼らから護衛の依頼を受ける者もいる。そう言った点では科学者はスタルカーの上顧客と言える。なりふり構わず稼ぐつもりなのだから、いずれそういった仕事も引き受けるのだろう。だが、今は違う。
◆ ◆ ◆
酒場『狐の巣』はゾーンの夜を吹き払うような喧騒に満ちていた。
鉄臭さの混じった冷たい外気とは打って変わって、狭い空間に人が密集し、湿った体温と酒の匂いが鼻を突く。カード博打に興じる男達ががなり声を上げてテーブルにトランプを叩きつけ、負けた方がウォッカのグラスを一気に飲み干して吠える。または煙草の煙が渦巻き、まことしやかな噂話が繰り広げられる。「南の湿地で新しいミュータントが出た」「科学者どもがまた高額の護衛依頼を出している」。そんな話が笑いや野次と混じり合って響く。別の隅では疲れ切った顔の男が壁にもたれ虚空を見つめていた。
普通の酒場と違う点と言えば、皆一様にライフルを手元に置いている点か。酔っ払いに銃とは物騒極まりないが、酒の勢いでその手のトラブルを起こす輩はここへ辿り着く前に命を落としている。
グレブには当初、金を掴みにゾーンに来たはずのスタルカーたちが酒や博打で浪費する姿を愚かとしか思えなかった。だがここでの生活が続く内に次第に理解するようになった。ゾーン、アノマリーやミュータント、それにアーティファクトも。死と隣り合わせの毎日と時折垣間見える非現実的な光景。それらは人の心を蝕んでいく。少なくないスタルカーが、どこかおかしくなってしまうのだろう。その忍び寄る狂気を酒の力で一時だけ押しやる。そんな刹那的な熱気が酒場を満たしていた。
そしてその効果を引き立てる演出なのか、内装もまた酒場としての体裁が整えられている。少なくとも裸電球をそのまま吊るすような安っぽさはない。天井では鉄骨に取り付けられた照明が暖かい光を投げている。木製のテーブルや椅子も宿舎の備品と同じく、壊れたまま放置されるような怠慢はなかった。
壁にはゾーンの地図やアーティファクトやミュータントのスケッチ、または昔のロールプレイングゲームよろしく、フリーのスタルカーに対する仕事の募集広告も貼り出されている。外の世界の求人広告と大差ないスタイルのチラシ、依頼内容のみが淡々と箇条書きされた白地の印刷物。バラノフカ周辺のパトロールを募集する巨大な広告だけはやけに色褪せている。長い期間、定位置に貼られているそれは、ここでの定番の小遣い稼ぎでもあった。
カウンターでは無精髭を蓄えた男と下働きの異国人がグラスを丁寧に拭いている。背後にはウォッカやビールの瓶が並び、ゾーンで手に入る数少ない贅沢を誇示していた。
無精髭の男は『狐の巣』の店主であるミハイル。中年と呼ぶにはまだ顔つきに若さを残しており、その眼差しは酔っ払い相手に愛想を振りまくというより、客の一挙手一投足を品定めしているようにも思えた。
最初はただのバーテンダーかと思ったが、振る舞いを見るにバラノフカ全体に対して顔が効くらしい。かといって"元締め"と呼べるほどの権力者なのかは拠点に来て日が浅いグレブには分からない。第一、バーテンダーが拠点の元締めというのも妙な話だ。とは言えルーキー村では雑貨屋が暴君として圧制を振るっていたし、このゾーンにおいては珍しくもないのかもしれないが。
「おう、こっちだ!」奥のテーブル席から陽気な声が響く。
グレブが目をやると、オレグとパブロ、そしてここで知り合ったもう二人が座っていた。たしかセルゲイとヴィクトル。一人は髭面で火傷の痕が目立ち、もう一人は痩せた頬に細い目を持つ。どちらがどっちだったかグレブの記憶は曖昧だ。グレブよりは三ヵ月ほど前にゾーンに入りスタルカーとなった者達であり、先輩と言えなくもないが、経験の差はさほど無いだろう。そして紛れもない"先輩"であるオレグが寡黙にグラスを傾けているのを差し置いて、パブロは一端の常連気取りで足を投げ出していた。
「どうだ?金は掴んだか?」パブロがグラスを掲げ、からかうように言う。
グレブは椅子に腰を下ろし、額については言葉を濁した。「おごるよ、一杯な。」ウォッカを注文し、紙幣を滑らせる。パブロは笑い声を上げた。
「お宝を掴んだこの死にぞこないに乾杯!」グラスがぶつかり合う。酒が喉を焼き、グレブの疲れを一時的に溶かした。
パブロに乗せられる形でグレブは三日間の単独探索について語り始めた。光熱放射後のアーティファクトを狙い、焦りと期待に駆られて飛び出したこと。アノマリーの密集地帯を避け、空間を歪める重力の罠や皮膚を焼く酸の霧を検知器でかいくぐったこと。広陵とした地平に混ざって青く瞬く『月光』を発見した瞬間のこと。
そして、帰還の途上でミュータントの集団に目をつけられたこと。赤い皮膚、牙の並んだ口、笑い声のような鳴き声。決死の逃走と地下道での戦い。ついにAKの弾丸が尽き、PPKで応戦したこと。酒のせいでガラにもなく口が回る。ゾーンではありふれた話なのだろうが、グレブは語るうちについつい物語の英雄のような気分になってしまう。
だが、地下道で見た"幻覚"──動物の耳と尾を生やした子供、金色の目、血に濡れたPPKを握る小さな手。やけに現実感のあるあの不気味な存在について話すのは、どうにも憚られた。精神に作用するアノマリーの悪戯か、恐怖と極度の疲労の産物か。グレブは言葉を濁し「夢中で銃を撃った」とだけ言った。
「お前も分かってきたみたいだがな、焦りは禁物だぞ。」オレグだけが声を低くして言う。ルーキーの蛮勇に対し釘を刺すようなニュアンスを帯びていた。
ゾーンで七年生き延びたこの男の顔は風と放射能に削られた岩のようだった。深い皺、左目の下に走る古い傷跡。訛りの強い声は、どこか東部の出身を思わせる。彼の装備は研ぎ澄まされ、防護服には戦いの痕跡が目立つ。ルーキー村からグレブとパブロを連れ出したのがオレグだ。そう言った点で恩義を感じるし、腕に覚えのあるスタルカーから直接ゾーンの生き方を学べるのは願ってもないことだ。
一方で、何故自分とパブロに目を付けたのか疑問ではあった。ベテランがルーキーを食い物にする話は珍しくない。真っ先に尋ねはしたが、彼は「従軍経験があるなら他の新入りより見込みがある」と答えるのみだった。ルーキー村への所用からの帰りの行程で、それなりの距離を渡る為に多少は使い物になる同行者が必要だったという理由。
今にして思えば納得できる話なので、目の前の熟練スタルカーに対するその手の猜疑心はグレブの中では鳴りを潜めている。いずれにせよ男の言葉には有無を言わせぬ重みがあった。
「ああ、流石にヤバかった。次はもっと慎重になるよ。」ルーキーは助言を素直に聞き入れた。
グレブの視線がオレグの迷彩服の肩に縫い付けられたエンブレムに落ちる。狼の横顔、擦り切れた文字と装飾。ゾーンに来る前に漁った雑誌の記憶がよみがえる。それはゾーンを自由に解放することを掲げる集団のものではなかったか?政府の封じ込め政策や軍の検問に反抗し、この土地が秘める謎を民衆に開くことを夢見た連中。噂では彼らはゾーンの深部で壊滅したとも軍に買収されたとも言われていたが──。
◆ ◆ ◆
「で、そこでよ、一人の学者野郎が急に叫びながらぶっ放しやがった!ピストルで、バン!バン!って、まるでバケモンでも出てきたみたいにさ!」
その陽気な語り口にグレブもつい口の端で笑ってしまう。「で、何に撃ったんだ?」
「何もねえよ!ただの影だ!アノマリーの影が揺れてビビっただけ!」南米から来た男は手を振って笑い声を上げ、テーブルを叩く。セルゲイかヴィクトルも「学者のおもりも大変だな。」と笑い、酒を呷る。
グレブが居ない間に二人が受けていた科学者集団の護衛任務。事実をまとめるならば一番の働きを見せたのは間違いなくオレグなのだろうが、しかしゾーンの恐怖を笑いものに変えるこの男の軽さはグレブにとっては羨ましくもある。そしてオレグ自身も案外聞き入っているのか、口を差し挟むような真似はしなかった。
──会話の途中で何かに気づいたわけではなかった。
周囲の騒がしさに紛れて、ヒタヒタと歩く音、何かをズルズルと引きずる音を無意識が捉えたのかもしれない。グレブは何気なく振り向いた。
"それ"が扉をくぐって入ってきたところだった。ブカブカの迷彩服を着た裸足の少女。頭に三角の耳。背中で揺れる尻尾。小さな手がボロボロの白袋を握っている。
途端に心臓を冷たい手が掴むような感覚が走った。地下道で見た『幻覚』──ひょっとすると自分はまだあの地下道で幻覚を見続けているのではないか?足元が揺らぐ感覚にグレブはグラスを握り潰しそうになった。
「おいおい、なんでガキがいるんだ?」パブロの笑い声がグレブの空転した思考を無理やり引き戻した。
「ゾーンでコスプレかよ、すげえな!」赤ら顔でグラスを振る。アルコールでほぐれたパブロの脳はあの耳と尻尾をハロウィンの仮装とでも解釈したらしい。だがグレブは気づいた。オレグが押し黙り、鋭い目を少女に向けていることを。酒場の馴染みと思しき者達も用心深く視線を送っている。酒場のざわめきが途切れ、周囲の空気が霧のように重く漂い始めたかのようだ。
「ミハイル、おやつちょうだい!」少女がカウンターの前で袋をドサリと下ろし、あの地下道で聞いたのと同じ高い声を上げた。
袋の口が開き、ガラクタがこぼれる。錆びたボルト、割れたガラス、ミュータントの身体の一部らしきもの——に混ざって、青く、赤く、脈打つように輝くアーティファクトがいくつも転がり出た。『火花』『血の石』『夜の雫』、いずれもゾーンの深部で採れる逸品だ。酒場の電灯がその光を反射しスタルカーたちの目が貪欲に輝く。パブロも一発で酔いが覚めた様子で、ただ口を開けている。
少女に声をかけられた瞬間、店主のミハイルが硬直したのをグレブは見逃さなかった。すぐに浮かべた笑顔はぎこちなく不自然だ。
「お、キツネか。今日は大漁だな。」彼はカウンターの下からチョコレートか何かの包みを取り出し、差し出す。少女は包みを乱暴にむしると、子供の笑顔で頬張り始めた。
「なんだ、アイツは?」グレブは声を低く抑えオレグに尋ねた。心臓がまだ冷たく締め付けられている。
熟練のスタルカーはカウンターを見据えたまま目を細める。「あれは…歩く超常現象さ。」
彼の声はゾーンの風のように冷たく、どこか遠い記憶を思い起こすようだった。グレブはお菓子を頬張る少女を黙って見つめる。ふさふさの尻尾が揺れ、三角の耳がピクンと動く。酒場の騒がしさが徐々に戻るが、それでもスタルカーたちの視線はアーティファクトと異形の少女を行き来していた。
人間のようでいて、どこか違うもの。
無邪気な笑顔は、ゾーンの禍々しさを孕んでいるようにも見えた。